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天下五剣の名刀 数珠丸恒次/ホームメイト
日本刀の名刀

天下五剣の名刀 数珠丸恒次 - ホームメイト

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「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)は、「天下五剣」(てんがごけん)に列せられる太刀(たち)の名刀です。日蓮宗(にちれんしゅう:法華宗[ほっけしゅう]とも)の開祖である「日蓮」(にちれん)の愛刀として知られ、柄(つか)に数珠を巻いていたことが「数珠丸」という号の由来となっています。また数珠丸恒次は、一時行方不明となり、1920年(大正9年)に発見されますが、行方が分からなくなった時期も経緯も不明であり、発見された数珠丸恒次の真贋すら疑われるという謎に包まれた太刀でもあるのです。不思議な名刀・数珠丸恒次の来歴、そして特徴に迫ります。

数珠丸恒次
様々な「名刀」と謳われる刀剣を詳しくご紹介します。

数珠丸恒次とは

法具の名を冠した稀有な名刀

数珠丸恒次は、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「大典太光世」(おおでんたみつよ)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)とともに天下五剣に選ばれている歴史上屈指の名刀です。

江戸時代中期には、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」の命により、刀剣鑑定家一族の「本阿弥家」(ほんあみけ)が編纂した名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)にも記載されました。

数珠丸恒次
数珠丸恒次
恒次
鑑定区分
重要文化財
刃長
82.1
所蔵・伝来
日蓮

江戸時代には押しも押されもせぬ名刀として高く評価されていた数珠丸恒次ですが、武具として戦国武将や、名だたる剣豪の手にあったわけではありません。数珠丸恒次は、日蓮宗の開祖である日蓮によって、身延山(みのぶさん)にある「久遠寺」(くおんじ:山梨県南巨摩郡身延町)にもたらされ、寺に伝えられた太刀なのです。

日蓮

日蓮

1274年(文永11年)、日蓮ははじめて身延山に登ることを決めますが、当時は山賊が出没するなど決して安全な山ではありませんでした。そこで、信者が護身用として太刀を寄進します。刀身の美しさに心惹かれた日蓮は、に数珠を巻いて破邪顕正(はじゃけんしょう:誤った考えを打ち破り、正しい道理を示し守ること)の太刀として佩刀。無事に身延山を登り切り、庵を結びました。

この逸話から、太刀に数珠丸の名が付けられたと言われています。日蓮の没後、数珠丸恒次は久遠寺に納められ、日蓮の袈裟(けさ)、中啓(ちゅうけい:扇の一種)とともに「三遺品」として大切に保管されました。

日蓮に数珠丸恒次を寄進した人物とは

久遠寺

久遠寺

日蓮へ数珠丸恒次を寄進した信者が誰であったのかについては、2つの説があります。

ひとつは、鎌倉時代の御家人「南部実長」(なんぶさねなが:波木井実長[はきいさねなが]とも)という説。身延山は南部実長の領地にあり、ここへのちに久遠寺となる住居を建て、日蓮を招いたのです。その際に数珠丸恒次を寄進したとされています。一般的によく知られているのは、この南部実長寄進説です。

もうひとつ、鎌倉幕府の執権「北条氏」に連なる「北条弥源太」(ほうじょうやげんた)が寄進したという説があります。北条弥源太は、日蓮が身延山に入る3ヵ月前に大小2振を寄進しており、このうちの大刀(だいとう)が数珠丸恒次ではないかと考えられていました。しかし、北条弥源太が寄進したのは、三日月宗近の作者としても有名な「三条宗近」(さんじょうむねちか)の作品とも伝えられているため、数珠丸恒次の(なかご)に切られた「恒次」の(めい)とは矛盾してしまうのです。

数珠丸恒次を鍛えた刀工

数珠丸恒次の茎に「恒次」と銘を切った作者であると伝えられているのは、鎌倉時代に活躍した刀工「青江恒次」(あおえつねつぐ)です。

青江恒次の父である「青江守次」(あおえもりつぐ)は、備中国青江(現在の岡山県倉敷市)を拠点として作刀に携わった刀工一派「古青江派」の始祖とされます。青江恒次は3兄弟の次男で、兄と弟も刀工であり、3兄弟揃って「御番鍛冶」(ごばんかじ)を務める名工でした。

御番鍛冶とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、82代天皇であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が全国各地から名工を招き、月番を定めて作刀にあたらせた制度です。青江恒次は、朝廷から「備前守」(びぜんのかみ)という受領名(ずりょうめい)を授かっており、優れた刀工であったことが分かります。

一方、近年の研究では、作風の違いなどから古青江派の青江恒次ではなく、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて備前国(現在の岡山県東南部)で栄えた「古備前派」の刀工「左近将監恒次」(さこんのしょうげんつねつぐ)の作品ではないかとする説が有力視されているのです。

数珠丸恒次は、古青江では見られない地映り(じうつり:地鉄に現れる白い影のような模様)があり、地肌も古備前の小板目肌(こいためはだ)。古青江らしい縮緬肌(ちりめんはだ)ではなく、澄肌(すみはだ)も現れていません。

鑢目の違い

鑢目の違い

また、茎が抜けにくいように施す鑢目(やすりめ)が、古青江なら縦に近い急角度の斜線である「大筋違鑢」(おおすじかいやすり)ですが、数珠丸恒次の茎に施されているのは古備前同様の「筋違鑢」(すじかいやすり)であることなど、いくつかの理由が古備前であることを示しているのです。

数珠丸恒次の作者については、多くの研究者や刀剣鑑定家が「古青江ではなく、古備前の恒次」との意見を持っているとされますが、さらなる研究が期待されていると言えるでしょう。

数珠丸恒次の逸話

日蓮に数珠丸恒次を寄進したのは誰なのか、そもそも作者である恒次は古青江の刀工なのか古備前の刀工なのか、数珠丸恒次は謎に包まれた太刀ですが、不思議なことはこれだけではありません。数珠丸恒次は一度伝来の上でも姿を消しているのです。

日蓮が没したのち、遺品である袈裟、中啓とともに三遺品として久遠寺にて厳重に保管されていたはずの数珠丸恒次でしたが、いつの間にか行方不明になってしまいました。しかも消えた時期や、その理由すらはっきりしません。

「江戸時代初期に紀州徳川家に伝えられたものの1645年[正保2年]頃に行方が分からなくなった」という説がある一方、「明治維新後に起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を廃絶すること)の渦(うず)から寺の宝を守るために紀州徳川家に持ち込まれた」とする説もあります。また、「1736年(享保21年/元文元年)頃に久遠寺から盗まれた」とも言われているのです。

ところが、1920年(大正9年)、数珠丸恒次は刀剣研究家の「杉原祥造」(すぎはらしょうぞう)によって発見され、唐突に歴史の表舞台へ再登場することになります。杉原祥造は、華族の競売品の中に数珠丸恒次があることを知り買い取ったものの、どの華族家から入手したのかは明かしませんでした。

本興寺

本興寺

そののち、杉原祥造は久遠寺に返納しようとしましたが、久遠寺側は発見された太刀が本当に数珠丸恒次かどうか疑わしいとして受け取りを拒否。数珠丸恒次は杉原祥造宅に近い「本興寺」(兵庫県尼崎市)に寄進されました。

数珠丸恒次は1922年(大正11年)4月13日に旧国宝に指定。現在は重要文化財に指定されており、本興寺では毎年11月3日に実施されている「虫干会 大宝物展」に合わせて1日のみ一般公開されています。

数珠丸恒次の鑑賞方法

日蓮を守った破邪顕正の太刀であり、その歴史においても神秘性をまとった数珠丸恒次。ここでは、そんな数珠丸恒次の「姿」、地鉄、「刃文」(はもん)、茎を取り上げ、刀身の特徴について見ていきます。

時代を映す壮麗な姿

数珠丸恒次の刀身は、刃長83.9cm、反り3.0cm、茎に近い元幅(もとはば)が3.1cm、鋒/切先(きっさき)側の先幅(さきはば)は1.8cmです。手もとから鋒/切先に向かって身幅(みはば)が顕著に狭くなっていくのが見て取れるのではないでしょうか。このような刀身の姿を、人が両足に力を入れて立っている姿勢になぞらえて「踏張りが強い」と表現します。また、反りは茎に近い方で強く、鋒/切先に近い部分ではほぼまっすぐです。これは「腰反りが高い」と言います。

数珠丸恒次の刀身

数珠丸恒次の刀身

鋒/切先のかたちは、長さが短く小振りな「小鋒/小切先」(こきっさき)です。太刀の鋒/切先は時代が新しくなるほど長大になる傾向があり、数珠丸恒次の鋒/切先は平安時代末期から鎌倉時代初期の特徴をよく表しています。

鋒/切先の種類

鋒/切先の種類

地鉄に現れた乱映り

数珠丸恒次の地鉄は、板の木目のように見える模様が細かな小板目肌。さらに、地鉄に光を当てると白い影のような模様がうっすらと見られます。これを「映り」(うつり)と言い、数珠丸恒次の映りは白い影の曲線が不規則に現れる「乱映り」(みだれうつり)です。

数珠丸恒次_小板目肌

小板目肌

数珠丸恒次_乱映り

乱映り

刃文は小足が見られる直刃調

丁子の実

丁子の実

刃文は、ほとんど波を打たない直線的な「直刃」(すぐは)調。鋒/切先まですっと伸びた鋭利な美しさが印象的ですが、ところどころに丁子(ちょうじ)の実が連なったような細かい波の「小丁子」(こちょうじ)が交じります。

また、刃文に「小」(こあし)と呼ばれる働きが見られるのも特徴です。小足とは、刃縁(はぶち)から刃先(はさき)へ向かって差し込まれている短い線状の模様のことを指します。

数珠丸恒次_丁子

丁子

数珠丸恒次_小足

小足

歴史的にも貴重な生ぶ茎

数珠丸恒次の茎は、先端が栗の実のように丸みを帯びた「栗尻」(くりじり)で、作刀された当初から手が加えられていない「生ぶ茎」(うぶなかご)です。

戦国時代には、太刀と比較して刀身が短く軽量な「打刀」(うちがたな)が日本刀の主流となったため、多くの太刀は茎尻より切り詰めて刀身全体を短くする「磨上げ」(すりあげ)が行われました。そのため、生ぶ茎のまま現代まで受け継がれている数珠丸恒次は、作刀当時の姿を知ることができるという観点からも貴重な1振なのです。

茎にある「目釘穴」(めくぎあな:刀身を柄に固定する目釘を通す穴)はひとつ。佩表(はきおもて)の目釘穴より「」(はばき:刀身の[つば]に接する部分にはめる固定用の金具)に近い棟/峰(むね/みね)側に「恒次」の二字銘(にじめい)が切られています。

栗尻の茎

栗尻の茎

恒次の二字銘

恒次の二字銘