生活の中の仏教用語 - [150]
「同朋」
小野 蓮明(おの れんみょう)(教授・真宗学)
ひとしく真実の教法に結ばれて生きるともを、同朋・同行という。
釈尊と仏弟子たちが、教法に統理されたさんが僧伽と呼ばれる和合衆を形成されたように、真実の教えは、人間のもっとも本来的ないのちの共同性に目覚めたたしめ、教法に統理された共同体を生むものである。本願念仏の教えに開かれる目覚めを信心というが、信心は個人の内的な自覚体験にとどまるものではなく、念仏の法に帰して生きる人びとを新しく連帯せしめ、「ともの同朋」といわれる和合体の世界を開くものである。
親鸞の場合、関東在住の約二十年の間、ひたち常陸(茨城県)を中心に下総(しもうさ)下野(しもつけ)にわたって、数多くの人びとを教化された。しかしそれは、人の師となろうとしてのことではなかった。むしろそれは、
ぶって仏慧功徳をほめしめてと詠われたように、本願念仏の教えを、いまこそ身をもって証していくという責任と使命によっていた。その教化の態度はつねに、内には「名利に人師をこのむ」ことへの厳しい懺悔と、外には「弟子一人ももたず」という徹底した姿勢を貫き、また、門侶に対しては「御同朋・御同行」とかしずき、深い敬愛の念をもって交わられたといわれる。それらの人びとの多くは「下類」とさげすまされ、「いし・かわら・つぶて」のように生きる群萠の生活者たちであった。親鸞は、仏の本願に喚びさまされて念仏に生きる人びとを、つねに友とし同朋として、ねんごろに交わっていったのである。
十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは
つねに仏恩報ずべし
利害にとらわれて生きる現代には、あらゆる面で人間の孤立化・孤独化の現象があらわれている。人間が一つのいのちを共に生きるものとして、いのちの共同性に目覚めたって生きる真の和合体、同朋社会の顕現こそ、現代の課題の一つである。中国浄土教の曇鸞が、「遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり」(『浄土論註』)といわれたような、同朋社会の実現が望まれる。