全国の日本刀を鑑賞できる場所として名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)は、最大で刀剣200振、甲冑50領、浮世絵150点、火縄銃・古式西洋銃350挺を展示できる博物館です。刀剣・甲冑・浮世絵・火縄銃・古式西洋銃が一体となったこだわりの展示方法で、刀剣博物館としてだけでなく、甲冑博物館、浮世絵博物館・鉄砲博物館としても利用できる博物館となっています。当博物館の見どころは展示だけではありません。等身大の甲冑武者・騎馬武者人形、写真撮影できるフォトスポット、迫力ある映像が映し出される体験型シアターなどが設けられており、様々な角度からお楽しみいただくことが可能です。皆様のご来館をお待ちしております。
刀剣とは、刀身、または剣身を備えた武器の総称で、日本では、一般的に片刃の物を「刀」、両刃の物を「剣」として区別しています。
また、「銃砲刀剣類所持等取締法」(銃刀法)では、刀剣を「刃渡り15cm以上の刀、槍、及び薙刀(なぎなた)」、そして「刃渡り5.5cm以上の剣、合口(あいくち)、飛び出しナイフ」と定義。
主に「打物」(うちもの:打って鍛えた武器)を指し、その種類は、「剣」、「大刀」(たち)、「打刀」(うちがたな)、「脇差」(わきざし)、「短刀」などで、「槍」や「薙刀」といった「長柄武器」も入ります。
刀剣とは、「刀」(片側だけに刃が付いた片刃)と「剣」(左右両方に刃が付いた両刃)の総称、刀剣類のことです。一般的に、片刃は「物を切断する」ことに長け、両刃は「物を突き刺す」ことに長けていると言われます。
刀剣類は世界中にあり、日本には古墳時代に、中国から伝えられました。しかし、平安時代中期、日本独自の製法で作られた画期的な刀剣、日本刀が誕生するのです。なお、日本独自の製法とは、「玉鋼」(たまはがね)を原料に「折り返し鍛錬」(おりかえしたんれん:熱して打ち延ばし、折り返して2枚を重ね、また打ち延ばす作業を繰り返すこと)がなされた物のことを言います。つまり、日本で言う刀剣とは、日本刀のことなのです。
日本の刀剣は、約10種類です。それは、「直刀」(ちょくとう:反りがない真っ直ぐな刀)、「太刀」(たち:平安時代に誕生した片刃の鎬造りで反りがある湾刀。刃を下に向け、腰帯に吊るして佩く刀)、「大太刀」(おおたち:南北朝時代に登場した長い太刀)、「打刀」(うちがたな:室町時代に登場した、片刃の鎬造りで反りがある湾刀。刃を上に向け、腰帯に差す刀)、「短刀」(たんとう:刀身が1尺以下の刀剣)、「脇差」(わきざし:1尺以上、2尺未満の刀剣)。
また、「槍」(やり:長い柄の先に穂[先の尖った刃]を付けた武器)、「薙刀」(なぎなた:長い柄の先に反りのある刀剣を付けた武器)、「長巻」(ながまき:長い柄の先に長い刀剣を付けた武器)、「剣」(つるぎ:両刃で直線的な剣身を持つ刀剣)です。刀剣の種類は1種類ではなく、日本の長い歴史と共に、進化し増えていきました。
刀剣は、日本の法律「銃砲刀剣類所持等取締法」(じゅうほうとうけんるいしょじとうとりしまりほう:略して銃刀法)によって、所持や携帯が規制されています。
しかし、「銃刀法第14条の規定による登録を受けたものを所持する場合」という例外があり、「銃砲刀剣類登録証」がある刀剣は、所持することが認められているのです。
「銃砲刀剣類登録証」とは、刀剣を購入した場合、必ず付属される登録証明書のこと。さらに刀剣の購入者は「銃砲刀剣類等所有者変更届出書」を提出することにより、正式に刀剣の所有者となります。なお、刀剣を持ち運ぶ場合は、必ずこの登録証を携帯しなければいけません。
「日本刀」とは、「玉鋼」(たまはがね)を使って、日本独自の「折り返し鍛錬」という方法により、日本で作られた刀剣のことを言います。
日本刀の用途は、当初は「武器」のみでしたが、神秘的で美しいため、次第に神や天皇に捧げる「宝物」と見なされるようになり、やがて「美術品」として扱われるようになりました。特に顕著となったのが、1945年(昭和20年)「第二次世界大戦」の日本の敗戦以降です。日本刀は武器と判断され、一斉 の所有を禁止。しかし、「日本刀は武器ではなく美術品」だという主張が認められて、美術品としてのみ所有が許されたのです。
したがって、現在において日本刀とは、玉鋼を使用して、折り返し鍛錬を施して、日本で作られた刀剣であり、美術品であると定義できるのです。
日本刀は種類だけではなく、作刀された時代によっても区分することができます。それは、「古刀」(ことう)、「新刀」(しんとう)、「新々刀」(しんしんとう)、「現代刀」(げんだいとう)。
「古刀」とは、平安時代中期から1595年(文禄4年)までに作られた日本刀のこと。それぞれの刀工が住む地域の砂鉄から玉鋼を製鉄し、地域独自の伝法を守って作刀されていたのが特徴です。
「新刀」とは、1596年(慶長元年)から1780年(安永9年)までに作られた日本刀。均質な鋼が流通し、地域による地鉄の差がなくなりました。
「新々刀」とは、1781年(天明元年)頃から1876年(明治9年)廃刀令頃までに作られた日本刀。刀工が五箇伝をマスターし、注文に応じて自在に作り分けられるようになったのが特徴です。
「現代刀」とは、新々刀期以降から今日までに作刀された日本刀のことを言います。ちょうどこの区分に前後して、日本に大きな戦が起こり、戦闘形式が変化して日本刀の形や材料、技術も変化しました。歴史的に重大な出来事が起きたとき、日本刀も進化したのです。
「刀」(かたな)とは、広義には刀剣全体を指しますが、狭義には「打刀」(うちがたな)のことを言います。
打刀は、日本刀の種類のひとつ。室町時代に、戦闘形式が「馬上戦」から「徒戦」(かちいくさ:徒歩で戦う戦)へと変化する中で、太刀に代わって登場しました。
太刀が馬上戦で相手を「断ち切る」ことを主目的としていたのに対し、打刀は徒戦で相手を「打ち切る」ことが主目的。太刀は刃を下向きに帯に吊るして佩く刀剣ですが、打刀は刃を上向きに腰に差して帯刀するのが特徴です。打刀は太刀よりも刃長が短く、腰帯に差し扱いやすかったために、太刀に代わって大流行。やがて略されて、刀と呼ばれるようになりました。
江戸時代には、刀剣鑑定家の本阿弥家が「2尺(60.6㎝)以上、2尺6寸(78.8cm)以下の物が刀である」と定義。大小二本差の「大」の方を刀と呼ぶようになりました。
日本刀は、その名称が示す通り日本独自の鍛刀方法で作刀した刀剣類を指します。その歴史は古墳時代にまでさかのぼり、古墳時代には鉄の加工技術や製鉄技術が大陸から伝来し、日本でも刀剣類が作刀されるようになりました。
日本刀の歴史のなかで、古代から中世にかけて作られた物を「上古刀」(じょうことう)、「古刀」(ことう)、「末古刀」(すえことう)と分類します。上古刀期は古墳時代から平安時代初期までで、反りのない直刀が主流の時代でした。古刀期は平安時代中期から室町時代中期までで、反りが深く長大な日本刀が多い時代です。続いて末古刀期は室町時代末期から安土桃山時代末期の1596年(慶長元年)までのこと。末古刀期になると「打刀」が登場し、刀身の形状も反りが浅くなり古刀期と比べると短い日本刀が増えていきます。ここでは上古刀から順に、誕生し普及した理由や、代表的な日本刀などについて解説していきます。
上古刀は、「上古時代の刀」と言う意味です。この時代の日本刀は、反りや鎬といった日本刀の特徴はまだなく、直刀の片刃造りでした。当時は、中国大陸との交易がさかんであったこともあり中国から文化や宗教などの影響を色濃く受けています。その他甲冑(鎧兜)、そして武器となる刀剣も大陸様式の直刀が主流だったのです。
上古刀の歴史がはじまる古墳時代より前の弥生時代後期には、すでに鉄を加工する鍛冶の技術が伝来し、日本では鉄器が生産されるようになっていました。この時代の遺跡からは、鉄製の短剣などが発掘されています。古墳時代に入ってからは砂鉄から鉄を精製する製鉄技術も伝わったとされ、輸入の鉄に頼るのみではなく国産の製鉄へと切り替わりつつありました。こうしたことを受けて、鉄製武器の種類も増えていったと考えられるのです。
神話上の人物とも言われる11代「垂仁天皇」(すいにんてんのう:在位は4世紀前期頃と推定)のもとには、鍛冶技術者達である「倭鍛冶部」(やまとかぬちべ)らに1,000振の日本刀を打たせ「石上神社」(奈良県天理市)に奉納したと「日本書紀」に書かれています。つまり当時日本では、すでに独自の技術者が育つほどに鍛冶を行う環境が整っていたと考えられるのです。
こちらも神話上の日本刀となりますが、皇室を象徴し天皇が譲位する際に用いられる「三種の神器」のひとつ「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ:別名『草薙剣』)や、「石上神社」(奈良県天理市)に伝わる宝刀「七支刀」(しちしとう)なども上古刀の物として有名です。
その後、古墳時代末期から飛鳥時代初期の間に刃の幅が狭く勾配の急な「切刃造り」の大刀が登場。さらに、「鎬」と言う刃と峰/棟(みね/むね)の間に高い稜線を持つ「鎬造り」の大刀もこの頃から用いられはじめました。
飛鳥時代末期頃に仏教を推進するか否かで蘇我氏と物部氏の対立「崇仏論争」が起きていました。その争いは蘇我氏と物部氏の間で何代も続き、幾度も戦をし、ついには「聖徳太子」や「豊御食炊屋姫尊」(とよみけかしきやひめのみこと:のちの『推古天皇』)を巻き込み、仏教推進派の蘇我氏が勝利を掴んだのです。こうして戦の規模が拡大したことで国内での大刀の需要が増加していきました。
また聖徳太子は、戦いの勝利を記念して「四天王寺」(大阪市天王寺区)を建立。そこに聖徳太子が愛用したとされている「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)と「七星剣」(しちせいけん)が伝わっています。
丙子椒林剣は、切刃造りの直刀で、刃はやや内反りですが峰/棟はやや外反り。腰元に「丙子 椒林」と金象嵌(きんぞうがん:ひとつの素材に異なる素材を嵌め込む技法)されています。上古刀期の中では最も良い出来と評され、すっきりとした刀身と優美な姿が特徴です。
七星剣は、刀身に北斗七星や雲、竜虎などが金象嵌で描かれています。また、茎(なかご)の尾部は欠損していますが、この欠損部に目貫穴(めぬきあな:鞘から刀身が抜けないよう釘を通す穴)の痕跡がかすかに認められることから、かつては現存する以上の長さがあったことが分かります。
「古刀」は、平安時代中期から室町時代中期までに作刀された日本刀を指します。上古刀の日本刀は反りがほとんどない直刀が主流でしたが、古刀は反りが深くなり鎬の位置が刀身の中央で稜線を描くようになるのです。また日本刀に反りが付いた理由には、武士の台頭と密接なつながりを持ちます。
刀剣界に大きな変化が訪れた平安時代中期、下総国(現在の千葉県中部)を本拠としていた「平将門」(たいらのまさかど)が自らを「新皇」と称して反乱を起こし関東に国を作ろうとしたのです。しかし「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)らが応戦し940年(天慶3年)に鎮圧。さらに武家の勢力が活発になり「前九年の役」や「後三年の役」による地方武士の反乱が起き、それを鎮めるために武士が向かうことでより武家の勢力が増大し朝廷での力を付けていきます。
こうした大きな戦が勃発したことに伴い、これまでの直刀に変わり、反りの深い鎬造りの「湾刀」となる「太刀」が使用されるようになりました。直刀から湾刀へと変化した背景のひとつとして、騎馬戦の登場が挙げられます。馬上から刀を振り下ろす、または薙ぐためには長寸で反りがある湾刀が適していたのです
平安時代中期頃の日本刀の刀身は、細身で元幅(茎に近い部分の刀身幅)と比べ先端が狭く、鋒/切先は先が詰まって小切先となります。軽量化を図るために刀身の中央に稜線が入る鎬造りを採用。さらに茎から近いところに反りの中心がある、腰反りといった姿をしています。
この時代を代表する刀工は、伯耆国(現在の鳥取県)で活躍した「大原安綱」(おおはらやすつな)を祖とする、大原一門です。大原安綱は、国宝であり天下五剣の1振でもある童子切安綱を鍛えました。
大きな力を付けた武家同士である源氏と平氏の争いが、源氏の棟梁「源頼朝」(みなもとのよりとも)側の勝利により収束。
源頼朝が、初の武士による政治体制・鎌倉幕府を樹立させたことが、刀剣にも大きな変化をもたらしました。平安時代の優美な姿から一変して、実用性重視の豪壮な姿へと変わっていきます。
身幅(刀身の横幅)は広く、重ね(刀身の厚み)は厚く、手元に近い部分が反る腰反りから、中ほどが反る「中反り」へと変化。鋒/切先は、長さの詰まった「猪首鋒/切先」(いくびきっさき)が主流となりました。頑丈な「大鎧」などを叩き切るのにふさわしい姿です。さらに鎌倉時代の中期には、幕府が力を注いだことにより、独自の鍛刀方法「相州伝」が発展します。山城伝の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の息子「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)が開祖と言われ、のちに新藤五国光の高弟である正宗が相州伝の作風を完成させました。相州伝の伝法は評判となり、のちに山城伝や備前伝にも大きな影響を与えます。
刃文に「湾れ」(のたれ)や「互の目乱れ」(ぐのめみだれ)を交えた、従来にはなかった大乱れの豪華絢爛な華やかな刃文を確立。正宗の作風は、鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響を与え「正宗十哲」(まさむねじってつ)と呼ばれる刀工まで生まれます。その大部分は後世の呼称であり、正宗とは実際の師弟関係ではありませんが、正宗の相州伝が各地に及ぼした影響の大きさがよく分かる逸話です。
鎌倉幕府が相模国(現在の神奈川県)の鎌倉で樹立した頃、京都では「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が日本刀を作るために「御番鍛冶」(ごばんかじ)制度を設けました。これは決められた刀工達に月変わりで作刀をさせるというもので、当時活躍していた山城国の「粟田口久国」(あわたぐちひさくに)や備前国の「一文字則宗」(いちもんじのりむね)などが鍛刀しました。この制度には、朝廷を守る武士達の士気を高めることや、日本刀の技術や文化水準を上げるための意味合いがあったと言います。
御番鍛冶としては正月番を担った一文字則宗は、16葉の「菊紋」を切るのを許されたことで「菊一文字」(きくいちもんじ)、もしくは「菊一文字則宗」と呼ばれることになりました。菊は後鳥羽上皇が好んだ自身の印であり、のちに皇室の印として定着していきます。しかし、実際には、則宗の作品で菊紋の切られた日本刀は現存しません。そのため、一説には「菊一文字則宗」とは「菊御作」(きくごさく)と混同した、後世の誤伝ではないかと考えられています。
後鳥羽上皇はのちの1221年(承久3年)に、当時の鎌倉幕府執権の「北条義時」(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げますが、あえなく敗れ隠岐島に配流されます。けれど後鳥羽上皇は、隠岐島でも刀工達を呼び寄せ日本刀を作り続けました。鍛刀した刀工達を「隠岐国の番鍛冶」(おきのくのばんかじ)と呼び、前述した粟田口国綱ももとはこの島で番鍛冶を務めていたと言います。
鎌倉時代中期から鎌倉時代末期の、1274年(文永11年)の「文永の役」、1281年(弘安4年)の「弘安の役」で2度にわたる「元寇」(蒙古襲来)を受け、日本刀はさらに発達しました。それまで、武士の戦い方と言えば一騎打ちであったため、集団戦を仕掛けてくる蒙古軍との合戦には通用せず、苦戦を強いられたと伝えられています。
備前伝「長船派」(おさふねは)の刀工「景光」(かげみつ)などが、刃文を焼き幅の広い作風から、直刃(すぐは)で焼き幅の狭い作風へと変えました。焼きが入ると硬度が高くなり、切れ味は良くなりますが、欠けたり、折れたりしやすくなります。そこで、焼き幅を狭くして、刃の部分の切れ味を保ったまま、折れにくい弾力性を持つように工夫を施したのです。こうして日本刀は、より実戦的な「折れず 曲がらず 良く切れる」という特性を備えることとなりました。
鎌倉時代末期には、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は「元弘の乱」で鎌倉幕府を倒すと、京都で天皇中心の政治を行うため「建武の新政」を開始しました。けれど配下だった「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が反旗を翻し、後醍醐天皇は京都を追われ大和国吉野(現在の奈良県吉野郡)で南朝を、足利尊氏は京都で別の天皇を擁立し北朝を立てる南北朝時代がはじまります。こうして鎌倉幕府の崩壊から、各地で動乱が起こりやすくなり日本刀の需要はさらに高まっていきました。
南北朝時代の日本刀は、90cm近い大振りで、身幅の広い「大太刀」が誕生します。しかし困ったことに、大太刀は長さと幅の太さの分だけ重量が重くなってしまうもの。
そこで軽量化を図るため重ねを薄くして、また強度が落ちるのを防ぐため、数種類の鋼を組み合わせて鍛えることで補いました。この鍛刀方法を編み出したのも相州伝であり、勇壮で実戦的な相州伝は広く全国へ普及したのです。
「末古刀」は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて作刀された日本刀の総称です。文字通り「古刀」の末期という意味であり、当時は室町幕府があまり機能しなくなり「応仁の乱」をはじめ各地で戦乱が増え、最も過激化していた時代でした。「武田信玄」や「織田信長」など、自らの覇権を賭け主家を倒し下剋上をする戦国武将らが台頭。このような乱世に作られた末古刀は、どんな特徴を備えていたのでしょうか。
末古刀は、「鎌倉時代に作られた古刀に比べると劣るのではないか」そういった意見を持たれることがありました。もちろんこれは事実ではないのですが、このような考えを抱かれるのには理由があります。
この時代、日本刀は明への重要な貿易品として大量に生産されるようになっていました。そこへ来て、応仁の乱によって再び戦乱の世がはじまると、身分の低い足軽に貸し出す大量の「お貸し刀」が必要になります。これらによる膨大な需要に応えるため、粗悪な「数打物」(かずうちもの)や「束刀」(たばがたな)と分業による組織的な大量生産をこなすようになりました。その数は、なんと100万振。これを行ったのが、「末備前」(すえびぜん)と呼ばれる、長船派の刀工「祐定」(すけさだ)と「勝光」(かつみつ)です。
末備前は、1504年(永正元年)頃から1592年(文禄元年)の前までに、備前国で作られた日本刀のこと。増大した武器としての日本刀の需要に応えたため、備前刀のなかでも、質、量共に最大の作刀期間となりました。それでいて数打ち物という安価な既製品だけでなく、「注文打ち」と言われる武将達の求めに応じたオーダーメイドも別途作刀。特に祐定は、大互の目乱れの頭が蟹のツメのように割れた刃文を焼くなど傑出した才能を持っていました。
このように、備前長船は時代の波に乗り全国一の数量と品質を誇り、一流品から廉価品まで揃える、一流大ブランドとなるのです。
しかし天正18年(1590年)8月に、吉井川(岡山県東部)の大洪水と熊山の山津波が起き、長船派が工房を構えていた長船・畠田(はたけだ)・福岡の地は一瞬にして水没してしまいます。このときの死者7,000人ほど。刀工、その家族のほとんどが亡くなり、日本刀の一大生産地としての備前長船は衰退してしまいました。
戦国時代は前時代までの騎馬戦同士の個人戦闘は下火となり、密集隊形の歩兵による交戦方法が発達し集団戦闘へと推移。「火縄銃」といった強力な遠距離射撃の武器が登場したことで、武士達がまとう甲冑(鎧兜)にも変化が現れていました。革製品から鉄を使用した丈夫な兜(かぶと)・胴(どう)・袖(そで)・篭手(こて)・頬当(ほおあて)・臑当(すねあて)・佩楯(はいだて)が一揃いになった「当世具足」が出現。全身を覆うことで槍や刀、鉄砲の攻撃を防除しようと考案されたのです。
日本刀の形状も、個人戦闘による近接戦を主軸とすることで、太刀よりも短く軽量な「打刀」が使用されるようになります。打刀は、鎌倉時代から南北朝時代の物と比べ反りが浅く、反りの中心が刀身の先端にある物です。刃長もおおよそではありますが、太刀が75cm以上なことに対し、打刀は60~75cm。さらに馬上で戦う機会はほぼなくなったこともあり、長大な太刀を手頃な長さに磨上げた姿としました。
腰に佩く向きも、太刀は刃を下向きにして太刀緒で腰の隙間に下げますが、打刀は刃を上に向け帯に差しました。このことから太刀は「腰に佩く」、打刀の場合は「腰に差す」と言います。
安土桃山時代末期から江戸時代中期にあたる、1596年(慶長元年)から1763年(宝暦13年)までに作刀された日本刀が「新刀」です。新刀は、作刀された地域や特徴に違いによって「慶長新刀」(けいちょうしんとう)・「大坂新刀」・「江戸新刀」など呼び名が変わります。慶長新刀は、古刀期の特徴を受け継ぎながら、新しい時代の発想を表現した過渡期特有の個性を持つ刀工の作品。そして大坂新刀と江戸新刀は、大坂と江戸それぞれを拠点とした刀工の作品のことです。
この時代の日本刀を、「新刀」と呼ぶようになったのは1721年(享保6年)に軍学者である「神田白竜子」(かんだはくりゅうし)によって著された刀剣書「新刀銘尽」(あらみめいづくし)や、「鎌田魚妙」(かまたなたえ)による「新刀弁疑」(しんとうべんぎ)の影響があると言われています。これらの書物の中で、1596年(慶長元年)の作刀について「新刀」や「新刃」(あらみ)と表現されたことから、この時代の日本刀を指す言葉として定着していきました。
実際には、1596年(慶長元年)で作刀について明確な区切りがあったという訳ではなく、新刀という呼称は作刀技術や材料のゆるやかな変革により、「古刀」とは違った特徴を持つ日本刀を意味していたと考えられています。
この時代の変化の要因として挙げられるのは、豊臣秀吉による天下統一です。戦に明け暮れていた日本全体が安定するようになると、様々な場所において、新しい城下町が発達していきました。これに伴い、全国の刀工達も各地へ移動するようになります。
そのため、作刀技術がいろいろな城下町へと分散し、それぞれの地域のみで伝わっていた技法に、新技術が融合されるようになったのです。安土桃山時代のきらびやかな文化のなかで、より美しく洗練された刀剣へと進化。また、それでいて古刀の優れた技術の模倣を超え、個性的な刀剣が数多く誕生していきます。
1590年(天正18年)8月、古刀期に盛隆を極めた長船派が、吉井川の大氾濫により壊滅状態に陥ったことも慶長新刀への向かう変革のひとつだったと言えます。長船派に代わって各地の大名に召し抱えられ、躍進したのが美濃国の刀工でした。そのため、各地の大名は美濃国には日本刀の量産体制がすでに整っており、大名達は美濃鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用したのです。
慶長新刀の日本刀は作られた時代は、豊臣秀吉による絢爛豪華な安土桃山文化が大きく花開いたときでした。
明るく派手な色彩が好まれ、贅を尽くした「聚楽第」(じゅらくてい:現在の京都市上京区)や、立派な天守閣を持つ「大阪城」(大阪府大阪市)などが築かれたのです。
その理由としては、国内の革新や海外発展に積極的だったことなどから、西洋文化を取り入れようとしたためです。下剋上を勝ち抜いた武将や、京や堺の豪商達も南蛮の輸入品を流通させることに注視し、人々は新たな時代を意気揚々と迎えていました。
こうした気風は作刀においても同様で、覇気のある力強い作品が好まれたのです。多くの刀工達は、名刀が揃う鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての作刀に理想を求め、自らの作品に反映させます。
慶長新刀の祖・埋忠明寿は、京都で長く続く鍛刀や金工を生業とする名門に生まれました。父の「埋忠重隆」(うめただしげたか)は日本刀の金工家として足利将軍家の側近くに仕え、埋忠明寿もはじめは父の跡を継ぎ15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)に仕えます。のちに織田信長、豊臣秀吉、「徳川家康」といった天下人からも知遇を得て、埋忠派の始祖となったのです。
作品は短刀が多く、「不動明王」(ふどうみょうおう)や「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)などの刀身彫刻を得意としていました。実用本位だった日本刀を、鑑賞する芸術品へと昇華させた時代の先駆者としての役目も担ったのです。
堀川派は、慶長新刀を中心とする新刀初期の一大勢力。始祖となったのは「堀川国広」(ほりかわくにひろ)と言い、山伏修行をしながら各地で作刀技術を学び1599年(慶長4年)頃から京都一条堀川に定住しました。
放浪中も流浪の身でありながらその技量は高く評価されており、足利(現在の栃木県足利市)の地での滞在中には「足利城」(現在の栃木県足利市)城主の「長尾顕長」(ながおあきなが)の依頼を受けています。このとき打ったのが堀川国広の最高傑作とも言われる「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)です。
約260年にわたる天下泰平の世が築いた徳川幕府のお膝元となる江戸には武士、町人、職人など多くの人々が集まり生活をしていました。経済的余裕から、武士だけでなく町人も学問を学び、歌舞伎や相撲といった娯楽も登場するなど「町人文化」が発展していきました。
徳川幕府の政治体制が整っていくと、日本刀の所持に関する明確な規定も設けられました。武士の大小2本差し、つまりは打刀と「脇差」(わきざし)の差料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀)の寸法が決められたのです。
また、武士ではない町人もきちんと届出をすれば、旅行時や夜間外出時の護身用として脇差の携行が許可されるようになりました。このため、日本刀に対する新たな需要が増え、江戸時代以前から鍛刀が盛んであった美濃国や京都、越前国(現在の福井県北東部)だけでなく、全国各地の刀鍛冶が集結。日本の中心地である江戸での鍛刀が盛んになり、「江戸新刀」の主要生産地となります。
そんな新たな時代の幕開けにふさわしい刀工達が、越前国(現在の福井県北東部)の初代「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、近江国(現在の滋賀県)から長曽祢虎徹、駿河国(現在の静岡県中部)から「野田繁慶」(のだはんけい)、近江国(現在の滋賀県)から「石堂是一」(いしどうこれかず)、但馬国(現在の兵庫県北部)から「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)が入り、江戸鍛冶繁栄の基礎を築きました。
初代・越前康継は、徳川家康からの評価も高く自らの作品の茎に「葵の御紋」を切ることを許された、江戸新刀の祖と言われる刀工です。初代は近江国(現在の滋賀県)に誕生し、越前国福井に移住し、美濃伝の刀鍛冶として活動していました。
1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」の年に、越前康継は徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)に召し抱えられます。のちに、刀工としての技量を認めた結城秀康の口添えにより、徳川家康と2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に仕えることとなり、越前国から江戸へ移住。その後、越前康継の系統は、3代目で江戸と越前国に分家しそれぞれが繁栄しています。
豊臣秀吉が大坂の地に政治の基盤を置き居城・大阪城を築城すると、堺の商人達を多く移住させたことで大坂は商業の中心地としても発展しました。さらに港を開くことで、貿易都市としても発展。大阪は、軍事・政治・経済都市としての機能を備えた城下町としても大きな一歩を踏み出したのです。
しかし豊臣政権が発足したものの、豊臣秀吉の死、関ヶ原の戦いなどを経て10年あまりで大阪は政治の主要都市としての機能を失います。けれども商業都市としては大きく進化していきました。商業が盛んになれば、職人が集まります。こうして優れた刀工達が集まり、全国の大名や武士、帯刀を許された町人などから殺到する注文に対応したと言われています。
「大坂新刀」とは、こうした華やかな文化の中で作刀された日本刀のこと。その中から「大坂新刀の三傑」と称されるのが「津田助広」(つだすけひろ)、「井上真改」(いのうえしんかい)、「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)。その他「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)、「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)など、新刀の名手が輩出されました。
津田助広は、「ソボロ助広」と呼ばれる初代と、養子の2代目「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)がおり、どちらも後世に名を残す名工です。
初代・助広の通称「ソボロ」にはいくつかの由来があり、一説によると服装に無頓着でいつもボロを纏っていたために付いた名だとも言われます。まことしやかに伝わるそんな由来からか、数百年後の1804年(文化元年)頃には、助広を差料にすると貧乏になるという迷信さえありました。そんな不名誉な迷信に反して、作品の切れ味は名高く、初代・助広は、新刀上々作にして最上大業物の評価を受けた数少ない名工のひとりでもあります。
続いて2代目・助広の素晴らしい点のひとつとして、生涯に1,700振あまりの刀を打ったとの説もあるほど多作の刀工だということです。そして大坂新刀を代表する刀工であり、江戸新刀の長曽祢虎徹と共に「新刀の横綱」とも言われています。
「濤瀾乱れ」(とうらんみだれ)と呼ばれる刃文を考案したことでも有名。濤瀾乱れは、大きな波が寄せては返す様子に似た迫力ある華やかな刃文です。また、同じ大坂の井上真改と並んで最高の評価を得ており、真改との合作刀も残しました。
「新々刀」は江戸時代後期から明治維新後数年の期間に鍛造された日本刀です。
古刀への原点回帰がうたわれ、「水心子正秀」(すいしんしまさひで)をはじめ新進気鋭の刀工達が古い時代の刀剣を研究し、相州伝の正宗や備前伝長船派など、長く幅広で豪快な作りの日本刀がもてはやされました。そんな新々刀といった日本刀の新たな風潮は、江戸幕府の失策や飢饉などが重なり、社会の変革を人々が感じはじめた頃に起こったのです。
1792年(寛政4年)のロシア使節「アダム・ラクスマン」の来航に続き、1808年(文化5年)にはイギリス船が長崎に入港するなど、日本の世情は揺れ人々は不安に陥ります。こうしたなか、治安の維持と強化のために、脚光を浴びたのが日本刀です。戦もなく泰平の世とあっては単なる飾りと化していた日本刀が、本来の武器として再び注目されたのでした。
こうした時代背景の中で、日本刀は姿を変えていきます。江戸時代末期には「尊皇攘夷」(天皇を敬い外国人を廃する考え)の思想を持つ志士達が所持した、刀身や柄が長い豪壮な「勤王刀」(きんのうとう)。
反対に近代化していく影響で、洋装でも差しやすく体を動かしやすい、細く短い刀身の日本刀も出現。両極端な日本刀は、まさに倒幕派か佐幕派(徳川幕府勢力)かと2つの思想に分かれた混迷期の日本刀と言えます。
しかし、明治維新を経た1870年(明治3年)に庶民の帯刀禁止、翌年には華族(かつての公家・大名)、士族(かつての武士)の帯刀禁止。さらに1876年(明治9年)には「太政官布告」をもって全面的な「廃刀令」(軍人・警官は除く)が発布されました。「文明開化」の気運のなかで、日本刀は「美術刀剣」として審美の対象となり、武器としての時代は終わりを告げたのです。
新々刀は、古刀への原点回帰をうたったことでも分かるように、古い時代の刀工の技法である五箇伝の特徴を様々に織り交ぜて、新たな表現を見付けることに力を注いだのです。
そのため刀工には、五箇伝を完全に修得し、理解する力量が求められました。刃文に粗い粒子状の「沸」を出すことを得意とした山城伝・大和伝・相州伝。ほんのり見える細かい粒子状の「匂い」を特徴とするのが備前伝・美濃伝です。
刀身の地肌では、山城伝が梨の皮に似た粒子状の「梨子地」、大和伝は「柾目」、相州伝は木を縦に切ったような「板目」、備前伝は年輪のような「杢目」(もくめ)、美濃伝は杢目と柾目の混合など。その他、彫刻の仕方にも各流派で違いがありますが、新々刀の名工達はそれらを自分の作刀に取り入れていったのです。
さらに、製鉄技術の進歩により綺麗な鋼が量産されるようになりました。新々刀後期には、洋鉄精錬技術も取り入れられたことから、明るく冴えた地鉄を作れるようになり新々刀の日本刀は地鉄が無地に見えることがあります。
新々刀の時代には多くの刀工が活躍しましたが、なかでも新々刀を代表して挙げるべき名刀工が水心子正秀と源清麿、「大慶直胤」(たいけいなおたね)、「月山貞一」(がっさんさだかず)です。
「現代刀」は、1876年(明治9年)3月に発布された廃刀令以降に作刀された日本刀を指します。この法律が制定してからは、大礼服(皇室主催の式典等で着る最上位の正装)及び軍人や警察官などが制服を着用している場合以外で、日本刀を身に付けることが禁止されました。
刀剣界は廃刀令により大きな打撃を受け、当時活躍していた多くの刀鍛冶は職を失い、さらに明治維新で地位をなくした武士や貴族が宝刀を手放したことで多くの名刀が海外に流出。しかしながら日本刀を帯びて歩く「帯刀」は禁止となりましたが、作刀自体は禁止されていませんでした。さらに愛刀家でもあった「明治天皇」が文明開化の風潮のなかで日本刀や、その他の伝統文化が衰退しつつあることを憂慮。
日本の文化保持に力を注いだことから、日本の美術・工芸の保護奨励のため、皇室の御用を務める美術・工芸家が「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)に任命されました。これにより作刀技術の絶滅は免れたのです。
刀剣界からは、月山貞一と、「宮本包則」(みやもとかねのり)が選出。この2人は、明治天皇をはじめとする皇族や、著名人の作刀に数多く携わり、新々刀と現代刀との期間をつなぐ名刀工として活躍したのです。
昭和時代からは「軍刀」の需要が伸びつつありました。士官用軍刀のために旧日本陸軍主体のもと「靖国神社」(東京都千代田区)境内に鍛錬所が作られるなど日本刀に注目が集まります。そして旧日本海軍の士官用軍刀は「湊川神社」(兵庫県神戸市)にて作刀していました。靖国神社で作られた日本刀を「靖国刀」(やすくにとう)、湊川神社の物を「菊水刀」(きくすいとう)と言います。
しかし「第2次世界大戦」後に、「連合国軍最高司令官総司令部」(GHQ)から武器としてみなされた日本刀は作刀が禁止され、さらに個人などが所持する刀も接収されました。名刀「蛍丸」をはじめ多くの日本刀が遺棄・散逸などの悲しい末路を辿ります。さらに、GHQの手から逃れようと所持していた日本刀を鉈や鎌などの刃物に改造されたりもしました。この混乱の中で、旧国宝・重要美術品39振が行方不明となります。
その後、「佐藤寒山」(さとうかんざん)氏や「本間薫山」(ほんまくんざん)氏などの刀剣研究家・愛好家の働きがけで日本刀は美術品として再認識されました。これにより法改正が行われ、日本刀の個人所有や作刀、売買が可能となったのです。日本刀の技術は現在も脈々と受け継がれ、現在でも刀工がその技を揮い、美しい日本刀を作刀しています。
明治維新後、大日本帝国は急速な西洋化を推し進めようとしていました。そこでフランスを模範とし、帝国陸軍の建軍時に軍刀として「サーベル様式」を採用。この軍刀が旧日本陸海軍では基本の装備となり、陸軍では靖国刀、海軍では菊水刀と言いました。ここでは軍刀、靖国刀、菊水刀の成り立ちと概要について解説します。
「軍刀」とは、世界各国の軍隊で装備されている刀剣類の総称です。戦闘・儀礼・部隊の指揮のために主に将校が佩用し、また、階級を示す装飾としても用いられました。世界における軍刀の歴史は、18世紀にヨーロッパ各国で平時のための軍隊を創設したことがはじまり。日本では幕末に西洋式軍備を導入した際、軍刀という概念も持ち込まれたのでした。
明治維新後の建軍時、フランス軍を参考にした旧日本陸軍は、軍が使用する刀剣として日本刀に変わるサーベル様式を採用。使い方もフランス人教官に習い、伝統的な剣術・槍術は廃れていきました。けれど日本人は、日本刀など両手で操作する剣術になじんでおり、片手で操作するフランス式剣術(サーベル術)は扱いにくかったのです。
1877年(明治10年)に起きた「西南戦争」において、敵方の薩摩軍が仕掛けた白兵戦(はくへいせん:刀剣、槍などのを使う歩兵)に苦しめられます。
やはりサーベルではなく、日本刀の威力を目の当たりにし、軍は日本刀の重要性を再認識。このことを契機に、外装はサーベルのままとして刀身のみ日本刀を携えるのが軍刀の一般的な姿となりました。
さらに陸軍少将「村田経芳」(むらたつねよし)が、日本刀特有の反りを持つ太刀型の軍刀「村田刀」を開発しました。村田刀では、スウェーデン鋼と和鋼を1,500℃で溶解した上で鍛錬することにより、高い強度を実現。のちの1894年(明治27年)の「日清戦争」、1904年(明治37年)の「日露戦争」などを勝利に導き、その性能の高さを証明したのです。
しかし突撃攻撃による白兵戦が有効だったのは日露戦争まででした。火力が主戦となる「第1次世界大戦」以降は、実戦での軍刀使用について廃止を求める意見が出るようになっていました。そうしたなかでも軍刀を必要とする声は大きく、1935年(昭和10年)前後に、軍刀は旧日本陸海軍問わず日本古来の太刀を模した外装とすることが制定されました。
けれどすべての軍人が軍刀を装備できた訳ではなかったのです。基本的には、将校や上級仕官、騎兵、憲兵など、特定の兵科(直接戦闘にかかわる兵の職域)に就いた軍人のみ佩用することを許可されていました。
旧日本陸海軍では軍刀を主要装備として佩用していましたが、それは礼式に欠かせない道具だったからです。そしてそれと同時に、軍刀が日本人の精神的な支柱であったことも理由のひとつと考えられています。軍刀は地位の象徴であり、心の拠り所でもあったのです。
「靖国刀」は旧日本陸軍が「日本刀鍛錬会」を組織し靖国神社の境内に日本刀鍛錬所を開設したことがはじまりです。この靖国神社は、明治維新期のときに起きた「戊辰戦争」で命を落とした新政府軍の兵士を顕彰し、慰霊するために創建。1869年(明治2年)に明治天皇の勅令のもと、皇居の隣地九段坂に「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)を創建したのがはじまりです。
作刀は、日本刀の復活と将校用軍刀の需要に応えることを目的として、1933年(昭和8年)より開始。靖国神社で作刀した日本刀を「靖国刀」と言い、作刀した刀工を「靖国刀匠」と呼びました。作刀が開始された年から、終戦の1945年(昭和20年)まで10年余りの期間に約8,100振の靖国刀を作刀したと言います。この日本刀鍛錬場では、軍刀の作刀も行われ陸海軍大学校(士官学校とは別の上級将校教育機関)の成績優秀な卒業生に贈られた「恩賜刀」なども作刀していたのです。
「太平洋戦争」が勃発した1941年(昭和16年)以降、軍刀としての日本刀の需要が高まっていました。しかしながら、日本刀最大の弱点とも言うべき「錆」に対する不満が多く寄せられていたと言います。こうした声を受け、水辺でも使用できるよう錆に強く、機械で大量生産ができるステンレス鋼を材料とした軍刀が作られるようになったのです。このように機械で作られた軍刀は、日本刀とは区別して「昭和刀」と呼ばれています。昭和刀では、切れ味や耐久性は日本刀には及ばないものの、錆や折れる心配がないことから使い勝手が良かったのです。
靖国刀の場合は大量生産品ではなかったことから、総じて丁寧に作刀されていました。靖国刀匠の手によって玉鋼を素材とし「折り返し鍛錬」を行うなどの、伝統的な日本刀の作刀方法によって鍛えられています。重ねが厚く、平肉もたっぷりとして堅牢。日本刀の「折れず 曲がらず よく切れる」という特色をよく備えていました。靖国刀の代表的な刀工は、「宮口靖廣」(みやぐちやすひろ)、「梶山靖徳」(かじやまやすのり)、「池田靖光」(いけだやすみつ)など。なかでも池田靖光は、江戸時代末期の名工・水心子正秀の門人「池田一秀」(いけだかつひで)の家系となる刀工です。
「菊水刀」とは、旧日本海軍の士官用軍刀として作刀した本鍛錬刀のことです。1933年(昭和8年)に日本刀鍛錬会が組織され、靖国神社に「日本刀鍛錬所」が作られました。
その流れを汲み、旧日本海軍でも1940年(昭和15年)に湊川神社に鍛刀場を設立。靖国神社の日本刀鍛錬会で修行を積んだ刀工「村上道政」(むらかみみちまさ)と「森脇正孝」(もりわきまさたか)が「御用刀工」に任命され、湊川神社では旧日本海軍用の軍刀が作刀されることになりました。
湊川神社は、地元の人々からは「楠公さん」と呼ばれている神社で、その通称通り「楠木正成」(くすのきまさしげ)を祀っています。楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将であり、後醍醐天皇に仕え最後まで忠義を尽くしたことで知られる人物です。そのため江戸時代、攘夷の先駆けであった水戸藩では理想の「勤皇家」(天皇のために忠義を尽くす人)と尊崇され、幕末には尊皇攘夷志士らによって支持され尊敬の意を込めて「大楠公」(だいなんこう)と呼ばれました。
湊川神社創建の経緯としては、1867年(慶応3年)に尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)が、創立の建白(政府や上役などに自分の意見を申し立てること)を行ったことがはじまり。翌年の1868年(明治元年)に楠木正成の忠義を後世に伝えるため、明治天皇は神社の創建について勅令を出しました。
こうして1872年(明治5年)に、楠木正成が自決したとする「殉節地」(じゅんせつち)を含む7,232坪(現在約7,680坪)の土地に、湊川神社が創建されたのです。なお「菊水刀」と名付けられたのにも、楠木正成の家紋「菊水紋」を茎と鎺に彫ったことにちなんでいると言われています。菊紋自体は、後醍醐天皇より建武の武功として楠木正成へと下賜された家紋です。
けれど、そのまま使用するのは「畏れ多い」と考えた楠木正成は、下半分を水に流した菊水紋を家紋として使用したと伝えられています。この紋を旧日本海軍が取り入れた背景には「天皇と国家への忠誠の証」といった意味も含まれていると考えられるのです。
日本刀を楽しみたいのなら、日本刀の部位名称をしっかりと知っておきましょう。ぜひ覚えて欲しいのは、「刀身」(とうしん)の場合が、「上身」(かみ)、「茎」(なかご)、「区」(まち)。「拵」(こしらえ)の場合は、「鞘」(さや)、「柄」(つか)、「鍔」(つば)です。これらの部位に着目し、より詳細な名称を覚えて観察すれば、その日本刀が作られた年代や特徴をきちんと捉えることができるようになり、もっと日本刀鑑賞を楽しめるようになれるはず。日本刀の部位名称について、詳しくご紹介します。
「刀身」とは、日本刀の身、本体のことです。刀身の素材は「玉鋼」(たまはがね)。玉鋼とは、日本古来の製法で作られた最上級の鉄のことです。刀身は、玉鋼を折り返し鍛錬し、日本刀の形を作り上げる「素延べ」(すのべ)や「火造り」(ひづくり)、「焼き入れ」をすることにより作られます。また、日本刀は片刃なので、物を切る「刃」(は)側と、切ることができない「棟」(むね)側があるのが特徴です。
刀身を構成しているのが、「上身」と「茎」。上身とは刀身の上部のことで、茎とは刀身の下部、日本刀を鑑賞する際に、手で握る部分のことです。上身と茎を区別する境目のことを「区」と言います。刃側の区は「刃区」(はまち)、棟側の区は「棟区」(むねまち)です。
なお、日本刀の長さは、上身だけの長さを「刃長」(はちょう)、上身と茎を合わせた長さを「全長」(ぜんちょう)と言います。一般的に、刀剣の長さが「○尺○寸」や「○cm」と書かれている場合には、刃長のことを指すのです。
「上身」とは、刀身の上部を指す言葉。上部とは、「鋒/切先」(きっさき)から区(まち:茎との境目)までのことです。上身は、「鋒/切先」、「刃」(は)、「棟」(むね)、「平地」(ひらじ)により構成されています。
まず「鋒/切先」とは、刀身の先端部分のことです。小鋒/小切先、中鋒/中切先、猪首鋒/猪首切先、大鋒/大切先などの種類があり、時代の特徴や刀工の個性が発揮される部分となります。
また、鋒/切先に現れる焼刃の模様が「帽子」(ぼうし)です。こちらにも小丸、中丸、大丸などの種類があり、刀工の個性が発揮される箇所と言われます。なお、鋒/切先の曲線(カーブ)の部分を「ふくら」、鋒/切先と平地の境のことを「横手筋」、横手筋と鎬筋が交わる部分を「三つ頭」(みつがしら)、横手筋と刃先、ふくらが接する点を「三ツ角」(みつかど)と言います。
次に「刃」とは、物を切ることができる部分です。焼き入れによって鋼が硬くなり、切断することが可能となりました。この焼き入れによって現れる焼刃の模様が「刃文」(はもん)です。刃文には、大きく「直刃」(すぐは:直線的な形状)と「乱刃」(みだれば:うねりのある乱れた形状)の2種類があり、乱刃の中にも「湾れ」(のたれ)や「丁子乱」(ちょうじみだれ)、「重花丁子乱れ」(ちょうかちょうじみだれ)など、流派により様々なタイプがあります。
また「棟」とは、刀の背の部分のことです。こちらでは物を切ることができません。しかし、棟部分でたたくことを「棟打ち」(みねうち)と言い、相手を殺さずに殴打する目的で使用される場合もあります。棟にも、庵棟、角棟、丸棟、三つ棟など、形状による種類があるので、確認しましょう。
最後に、「平地」(ひらじ)とは、刃と「鎬筋」(しのぎすじ)の間の部分、「地鉄」(じがね)が現れる場所のことです。鎬筋とは、刃と棟の中間で山高くなっている「鎬」(しのぎ)の筋のこと。棟と鎬筋の間の平地は「鎬地」(しのぎじ)と言います。また、地鉄とは、玉鋼を折り返し鍛錬したときに生じる鍛え肌の模様のことで、日本刀の鑑賞ポイントのひとつです。
なお、鋒/切先(きっさき)から棟区(むねまち)までを線で結び、棟とその線までが一番離れている場所の寸法のことを「反り」と言います。こちらも日本刀を鑑賞する際の重要なポイントとなるのです。
「茎」とは刀身の下部のことです。同じ読み方で、「中心」とも表記します。区(刃区や棟区)よりも下の部分のことで、末端に向かって次第に幅が狭くなっていくのが一般的。
茎で目に付くのは、文字が刻まれているということ。作刀した刀工の名前や作刀年月日などが書かれており、これを「銘」(めい)と呼びます。銘は、701年(大宝元年)に制定された「大宝律令」(たいほうりつりょう)によって、日本刀を作った作者名の銘を切ることが義務付けられました。そして時代が経つにつれて、刀工の居住地名や俗名、日本刀の所有者など、様々な銘が見られるようになったのです。なお、神仏に捧げる日本刀には銘を切らないなど例外があり、「無銘」の日本刀も数多く存在します。
また、茎にはひとつ、または2つの穴が空けられていますが、これは「目釘穴」(めくぎあな)です。日本刀を使って対戦する場合は、手で握りやすいように茎に柄を付けますが、柄を付けたときに、刀身が抜けないように柄と茎に「目釘」(めくぎ)という留め具を目釘穴に通して固定します。目釘穴はこのために空けられているのです。
なお、茎の形状は、「普通形」(ふつうがた)、「雉地股形」(きじももがた)、「振袖茎」(ふりそで形)、「舟底茎」(ふなぞこがた)、「たなご腹形」(たなごはらがた)、薬研形(やげんがた)など様々で、作刀者の個性が表れる部分と言えます。
また「茎尻」(なかごじり:茎の末端部分)も作刀者の個性が表れる部分。「栗尻」(くりじり)、「刃上栗尻」(はあがりくりじり)、「剣形」(けんぎょう)、「入山形」(いりやまがた)、「切り」などの種類があります。
日本刀作りの仕上げとして施されるのが、「茎仕立て」(なかごじたて)です。茎が柄から抜けにくくするために、「鉋」(かんな)で整えて、「鑢」(やすり)をかけてきれいに整え、目釘穴を開け、銘を切って完成させます。また、「鑢目」とは、茎に鑢で仕上げた跡のこと。「切鑢」(きりやすり)、「勝手上り鑢」(かってあがりやすり)、「勝手下り鑢」(かってさがりやすり)、「筋違鑢」(すじかいやすり)、「大筋違鑢」(おおすじかいやすり)、「檜垣鑢」(ひがきやすり)、「鷹の羽鑢」(たかのはやすり)、「逆鷹の羽鑢」(ぎゃくたかのはやすり)、「化粧鑢」(けしょうやすり)などの種類があります。
また、作刀当時のままの茎を「生ぶ茎」(うぶなかご)。後世で茎部分を短くした物は「磨上げ」(すりあげ)と呼ばれます。「生ぶ茎」は、作刀当時のままの純粋な「生ぶ茎」と「区送り」(まちおくり:刃区と棟区の上部を削って、刃長を短くした物)の2種類。
「磨上げ」は、銘が残されている物は「磨上げ茎」、銘がなくなってしまった物を「大磨上げ茎」、「折り返し茎」(おりかえしなかご:大磨上無銘になるのを惜しんで、銘の部分を折り返した物)、「額銘茎」(がくめいなかご:銘の部分を切り取って、茎に埋め込んだ物)の4種類に分けることができます。
「区」とは、上身と茎を区別する境目のことです。刃側の区を「刃区」、棟側の区を「棟区」と言います。刃区と棟区は、ほぼ一直線上で、深さも同じであることが一般的です。
茎に柄を取り付けて使用する際に、さらに「鎺」(はばき)という、茎と柄が不意に離れることを防ぐ金具を取り付けるのですが、区はまさにこの鎺が取り付けられる部分。区には、鎺を安定させる役割があります。なお、区のある部分は、刀身の身幅がいちばん広い箇所です。
鎌倉時代の日本刀など、先端が細身で、区に向かって身幅が末広がりのように太くなっていく形状は、まるで人間が両足で踏ん張っている様子に見えることから、「踏張りがある」と表現されます。
「拵」(こしらえ)とは、日本刀の外装、つまり刀身を入れる、「鞘」(さや)、「柄」(つか)、「鍔」(つば)のことです。元々は、刀身のまま握って対戦したり、持ち運んだりすると、手が切れる危険があるのでそれを防ぐため、刀身を保護するために作られました。
拵には、大きく「太刀拵」(たちこしらえ)と「打刀拵」(うちがたなこしらえ)があり、さらに儀仗用(ぎじょうよう:儀式用)と兵仗用(へいじょうよう:武用)の2種類があります。拵は、所持する人の威厳を示すため、華美で豪華な装飾が施されるようになりました。
太刀が誕生したのは、平安時代後期ごろ。平安時代から鎌倉時代にかけての戦闘様式は、馬上戦だったため、片手で馬を手綱で操りながら、もう一方の手で日本刀を抜き、振り下ろすことが重要でした。太刀は、刀身の刃を下向きにして、腰帯から吊るすことで馬のお尻に当たらないように工夫。そのため、「帯執」(おびとり)や「太刀緒」(たちお)、「足金物」の「一の足」、「二の足」、「猿手」があるのが特徴です。
打刀が登場するのは、室町時代中期。打刀は、敵に遭遇した際、即座に斬り付けられるように刃を上向きにして腰帯に装着しました。素早く抜刀することが重要視され、帯に絡める「下緒」(さげお)や鞘と刀身そのものの落下を防ぐ「栗形」(くりがた)、「返角」(かえりつの)があるのが特徴です。打刀拵は、実戦で使用するため派手な装飾は施されませんでしたが、戦のない泰平の世となった江戸時代には、所持する人の身分や家柄、嗜好を表す、華美な物へと変化しました。
「笄」(こうがい:鞘の差表[さしおもて]に備え付けられる細長い小道具)や「小柄」(こづか)、「縁頭」(ふちがしら:柄の先端に付ける金具・縁[ふち]、及び鍔と接する部位に付ける金具・頭[かしら])が取り付けられ、美しい彫刻を施して威厳を示し、金工、漆工などの高度な技術を駆使したものも登場。さらに、土地の個性や剣術の理念が色濃く表れた「お国拵」も出現します。
「鞘」とは、刀身の上身、刃の部分を保護する容器です。鞘の形状は、凹凸のない「平鞘」(ひらざや)と、卵を逆さにしたような上が太く下の方が細くなった「丸鞘」(まるざや)の大きく2つに分類されます。
平安時代から鎌倉時代において、武器用の日本刀に付けられたのが平鞘、儀礼用の日本刀に付けられたのが丸鞘です。
また、平安時代には日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上である太刀が出現し、その後、室町時代から江戸時代にかけては、丸鞘が一般的な鞘となりました。打刀鞘の入口部分は、鯉の口のようなので、「鯉口」(こいくち)。鞘の先端、尻の部分を「鐺」(こじり)と言います。
また、鞘には大きく2種類があります。それは、家庭内で刀身を保護・保存する際に刀身を収めておく「白鞘」(しらさや)と外出用の「塗鞘」(ぬりさや)です。素材は、どちらも朴の木(ほうのき)。
白鞘は、加工をしない木のままの物を使用し、塗鞘は身鞘とも言い、朴の木に漆塗を施し、その上に鮫皮や動物の皮などを張って仕上げる、たいへん意匠性の高い物です。豪華な鞘は身分の象徴でもあったため、貴族や豪族は鞘の外装に、身分にふさわしい豪華な装飾を施していました。
塗鞘には、黒塗、蝋色塗(ろいろぬり)、朱塗、青漆、梨子地(なしじ)など様々な色塗があり、石目塗(いしめぬり)、黒乾石目塗(くろかわきいしめぬり)、蒔絵塗(まきえぬり)、生漆塗(きうるしぬり)、金沃懸地塗(きんいかけじぬり)、螺鈿(らでん)など、種々の技法を用いた変わり塗の物があります。この変わり塗技術の発達は鞘塗が基礎となったと言われているのです。また、「着せ鞘」と言って、「鮫着鞘」(さめぎさや)や「皮着鞘」(かわぎさや)、網代包鞘(あじろづつみさや)など、鞘に張られる皮や、その装飾によって、様々な名前が付けられています。
「柄」とは、刀身の茎を保護し、日本刀を握りやすくするために付けられる物のことです。日本刀で対戦する場合や持ち運ぶ際は、このままでは握りづらいので、茎に柄を付けて使用されるようになりました。
「柄」(つか)柄の先端部分に付けられた金具を「頭」(かしら)、口の方に付けられた金具を「縁」(ふち)、糸が巻かれた部分を「柄巻」(つかまき)、さらに頭付近に開けられた穴のことを「鵐目」(しとどめ)と言います。
平安時代や鎌倉時代まで、太刀は馬上で使用するため、片手だけで持ちやすいように柄の部分から反りが始まっていました。その後、南北朝時代から室町時代にかけて歩兵戦が主流となったことを背景に、両手で日本刀を振り回すことができるよう、柄は真っ直ぐな形状となっていくのです。また、打刀の柄は、よく観るとわずかに中央部が細くなっています。このわずかなへこみにより日本刀の握りやすさは格段に向上しました。柄の素材は、朴の木です。一般的には、木の上に鮫皮(さめかわ:実際にはエイの皮)を張り、を続飯(そくい:飯粒で作ったのり)で接着し、革や組糸で柄糸(つかいと)を巻き、兜金(かぶとがね)や縁金物(ふちかなもの)を施します。
鮫皮は乾燥させると非常に固くなるため、柄の強度を保つ目的で使用し、また鮫皮の表面の凹凸が柄糸を巻いた際の滑り止めの役目をすることもあり重宝されました。柄は、日本刀の価値を高める大切な要素であり、高価な装飾が施された柄は、大名間の贈答にも使われました。
太刀には、「太刀柄」(たちづか)や「糸巻柄・蛇腹組」(いとまきづか・じゃばらぐみ)、打刀には、「出鮫柄」(だしざめづか)、「糸片手巻柄」(いとかたてまきづか)などがあり、糸や皮など、どのような素材を用いたかで、それぞれに名前が付いています。
また、柄巻は、平打ちの糸をそのまま巻いた「平巻」(ひらまき)や柄糸が菱形になるように巻く「菱巻」(ひしまき)、菱巻の柄糸が重なった部分を高く盛り上げるようにつまむ「摘巻/撮巻」(つまみまき)など、巻く物の素材だけではなく、巻き方によって、多くの名前が付いているのです。
「鍔」とは、刀身と柄の間にある刀装具のことです。手を保護し、日本刀の重心を調節する役割があります。
鍔の種類は、大きく2種類あり、それが「太刀鍔」(たちつば)と「打刀鍔」(うちがたなつば)。太刀と打刀は身に着ける際に刃の向きが逆になるため、中心に設けられた「茎穴」(なかごあな)という穴の上下も逆になること、打刀鍔には、茎穴以外にも「笄穴」(こうがいあな)や「小柄穴」(こづかあな)と言う穴が設けられるなどの違いがあります。茎穴の周辺部分を「切羽台」(せっぱだい)と言い、多くは左側に作者銘が入れられます。
また、鍔には表面と裏面がありますが、表面の方が、装飾や色合いなど、裏面より華やか。日本刀を帯びたときに上になる部分、つまり柄側の部分が表面です。
鍔の形は、主に平面で構成された「丸形」(まるがた)、「角形」(かくがた)、「木瓜形」(もっこうがた)などが代表的。そこから派生した、立体で丸みを持った「椀形」(わんがた)などが存在します。
鍔は作られた時代によって、素材や製法が変わっていきました。「練鍔」(ねりつば:練革(ねりかわ)と呼ばれる牛革を、数枚貼り合わせて形を切り出し、漆を塗って固めた物)や「板鍔」(いたつば:鉄製で板のように平坦な鍔)、「透鍔」(すかしつば:主に鉄製で、デザイン性に優れた文様を残して地を透かし抜いた鍔)などがあります。
日本における刀剣の作刀は、古墳時代にまで遡ります。鉄の加工技術や製鉄技術が伝来し、日本でも刀剣類が作刀されるようになったのです。その後、平安時代にはより質の高い砂鉄が取れる地域で作刀が行われるようになり、多くの優れた刀剣が誕生します。
鎌倉時代には刀剣作刀の全盛期とも言われる黄金期が到来しますが、当時の作刀方法、及び原材料はすでに失われており、現在行っている伝統的な刀剣の作刀方法は江戸時代以降の記録によるもの。現在でも日夜研究が進められているのです。
日本における刀剣は、一見シンプルな形をしています。しかし、作るにあたって様々な工程を経ることで、「折れず・曲がらず・よく切れる」と称されるほど強靱な武器となるのです。ここでは刀剣が洗練された強靱な武器となる理由である、材料や工程を紹介しつつ、職人達の仕事についても解説します。
刀剣が日本で作られはじめた古墳時代は「鉄」が主な原材料でしたが、現在作刀されている刀剣の材料は、砂鉄を原料とした、たたら吹きによって製造される「玉鋼」と呼ばれる鋼。
たたら製鉄は、砂鉄を原料とした製鉄法で、粘土で作り上げられた炉を、木炭と風を送るための装置である「鞴」(ふいご)を用いて加熱し、鉄に含まれる炭素の割合を調節する製鉄法です。この作業は、3昼夜、約70時間続けなればなりません。その間使用する砂鉄は約10t、木炭は約12tですが、良質な玉鋼はそのうち約900kgしか得られないほど玉鋼は貴重な素材なのです。
刀剣の素材は、炭素含有量によって「鉄」、「鋼」(はがね)、「銑」(ずく)の3種類に分類されます。このうち、直接刀剣の材料になるのは鋼のみ。そのなかでも、特に炭素量が適しており、加熱をして叩けば伸びることから刀剣の材料に最適な素材を「玉鋼」と呼ぶのです。
しかし、玉鋼の名称は古来のものではなく、明治時代半ば以降に命名されたもので、もとは島根県の安来製鋼所で製造し、陸軍、海軍に坩堝(るつぼ:金属を溶かす際に使う壺)の材料として納入していた鋼の商品名でした。玉鋼という名称が定着したのは明治時代中頃ですが、天文年間(1532~1554年)の頃には、「白鋼」(しらはがね)という、玉鋼に相当するとされる上質な鋼の存在が確認されています。
しかし、古刀期以前の作刀方法や材料については資料がなく不明とされており、現在では失われてしまった技術をもって作刀されていたことが考えられるのです。
古刀期の刀匠が刀剣の主な材料としてきた鋼の質は、鎌倉時代を頂点にそれ以降低下。その原因のひとつとして、どこかで鋼を作る製法に変化があった可能性について述べられることもあります。
一方、安土桃山時代以降は「南蛮鉄」(なんばんてつ)と言い、外国から輸入された原料鉄や、「隕鉄剣」の原材料である隕石など、玉鋼以外の材料を主として使用している刀剣も存在します。
その他、古くから卸鉄(おろしがね:鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀匠もおり、日本固有の伝統技術として継承されています。
刀剣の作刀は、実は刀匠だけが行うのではなく、様々な職人の手によって完成されるもの。ここでは、玉鋼が完成し、刀匠の手に渡ったところから刀剣ができあがるまでの工程を見ていきましょう。
玉鋼の硬さや柔軟さは炭素量によって変化するため、刀匠に玉鋼が渡ると、まず刀匠は炭素量に応じて玉鋼を分別。玉鋼を熱して厚さ5mm程度に打ち延ばし、水に入れることで急冷却させる作業を水へし、水へしで割れなかった部分を槌で叩いて2~2.5cm四方に叩き割ることを小割と言います。
水へしは炭素量の多い部分がボロボロと砕けると言う性質を利用した工程で、刀剣に適切な材料を選別するのです。
まず、水で濡らした和紙でくるんだ鋼を「テコ台」の上に積み重ね、次に、積まれた鋼の上から「藁灰」(わらばい:藁を不完全燃焼の状態にして作った灰)と泥水をかけます。これは、空気を遮断して鋼が燃えるのを防ぐためと、熱伝導をよくするため。また、泥には鋼の不純物を除去すると言う効果もあります。
鋼の中心部までしっかりと加熱された状態を「沸す」と言い、積み沸かしと本沸かしは、次の段階である刀剣を鍛錬する前の準備段階。積み沸しでは、鞴で風を送りながら作業しますが、鞴の使い方によって火の強さや温度が変わってきます。
刀匠は沸しの際に生じる火花と音によって鋼の状態を把握し、鞴を繊細に操ることで火力を調整するのです。鋼が沸いたと判断したら鋼を一度取り出し、大槌で叩くことで沸かしの状態を確認する「仮付け」と呼ばれる作業を行います。
その後、古い藁灰を払い、新しい藁灰をまぶして沸す作業を繰り返す、本沸かしを行うのです。本沸しを繰り返すことで鉱滓が鋼から抜けていくため、精錬が十分に行われます。最後に、折り返し鍛錬に先立ち、大槌で鋼を叩き固めるのです。
折り返し鍛錬をすることにより、不純物が取り除かれ、炭素量が均一になるため、鋼をより強靱で洗練された金属にすることができます。
通常、複数人で作業が行われ、大槌を振るって鋼を打つ「先手」(さきて)と、テコ棒と小槌を持ち、先手にどの場所をどのぐらいの強さで叩いて欲しいかを指示する「横座」(よこざ)の2人が存在。折り返し鍛錬では、鋼を叩いて長方形に薄く延ばしたあと、鏨(たがね)で中心に切れ目を入れ、そこから折り返すことによって鍛えていきます。
折り曲げる方法には、同一方向に折り曲げる「一文字鍛え」と、縦横交互に折り曲げていく「十文字鍛え」の2通りがあり、どちらを採用するかは刀匠の選択次第。
この作業を5~20回程度繰り返し、何度も折り返すことで、硬く粘り気のある鋼に変えていくのです。なお、この時次の工程「造込み」(つくりこみ)で使われる、硬く強靱な「皮鉄」(かわがね)と、柔軟な「心鉄」(しんがね)の2種類の鋼が制作されます。
造込みとは、硬い皮鉄でやわらかい心鉄を包むように熱し付ける工程のこと。この2つの鋼を組み合わせることで「折れず・曲がらず・よく切れる」刀剣ができあがるのです。このように、心鉄の周囲に皮鉄を包み込んで作り上げる方法は「甲伏せ」(こうぶせ)と呼ばれる最も一般的な手法。
他にも「本三枚」という刃鉄(はがね)と呼ばれる鋼の上に心鉄を乗せ、その両側から皮鉄を挟みこむという3種類の鋼を用いる手法や、刃鉄と反対側の、心鉄と皮鉄の上に棟鉄(むねがね)と呼ばれる鋼を乗せた4種類の鋼を使う「四方詰め」と呼ばれる手法があります。
次は、鋼を熱しながら刀身の形になるように打ち伸ばしていく「素延べ」と呼ばれる作業。このとき、無理な力が鋼にかかると疵の原因となるため、ただ熱を加えるのではなく、鋼を沸した状態に保ちながら徐々に打ち延ばす必要があります。
また、沸しながら打ち延ばすため、鋼の精錬もかねるのです。ある程度鋼を打ち延ばしたら、続いては鋼の先端から鋒/切先となる部分を打ち出します。このとき、ただ切り出しただけでは鋒/切先が脆くなってしまうため、最終的に鋒/切先になる方向と逆向きに切り落とし、切り落とした方の反対側から打ち出していくのです。
次に、刀剣の「造り」である平造りや鎬造り、切刃造りなどを決定する作業である「火造り」を行います。刀身を沸し、鎬や「横手筋」などを付け、目的の形に仕上げていくのです。小鎚を使って刃側を薄く打ち出し、棟側も少し薄く打ち出し、鎬筋を立てるなど、最終的な刀剣の姿をイメージしながら作業を行います。
はじめに、加熱した刀身を水などで急激に冷やし、刃文や反りが生じさせる工程である「焼入れ」の準備として、「焼刃土」(やきばつち)を刀身に塗る「土置き」と呼ばれる作業を行います。
焼刃土には平地用、刃文用、鎬地用の3種類が存在。刀身の表面が露出しないよう、棟の方には厚く、刃の方には薄く土を塗ります。焼刃土の厚さを変えるのは、冷却時に刃側をすばやく冷やすことで十分に焼きを入れ、一方棟側は比較的穏やかに冷やし、焼きをそれほど入れないのが目的。また、焼刃土の塗り方で現れる刃文の文様が変化するため、刀匠は土の置き方を工夫するのです。
焼入れではムラなく刀身全体を700~800℃程度に加熱し、水に入れて一気に冷却。このとき、焼刃土の厚さでできる冷却速度の違いにより、刀剣の特徴である「反り」が生まれます。また、焼入れ時の温度の高低により「沸出来」か「匂出来」の違いが現れるのです。
相州伝は高い温度で焼入れを行うことで沸出来の刃文を焼き、備前伝では低い温度で焼入れを行うことで匂出来の刃文を焼くとされます。なお、焼入れが終わったあとでも、鉄の組成によっては脆くなってしまうことがあるため、必要に応じて刀身を軽く熱して水に浸ける作業が必要です。
刀匠の仕事が終わると、刀身彫刻や樋が施される場合、研師のもとへ送られます。
まずは、どんな彫刻を刀剣に施すのかを刀匠や注文主と相談しながら決定し、和紙に鉛筆で下絵を描きます。思い通りの下絵が完成したら、刀身に直接墨で下絵を転写。その後、松脂を塗った専用の台の上に刀身を固定し、アタリを付けていきます。
アタリとは、鏨を下絵の輪郭に沿って彫刻する作業のこと。はじめて刀身に鏨を施す作業になることから、彫師にとって最も緊張感が漂う作業でもあります。彫った跡が毛のように細いことから、アタリは「毛彫り」とも呼ばれるのです。
次は、アタリで彫った輪郭線を、立体的に肉付けしていきます。大まかな形作りを「荒彫り」と言い、「切下げ」(きさげ)と呼ばれる道具で彫った跡の艶消しをして調整しながら彫り進める作業。「上彫り」(うわぼり/あげぼり)は、細かな部分を彫り、繊細な技巧を施す工程です。「龍」を彫刻する場合、上彫りの工程で鱗を彫ることから、「ウロコ彫」とも呼ばれています。
磨きは刀身彫刻における最後の仕上げの工程です。「金剛砂」(こんごうしゃ)と呼ばれる磨き粉などを使い、鏨で彫った部分を磨き上げ、光沢と立体感を出していきます。彫刻の立体感を表す黒い部分や白く光る部分の調整もこのとき行われる作業。より研磨した部位は黒く、研ぎの荒い部位は白く見えます。
刀身彫刻が済むと、次は研磨の工程に移ります。研磨の工程は下地研ぎと仕上げ研ぎの2つに大別され、粗い目の砥石から細かい目の砥石へ持ち替えながら徐々に研磨が進むのです。はじめに行う下地研ぎは、主に刀身の表面を整える工程で、作業は砥石の名前で区別されています。
金剛砥はかなり粗い目の砥石で、打ち下ろしの刀剣を研磨する際の1番はじめの工程です。
備水砥(びんすいど)は棟、鎬、地、鋒/切先の順に研ぎ、刀剣全体の姿や肉置(にくおき:鎬地を除いた刀身の厚み)を整える作業。研ぎの方向は部位によって決まりがあり、棟と鎬は「筋違」(すじかい:斜め方向)方向に、地と鋒/切先は、「切り」(直角)方向に動かすことが基本です。
名倉砥は「改正名倉砥」(かいせいなぐらど)、「中名倉砥」(ちゅうなぐらど)、「細名倉砥」(こまなぐらど)の3つの工程に分かれており、それぞれひとつ前の工程で付いた砥石目を消すもの。細名倉砥まで行うと、砥石目がすべて消え、なめらかな刀身になります。
仕上げ研ぎは、下地研ぎで現した地鉄をより美しく際立たせ、地刃の色調を整えるなど、美しい装いを実現する工程です。主に親指で砥石を扱い、作業を行います。
この工程ではまず、刃艶(はづや)に用いる「刃艶砥」(はづやど)を制作。内曇砥を水に浸け、やわらかくなった部位を層に沿って薄く割きます。「大村砥」(おおむらと:和歌山県で産出される荒砥のひとつ)や「青砥」(あおと:刃艶などの厚さを整えるために用いる砥石)などで、より薄くなるように磨き、「吉野紙」(よしのがみ:奈良県吉野地方産の、非常に薄い和紙)と漆で裏打ちしたものが刃艶砥です。刃艶では、この刃艶砥を親指の腹に乗せて刃をこすり、刃文の沸や匂を浮き上がらせます。
地艶(じつや)は微細な砥石である「鳴滝砥」(なるたきと)を磨きこみ、1mm以下にした10数個の粒子を刀身に乗せ、親指で砥石が逃げないように注意しながら行う作業です。肌模様や地沸など、地鉄の働きのすべてを引き出す工程を言います。
拭いとは、地鉄を黒くし、光沢を出す工程のことです。拭いの成分は研師の秘伝ですが、主材は刀匠が鍛錬した際に飛び散った「金肌」(かねはだ)という酸化鉄。これを再び焼いて乳鉢で磨って微粉末にし、丁子油に混ぜて作ります。研師は定間隔で刀身の上に拭いを置き、区から鋒/切先に向けて青梅綿(おうめわた:上質の綿)で拭い込むのです。これにより砥石目はほぼ消え、鍛え肌が立ち、地が青黒くなります。
刃取り(はどり)は、刃文の白さを際立たせる作業で、刃文に沿って行われるもの。刀匠が施した刃文をいかに美しく鮮明に見せることができるのかは、研師の感性と創意にかかっているのです。流派によって研ぎ方が異なり、棟側から刃を拾う場合と、刃側から刃を拾う場合があります。
磨きは、鎬地と棟を、磨き棒やヘラを使って磨き潰す工程です。この工程により、刀身は、「刃の白さ」、「地の青黒さ」、「鎬地の漆黒」という3種類の鏡面を持つことになります。
ナルメは、横手と帽子の研ぎの工程です。はじめに内曇砥で横手筋を引いてから刃艶砥を使って鋒/切先を白くさせます。
研師の行う最終工程が流しです。流しとは研師のサインのようなもので、帽子の裏棟や、鎺元に入れられる線を言います。失敗すると細名倉砥まで戻さないと磨き棒の跡が取れないため、研磨最後の緊張の瞬間でもあるのです。
鎺とは刀身の棟区・刃区と、平(ひら)の部分を取り巻いている筒状の金属部品を指します。鎺は刀身を傷付けないように固定し、鞘の中で刀身を浮かせる役割を持つ、刀剣にはなくてはならない部品です。
はじめに、鎺の材料となる銅・金・銀のいずれかから下地を切り出します。刀剣は1振1振形状が異なるため、大きさや形状を考えながらそれぞれに合ったものが切り出されるのです。次に、切り出した素材を高温にしたバーナーの火で熱してやわらかくして金属製の台の上に固定し、金槌を使って叩きのばしていきます。
意図する部分まで伸びたら、素材を折り曲げ、再びバーナーの火で加熱して成形。刀身の茎部分にはめ込んでから、左右を金槌で叩きつつ、刀身に合わせた形に調整するのです。
折り曲げた下地の内側に、区金(まちがね)という細い棒を入れます。この時点では鎺の形状にはなっていても、素材を折り曲げただけの状態であり、両端は接着していません。素材の両端を針金で固定し蝋付けを行っていきます。
ここでは、刀区側に白色半透明の「硼砂」(ほうしゃ)という鉱物を塗り、両端が合わさった部分に区金を押し込み、さらに「銀蝋」(ぎんろう:銀と真鍮を素材として作った合金)を置いて、高温にしたバーナーの火を下地の下部に放射。硼砂がガラス状に流れ、銀蝋が流れ込めば接着完了です。熟練の白銀師は、鎺の下地を刃方で接着する際、銀蝋が刃区の部分に回らないように、との粉(石を細かく砕いた粉)などを詰めます。
鍛造は、鎺を刃区・棟区に収まるようにする工程で、白銀師の間では「きめ込み」とも呼ばれる作業です。茎に通したあと、平面と棟区側・刃区側を叩いていきます。左右両平を叩いて幅を緩くしたあと前に押し出し、棟区側・刃区側を叩いて調整。さらに左右両平を叩きます。このように緩めて占める工程を繰り返すことで、鎺の下地が刃区・棟区に収まるのです。
その後、鎺をいったん茎から外し、各種のヤスリを使って貝先と台尻、接合部分などを削って整形を行います。
金着せとは、鞘内で刀身を固定する機能を高めると共に、表面的な美しさを出すため、鎺に薄い金の板を被せる作業のことです。金を引っ張るようにしてピッタリと下地に密着させながら貼っていきます。文様のあるものは、このあと鑢や鏨で美しい装飾が施されるのです。
鎺が完成すると、次は鞘の制作に移ります。鞘は朴の木で作られているため、鞘の制作には良質な朴の木を入手することも非常に大切な工程のひとつ。切り出された朴の木は、必ず1年以上は乾燥させなければいけません。
鞘は2枚の板を合わせて制作するため、刀身を素材に当て、茎用と刃用の素材を2枚ずつ切り出していきます。ノミで大まかに削り、小刀でならしながら鞘の形に整形。刀剣によって1振1振形が違うため、様々なノミを使って彫り進めていきます。
刀剣が鞘に接しているとそこから錆びてしまうため、油を塗った刀身を入れ、刀身に当たる部分を確認するのです。再度削りながら微調整をし、最後に鎺袋を制作。完成したら2枚を続飯(そくい:ご飯を練り潰して作られた粘りの強いのり)で接着し、紐で縛って楔で固定し糊が乾くのを待ちます。
木固めは、漆を塗る前の土台作り作業のこと。生漆を鞘に塗り、あとから塗る漆が木に染み込むのを防ぐ役割があります。
砥の粉と生漆を混ぜた物をヘラで塗り、板状の砥石で研ぐ工程です。これを複数回繰り返します。回数は塗師によって異なり、研ぐことで窪みを作り、次の漆が塗りやすくなるのです。
油分を含まない黒の下塗り漆を塗って、室の中で乾燥させたあと、朴炭か油桐の炭で、水を付けて研いでいきます。これも複数回の繰り返しが必要です。
研いだ表面に艶付けした漆を何度も刷り込み、最後の磨きをしてから艶付けを行います。漆を層に重ねて塗ることによって、防水性・耐久性を強化し、見た目を美しくするのです。
「塗る」→「乾かす」→「研ぐ」→「塗る」→「乾かす」と言う工程を何度も繰り返すため、1本の鞘の塗りが仕上がるのに要する期間は約3ヵ月かかるとされます。
黒漆塗りだけに留まらず、鞘の漆塗りの工程にはその後「花塗り」や「蠟色塗り」(ろいろぬり)、「変わり塗り」など「上塗り」を施す場合も存在。花塗りは漆を塗りっぱなしにして磨かない塗り方で、最も熟練を要する技法とされます。
蠟色塗は生漆に水を加えず、鉄漿(てっしょう)や鉄粉などの鉄類を混ぜた黒色の蠟色漆を塗って乾燥させ、朴炭(ほうずみ)で研いで、エゴノキ炭で磨く方法です。
変わり塗りは多種多様な文様を鞘に描く手法で、漆だけの単一塗りと、螺鈿や蒔絵を施すなど、他の物を混合させた塗りの2種類があります。
柄巻は柄全体を覆うように巻き付けられた紐などの総称。柄の強度を上げるだけではなく、柄を握りやすくする他、見た目の美しさを引き立てる役割を持っています。柄巻の下地には通常、「鮫皮」と呼ばれるエイの皮が用いられており、柄の補強と組紐のズレを防止する役割を果たしているのです。
まず、硬い鮫皮を水で濡らし、やわらかくしたあと磨き、艶を出していきます。その後、鮫皮を切り取り、柄に巻いていくのです。
鮫皮は湿気によって伸縮するため、一度柄に巻いたあとで時間を置く必要があります。時間をおいて余った部分の鮫皮を切除する作業を複数回繰り返し、余りがないことを確認して続飯で糊付けするのです。次に、刃区と棟区に経木(きょうぎ:スギ・ヒノキ等の材木を紙のように薄く削ったもの)を貼り、鍔元と柄頭の上面に高低差が出ないように鮫皮の高さを揃えます。
まずは柄糸を巻く位置を記した棒を、貼った経木にあてて、鉛筆で印を付けていく「糸割り」と呼ばれる作業を行います。
糸割りを行うことで柄巻の菱目が綺麗に揃うのです。次に、衝撃力を緩和し、立体的な美しさを出すため、「くじり」と言う道具を使用して、和紙を柄糸と鮫皮の間に入れつつ巻いていきます。
巻き方には平巻や諸捻巻(もろひねりまき)、片撮巻(かたつまみまき)などいくつもの種類が存在。どの巻き方も親粒を菱目の間からきれいに覗かせるのがポイントです。
鍔の制作は、まず刀身彫刻と同様に和紙に下絵を描き、鍔の素材となる鉄や合金に絵付けをします。次に、素材を切り出し、鍔の形に整形。鏨と金槌を用いて、刀身彫刻と同様の手順で彫りだしていくのです。なお、このとき種類の違う金属を加工して穴や溝などに埋めていく「象嵌」を施すなどして、華やかな文様の鍔を制作します。最後に表面に錆を付け、しっとりとぬれたような質感のある黒色を表すために「錆付け」を行い完成です。
刀剣の作刀は「刀匠」の他にも、多くの職人によって分業化されています。それは、刀身を研磨する「研師」(とぎし)をはじめに、彫刻を施す「彫師」、鎺を作り出す「白銀師」(しろがねし)、鞘を作る鞘師、鞘に漆を施す「塗師」(ぬし/ぬりし)、柄の補強・装飾をする「柄巻師」(つかまきし)、刀剣の拵に必要な鍔や三所物を制作する「金工師・鍔工師」です。さらに、刀剣の作刀に必要な玉鋼を制作するためには、鉱物を掘り出す「鉱山師」や砂鉄を収集して砂と分ける「鉄穴師」(かんなじ)、たたら製鉄を行い砂鉄を溶かす「たたら師」などの職人が携わっています。ここでは、それぞれの職人の仕事がどのようなものなのか紹介します。
刀匠とは、主に刀身の作刀をする職人のことを言い、刀鍛冶や刀工とも呼ばれます。刀匠の歴史は、古くは神代にまで遡るとも言われますが、刀剣が日本で作刀されるようになった古墳時代には「鍛師」(かぬち)と呼ばれる刀匠集団が存在していました。
刀匠の仕事は、主に工程で紹介した「水へしと小割」から「鍛冶押しと茎仕立て」までで、主に玉鋼を熱して叩き刀身の原型を作る、鍛刀と呼ばれる作業を行っています。以前は鍛刀のみならず、刀身彫刻や研磨も刀匠が担当していましたが、江戸時代に分業化されるようになったことで現在の仕事内容となったのです。
古くは朝廷を中心に「倭鍛部」(やまとかぬちべ)と呼ばれる刀工集団が存在していましたが、平安時代中期に刀剣が成立し、合戦の規模が拡大して刀剣の需要が増大すると、奈良や京都を中心に栄えていた刀匠達は、より良い鉄のある地域に移住していきました。刀匠が移住した地域では「備前伝」や「古伯耆」、「古青江派」などの優れた流派が誕生し、刀匠達が活躍したのです。
また、鍛刀地、及び鍛刀技術や特徴を同じくするものを刀派、流派、刀工群、刀工集団と呼びます。明治時代の廃刀令以降、刀匠の数は年々減り続け、現代の刀匠は200人に満たない人数にまで減少していると言います。
研師とは、一般的に刀剣の研磨を行う職人のこと。工程では「下地研ぎ」から「仕上げ研ぎ」が研師の仕事に該当し、粗い目の砥石から細かい目の砥石に徐々に持ち替えながら、手作業で行われます。
刀匠が精魂を込めて打った刀剣も、それだけでは姿形はあまりはっきりせず、焼き分けた地肌の黒と刃の白の区別もなく、刃文や光沢も見られません。
研師が刀身の姿形を整え、地、刃、棟、鋒/切先といった部位をひとつずつ研磨していくことで、地と刃のコントラストが鮮明になり、光沢が増し、地肌や刃文が美しく浮かび上がり、機能美の極致である日本刀が誕生するのです。
刀剣専門の研師の仕事には、刀匠が新しく打ち上げた刀剣の仕上げとしての研磨を行う場合と、古い刀剣を研磨して、美しさを取り戻させるものの2種類が存在。刀剣が実戦で用いられていた時代には、刀剣の切れ味を高めるための研師も存在しましたが、刀剣が美術品として鑑賞される時代になると切れ味を求めるための研師は衰退し、刀身の美しさを引き出す技術が発展していきました。
近年では鑑定書の取得を目的とした研磨が行われるようになっていますが、刀剣の研磨は刀身をすり減らしていく行為でもあるため、錆や腐蝕を落とすなど、刀剣を保護する以外の目的での研磨には注意が必要です。
彫師とは、刀剣の刀身に多種多様な意匠の文様を彫る職人のことで、浮世絵を制作する彫師と区別するため、「刀身彫刻師」とも呼ばれます。
彫師の仕事は、刀匠のもとでできあがった刀剣に信仰や魂を込め、美術品としての刀剣の美しさをより高度なものに仕上げること。工程では「刀身彫刻」の項が彫師の仕事に該当しますが、戦国時代以前は刀匠が自ら刀身彫刻を施すことも珍しくありませんでした。
江戸時代に入り、刀剣の美術的価値が高まったことによって刀匠と彫師の仕事が分業化されるようになったのです。現在、彫師の仕事には、免許も資格もありません。そのため、彫師を名乗るのは自由ですが、信頼を得て仕事を任されるようになるまでには、長い時間がかかると言います。
彫師の仕事は、主に鏨と福槌の2つで行われていくもの。しかし、その鏨や福槌には彫刻の彫り方や大きさに合わせて大小様々な種類が存在し、鏨だけで200を超える本数を所持する彫師も存在します。
鏨は彫師自ら制作することもありますが、基本的にはひとつひとつの鏨を鑢がけし、自分の手や彫刻に合わせて馴染むように調節するのです。このように、細い刀身に細かい作業を行っていくことから、彫師の仕事にはかなりの忍耐力と正確な鏨使いができる器用さが必要。さらに、美しい彫刻を施すためには絵心も求められます。
白銀師は、刀装具の下地作りを担当する職人です。白銀師はかつて、目貫・鍔・鎺・鯉口・鐺(こじり)など、刀装金具のすべての制作を担当する職人でしたが、分業化が進むと鎺制作専門の職人となり、「鎺師」(はばきし)とも呼ばれるようになりました。工程のなかでは、「鎺制作」に当たります。
白銀師の仕事が鎺に特化されたのは、刀剣のなかで、鎺が特に重要な刀装具であり、制作に高度な専門・技術性が求められるため。刀剣が作られ始めた当初、鎺は刀剣を作刀した刀匠が、刀剣と同じ材料である鉄を用いて作刀していました。しかし、鉄製の鎺は手入れを怠った場合、刀身とともに鎺まで錆付いてしまうこと、鎺が硬すぎて刀身を痛めやすいことから金・銀・銅など、当時「色金」(いろがね)と呼ばれた材料が扱われるようになり、鎺を制作する職人は白銀師という名称で呼ばれるようになったのです。
白銀師の作業は常に視覚による確認が必要となるため、作業場は日当たりの良い場所が選ばれ、天窓などを設けて自然光を取り入れる工夫がなされています。鎺の制作は非常に細かい作業で、微調整をしつつ鎺の形を整えることは熟練の技が必要です。刀身に合わない鎺を装着した場合、拵と鞘の部分で狂いが生じるため、白銀師は、刀剣の作刀のなかでも非常に重要な役割を担っていると言えます。
鞘師は、刀剣を収める刀装具「鞘」を作る職人のこと。ひとえに鞘作りと言っても仕事の幅は広く、大別すると、保管する際に使う「白鞘」(しらさや)と、外へ持ち歩く際に用いる「拵」の2つに分けられます。また、拵の原型となる「拵下地」を作るのも鞘師の仕事。工程「鞘の制作」が担当です。
鞘の制作は、鞘が単に刀身に沿っていれば良いというものではありません。刀身が鞘に合っていて、刀身の出し入れがスムーズであることがもっとも重要ですが、刀身にあまりにも反りがない場合、鞘を工夫することで反りを付けることもあります。逆に反りが強すぎる場合には、鞘で反りを伏せる造形とし、見た目良く仕上げるのです。鞘師が最も気を使う工程は、ノミで素材を削り、姿を形成する作業。刀剣は1振の個性が異なり、厚みや反りなどが千差万別であるため、作られる鞘は1振の刀剣に対して完全なるオーダーメイドです。鞘師は、入念に刀身と素材を見比べて削り進めていきます。
また、打刀の刀装には小柄を付けないなど、拵の制作には決まりがあり、拵の時代的変遷はもちろん、刀剣の歴史的背景、種類によって異なる約束事を踏まえて鞘師は外装を考える必要があります。鞘師は、刀身を保護するための白鞘を制作し、刀装の原型たる拵下地も作ることから、刀剣のケアと演出の双方を担う職人なのです。
刀剣を携行する際、刀剣の鞘は白鞘から豪華な刀装具が付いた拵に収められます。塗師は、拵に漆を塗る職人のことを言い、刀剣の作刀に欠かせません。
漆は、刀剣の鞘に塗ることで、中に収められる刀身を保護すると共に、武具である日本刀を芸術作品に昇華させる役割を果たしているのです。工程では「鞘の漆塗り」に該当し、古くは古墳時代から刀装具制作にかかわっていたと言われます。
平安時代に漆器をはじめとする様々な芸術作品が開花し、鞘の内部へ水気や湿気の侵入を防ぐ技術が誕生。鞘柄の漆塗りが刀剣の拵に欠かせない工程となりました。しかし、刀剣専門の塗師が現れたのは、江戸時代に入って、様々な職業が分業化されるようになってから。当時は「鞘塗師」と呼ばれ、江戸幕府にもお抱えの塗師も存在するようになったのです。
塗師の仕事には多様な道具と相応のスペースが必要になるため、通常、塗師達は専用の仕事場を持っています。漆塗りは常に視覚で確認しつつの作業になるため、自然光の取り入れと人工照明により、充分な灯りを確保。専用の室を新設する塗師もいれば、押し入れなどを改造する塗師もおり、思い思いの工夫で備えているのです。
なお、同様の漆塗りでも、漆器と刀剣の鞘では注意点が大きく異なります。漆器の場合、四隅の部分の塗りが美しさの決め手になりますが、鞘の場合、鞘の部位である「櫃」(ひつ)のように窪んだ部分や「栗形」(くりがた)、「返角」(かえりづの)のように突起した部分をどれだけ丁寧に塗れるかで鞘の美しさが全く変わるのです。塗師はムラや凹凸が出ないように注意しながら、慎重に筆を滑らせていきます。
柄巻師は、柄の強度を上げ、握りやすくするために刀剣の柄全体に巻かれた紐を指す「柄巻」を施す職人のこと。主な仕事内容は、工程における「柄巻」の部分です。
柄巻の手順は元々一子相伝でその技を継承してきたため、書物などには詳しい工程が残されていません。鮫着せをどのタイミングで糊付け固定するのかなどは、それぞれの柄巻師の塩梅によります。作業場は、多種多様な道具を使う他、細かな手作業を要するため、日当たりが良く広い空間であることがほとんどです。
柄は刀剣を手で持つ際に握る箇所であるため、柄を補強することに加え、斬り合いの際に手から刀剣が滑り落ちないように、手溜(てだまり)を良くするために考案されました。それだけでなく、巻き方や素材によって刀剣の美しさを引き立てる役割を持っています。柄に施す紐や巻き方にも様々な種類があり、巻き方ひとつでもその刀剣の印象が変わるほど、柄巻は重要な刀装。
柄巻は平安時代の古刀期に、刀剣が実用されはじめたことで生まれ、受け継がれてきました。柄巻師は刀剣に欠かせない柄を補強・装飾する職人として現在まで伝統技法を伝えているのです。
金工師・鍔工師とは、刀剣そのものではなく、拵に附属する目貫や小柄、笄、鍔などの刀装具を制作する職人のことを言います。
鍔工師とは文字通り鍔を制作する職人で、鉄・銅・金・銀・真鍮、及びそれらの合金を用いて制作。金工師は素銅(すあか)や赤銅、朧銀(おぼろぎん)などの鉄以外の金属を扱って刀装具を制作していました。古くは古墳時代から制作されていた鍔とは違い、小柄、笄などが現われたのは室町時代のこと。
「後藤祐乗」(ごとうゆうじょう)が美しい意匠の優れた目貫や小柄、笄を三所物と称して制作し、金工師の祖となったのです。対して鍔は、元々刀剣や甲冑(鎧兜)を作った余りの鉄を用いて刀匠や甲冑師によって制作されていましたが、三所物と同様に室町時代に凝った意匠の鍔が制作されるようになり、鍔専門の鍔工師が誕生しました。
金工師・鍔工師の仕事は工程のなかで言う「鍔の制作」。金工師と鍔工師の技法はさほど変わらず、鋳金、鍛金、彫金の3つの技法と、象嵌をもって美しい鍔や三所物を制作しています。金工師・鍔工師は現在も精緻な伝統工芸を伝えていますが、金工師と鍔工師は以前ほど明確に分けられた職業ではなく、刀装具全体を制作する職人を金工師と呼ぶことがほとんどです。
日本で作刀された刀剣には、様々な種類が存在。その姿は、時代や戦闘形式の変化に合わせて変わっていき、また数々の「名刀」と呼ばれる刀剣が作り出されました。刀剣の種類は、弓なりの反りがない真っ直ぐな形状の刀剣「直刀」(ちょくとう)をはじめ、一般的な刀剣より大きい刀剣「太刀」(たち)、一般に「日本刀」と呼ばれる刀剣「打刀」(うちがたな)、打刀より少し小さい刀剣「脇差」(わきざし)、「守り刀」として重宝された小型の刀剣「短刀」(たんとう)、短刀の一種「鎧通」(よろいどおし)、女性でも扱うことができた長柄の刀剣「薙刀」(なぎなた)、薙刀に近い形状をした長柄の刀剣「長巻」(ながまき)、戦場で主要武器として活躍した長柄の刀剣「槍」(やり)、槍と似た形状をした長柄の刀剣「矛」(ほこ)の10種に大別することができます。
「直刀」とは、一般的にイメージされる「日本刀」と異なり、弓なりの反りがない、真っ直ぐな形状をした刀剣のこと。古墳時代から平安時代中期に作刀されていたと言われていますが、当時作刀されていた直刀は刀身が錆びている他、原型を留めていないため、明確な作刀年代を判断することはできません。
しかし、本体となる刀身が錆びている一方で、付属する「拵」(こしらえ)は、ほとんど原型の状態で見つかっているため、その素材や装飾を観ることでどのような種類の刀剣であったのかを推測することができます。豪華な装飾を施された拵は、実戦用ではなく、儀式などの際に用いられる「儀仗」(ぎじょう)の刀剣の他、献上品や贈答用として、権力者などから重宝されていました。
また、発見された直刀には、いくつかの種類が存在。柄頭(つかがしら:柄[つか]の先端部)に環状の飾りが付いた直刀は、「環頭大刀」(かんとうのたち)と言う名称が付けられました。高知県高岡郡日高村にある「土佐二宮小村神社」(とさにのみやおむらじんじゃ)には、古墳時代末期に作刀されたと言われる直刀「金銅荘環頭大刀拵」(こんどうそうかんとうたち)が御神体として存在。1,000年以上祀られてきましたが、屋内で保管されていたため、ほとんど完全な状態で現存している環頭大刀です。
「水龍剣」(すいりゅうけん)は、奈良時代に作刀された直刀。本刀は、「聖武天皇」が使用していた刀剣と言われており、奈良県奈良市の「正倉院」が永く管理していました。その後、明治時代になると「明治天皇」のもとへ渡り、皇室御用の金工師「加納夏雄」(かのうなつお)に拵の制作が命じられます。そして、完成した拵を観た明治天皇は、本刀に「水龍剣」という号を付けて佩用しました。
「太刀」とは、「太刀緒」(たちお)と呼ばれる紐や革で腰から吊るして携帯する、刃長約80cm前後の刀剣のこと。博物館などでは、刃先が下向きになるように展示されるのが一般的です。
太刀は、日本刀の原型と言われる弓なりの反りが付いた「湾刀」(わんとう)のあとに作られた刀剣で、主に馬上で使用するために作られました。
その大きさによって、「大太刀」(おおたち/おおだち)、「太刀」、「小太刀」(こだち)の3種に大別されます。「大太刀」とは、「野太刀」(のだち/のたち)とも呼ばれる、刃長が3尺(約90㎝)以上ある大型の太刀のこと。神社などへ奉納するための太刀として作刀されていましたが、騎乗用の武器として実際に戦場でも使用されることもあったと言われています。大太刀は、身分が高い人のみが所有することを許されていたため、戦場では従者に持ち運ばせていました。
「小太刀」とは、鎌倉時代中期から作刀されていた刃長2尺(約60㎝)未満の太刀のこと。その大きさが「脇差」と呼ばれる、比較的小さい刀剣と同じであるため、同一視されることもありますが、形状や反りの特徴から太刀と分類されています。なお、小太刀がどのような目的で作刀、使用されていたのかは資料などが残っていないため、不明です。
また、太刀は「拵」によっても数種類に分類することが可能。「糸巻太刀」(いとまきのたち)とは、柄と鞘(さや)の上部を同じ素材の紐などで渡り巻きにした太刀のこと。主に僧侶などから将軍への献上品に使用された他、戦国時代になると「陣太刀」(じんだち)という名称に代わり、贈答品として用いられました。陣太刀とは、糸巻や金具の素材をより豪華にした拵のことで、儀式や戦勝祈願のために使用されたと言われています。また、江戸時代の武家においては、格式の高さと権力を象徴する道具として見なされるようになったため、「武家太刀拵」と呼ばれるようになりました。
「厳物造太刀」(いかものづくりのたち)とは、鎌倉時代に使用された太刀のこと。華美で豪壮な見た目が特徴で、主に儀式などに使用されていたと言います。厳物造太刀で代表的なのは「兵庫鎖太刀」(ひょうごぐさりのたち)。兵庫鎖太刀とは、鎌倉時代前期から格式の高い武家の間で流行した太刀のこと。帯執(おびどり:太刀を腰帯に吊るす際、太刀緒に通して固定するための部位)と猿手(さるで:柄の先端に被せる金具の装飾)に針金で編んだ「兵庫鎖」を使用している点が特徴として挙げられます。
「打刀」とは、室町時代中期以降に広く流行した、一般に「日本刀」と言われる刀剣のこと。時代劇では、武士が腰に長い刀剣と短い刀剣の2振を差している様子が見られますが、長い方の刀剣が打刀です。
馬上で使用されていた「太刀」よりも短く軽量であるのが特徴で、主に徒歩による戦闘で使用されていました。刃長は2尺(約60㎝)以上あり、刀身の反りが浅いのが特徴。博物館などでは、刃先が上向きになるように展示されるのが一般的です。
「日本刀」は、フィクション作品では「最強武器」として描かれることが多い武器ですが、戦場では弓矢や槍がメインの武器でした。打刀は、弓矢が尽きたり、槍が折れたりした際の補助武器に過ぎなかったのです。では、打刀がメインの武器として使用された時代はなかったのかと言うと、そうではありません。日本の歴史の中で、打刀がメインの武器として活躍する時期がありました。それは、幕末時代です。
幕末時代は、合戦と異なって大人数ではなく、数人を相手として戦闘を行っていました。そのため、刀剣は補助武器として使われていた時代以上に、切れ味が重視されるようになり、妖刀の異名で知られる「村正」(むらまさ)や、「今宵の虎徹は血に飢えている」と言う言葉で知られる「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)をはじめとした実用性重視の、著名な刀工の作が求められたと言われています。
なお、鎌倉時代などに作刀された太刀は、茎(なかご:柄に収める部位)を磨上げる(すりあげる:短く切り詰める)ことで打刀として使用することもありました。磨上げられた刀剣は、茎や刀身の形状が変わっている他、それによって銘(めい:茎に入れられる、作刀者や所有者のサイン)が消失していたり、目釘穴(めくぎあな:茎と柄を固定するための留め具「目釘」を差すための穴)の位置がずれていたりするのが特徴。
また、博物館などで展示されている場合、もともと太刀だった打刀を見分ける方法があります。その方法とは、展示されている刀剣の向きと銘の位置を観ること。
刀剣は、鋒/切先(きっさき)を右側にして飾るとき、太刀であれば刃先を下向きに、打刀であれば刃先を上向きにして展示するのが一般的です。その理由は、鑑賞している人に銘が見えるように配置しているため。
銘を切る位置は通常、太刀であれば「佩表」(はきおもて:刀剣を腰から吊るしたときに、体の外側に来る側面)に、打刀であれば「差表」(さしおもて:刀剣を腰に差したとき、体の外側に来る側面)になります。
しかし、磨上げられた太刀であった場合、銘の位置が佩表、つまり打刀で言う「差裏」(さしうら:刀剣を腰に差したとき、体側に来る側面)に来ることがあるため、展示名では「刀」とされていても、太刀と同じように刃先を下向きにして展示する場合があるのです。なお、刀剣によっては銘が刀身の表裏のどちらにも切られていることがありますが、この場合は作刀者銘を鑑賞する人の側へ向けるのが一般的と言われています。
「脇差」とは、一般的な日本刀よりも短い刀剣のこと。時代劇では、武士が腰に長い刀剣と短い刀剣の2振を差している様子が見られますが、短い方の刀剣が脇差です。
脇差は、打刀が使えなくなった場合の予備の武器として使用されたと言われており、また武士階級ではない町民も持つことが許された刀剣であるため、江戸時代には特に多くの名刀が作刀されました。刃長1尺(約30㎝)以上、2尺(約60㎝)未満の刀剣が該当しますが、その長さによって「大脇差」、「中脇差」、「小脇差」の3種に分類されます。
大脇差とは、1尺8寸(約54.5㎝)から2尺(約60.6㎝)未満の脇差のこと。3種のなかで最も大型の脇差で、打刀とほぼ同じ大きさであるのが特徴。武士が農民などから無礼な態度を取られた場合、合法的に相手を斬る「斬り捨て御免」(無礼討ち)において使用されていたと言われています。斬り捨て御免では、武士は打刀を使い、相手に自分の脇差を与えて、刃向かわせてから斬ると言う方法が採られていました。
なお、斬り捨て御免は、相手から返り討ちに遭ったり、脇差を奪われた挙句、町中に「私が武士を打ち負かした」と言いふらされたりすれば、「士分はく奪」や「家財屋敷の没収」など、厳しい処分を与えられることもあり、実際には滅多に行われなかったと言われています。
中脇差とは、1尺3寸(約40cm)から1尺8寸(約54.5㎝)未満の脇差のこと。「豊臣秀吉」の家臣「石田三成」は、「石田貞宗」(いしださだむね)と呼ばれる中脇差を所有していました。石田貞宗は、「石田正宗」と呼ばれる打刀と共に、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で使用されたと言われています。
小脇差とは、1尺3寸(約40cm)未満の脇差のこと。最小の刀剣である「短刀」と似ているため、同一視されることがありますが、小脇差は拵に鍔(つば)を付けるのに対して、短刀は鍔を付けないのが一般的であるため、見分けることが可能です。「織田信長」の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)は、「鯰尾藤四郎」(なまずおとうしろう)と呼ばれる薙刀直し(なぎなたなおし:薙刀を短く切り詰めて造り変えられた打刀や脇差のこと)の小脇差を所有していました。鯰尾藤四郎は、のちに愛刀家であった豊臣秀吉のもとへ渡り、現在は愛知県名古屋市の「徳川美術館」が所蔵している名刀として知られています。
「短刀」とは、日本刀の一種で反りがほとんどない短い刀剣のこと。最小の刀剣であるため、女性や子どもでも扱える護身刀として、古くから重宝されてきました。刃長は1尺(約30㎝)以下で、懐へ忍ばせることがあったため、鍔などが付けられていないのが特徴です。
短刀は、病魔や災厄から所有者を守るための「お守り」としても利用されていました。天皇家や宮家では、生まれた子に打ち卸し(新作)の短刀を贈る「賜剣の儀」(しけんのぎ)が現在でも行われています。
また、和装の結婚式では、花嫁が帯に「懐剣(懐刀)」(かいけん/ふところがたな)と呼ばれる短刀を差すことも。懐剣は、武家の娘が護身用の懐剣を所持していた頃の名残と言われており、魔を退けるお守りとしての意味があったため、現代でも花嫁衣裳の必需品として使用されています。
また、刀工のなかには「短刀の名手」と謳われた名工も存在。「藤四郎吉光」(とうしろうよしみつ)の通称で知られる、鎌倉時代中期に山城国(現在の京都府南半部)で活躍した刀工集団「粟田口派」(あわたぐちは)の刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)は、徳川将軍家や天皇家などから重宝される数々の短刀を作刀しました。
また、「来国光」(らいくにみつ)の通称で知られる、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて山城国で活躍した刀工「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)は、現代でも国宝や重要文化財に指定される名刀を多く遺した、「鎌倉鍛冶の祖」として有名です。
「鎧通」とは、最小の刀剣「短刀」の一種で、武士が甲冑(鎧兜)を着て戦をしていた時代に使用された刀剣のこと。補助的な武器のひとつで、現存数は多くありませんが、ゲームなどでは暗殺のために使用される「暗器」(あんき)として、様々な作品で登場する知名度抜群の刀剣として知られています。刃長は、逆手に持って使用するため、肘までの長さである9寸5分(約28.8㎝)以下。
その名称の通り、甲冑(鎧兜)を着用した相手と取っ組み合って戦う際に使用されていました。甲冑(鎧兜)の関節部にある隙間へ刺すことで、相手へダメージを与えることができたのです。また、城を攻める際は、その頑丈さを活かして石垣の間に差し、足場として利用することもあったと言われています。
「薙刀」とは、相手を「薙ぎ斬る」ことに特化した長柄の刀剣のこと。鎌倉時代から使用されていましたが、時代によってその長さや形状が変化しました。鎌倉時代の薙刀は、柄の長さ約4尺(約120cm)、刃の長さ約3尺(約90cm)、総長約7尺(約210cm)と、後世の薙刀と比較して短いのが特徴です。
南北朝時代に登場した「大薙刀」と呼ばれる薙刀は、刃の長さと柄の長さがより長大に発達しました。記録では、柄の長さ約5尺(約150cm)、刃の長さ6尺3寸(約190cm)、総長約1丈1尺3寸(約333cm)の作が存在。
また、反対に「小薙刀」と言う小さい薙刀も作刀されています。小薙刀は、柄の長さ約3尺(約90cm)、刃の長さ2尺2寸(約82cm)で、大薙刀と共に、それぞれ歩兵の主要武器として使用されました。
室町時代の薙刀は、柄の長さ9尺(約270cm)、刃の長さ2尺(約60cm)と、柄の長さに比べて刃が短くなっているのが特徴。また、槍が主要武器として台頭した時代であったため、長さだけではなく反りが浅くなっているのも特徴となっています。
薙刀は、女性が扱う武器と言うイメージがありますが、これは江戸時代に入ってから、武道としての「薙刀術」が確立したことが理由です。江戸時代、全国各地の藩では様々な流派が誕生し、また、薙刀術は武家の娘が身に着ける教養のひとつに数えられた他、婦人の護身術としても浸透しました。そのため、「薙刀は女性が扱う武器のひとつ」という認識が生まれたのです。
薙刀には、「源義経」の愛妾「静御前」にちなんで命名された「静形薙刀」(しずかがたなぎなた)、「木曽義仲」の愛妾「巴御前」にちなんで命名されたと言われる「巴形薙刀」(ともえがたなぎなた)、九州地方で盛んに用いられた「筑紫薙刀」(つくしなぎなた)の3種が存在。このうち、江戸時代に作刀された婦人用薙刀の形状は「巴形薙刀」に分類されています。なお、「巴形薙刀」自体は江戸時代になってから名称が付けられたため、「巴御前が実際に使用していた武器」と言う意味はありません。
フィクション作品では、「日本刀」と同じほどに人気がある薙刀ですが、現実にも著名な作が存在します。「源義経」に仕えていた僧兵「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)は、「岩融」(いわとおし)と呼ばれる薙刀を愛用していました。
岩融は、刃の部分だけで3尺5寸(約106cm)もある長大な大薙刀で、「天下五剣」(てんがごけん)のひとつ「三日月宗近」を鍛えた「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)が作刀したと言われています。
「長巻」とは、「薙刀」とよく似た刀剣のこと。もとは大太刀を扱いやすくするために発展した武器と言われており、薙刀とはその違いに明確な定義はありませんが、一般に「大きさの違い」、「先反りの具合」、「横手の有無」、「拵の違い」などが挙げられます。室町時代に使用されていた薙刀の一般的な刃の長さは約2尺(約60㎝)、柄の長さは約9尺(約270㎝)で、刃より柄が長くなっているのが特徴。一方で、長巻の刃の長さは約3尺(約90㎝)、柄の長さは約3尺(約90㎝)から約4尺(約120㎝)と、刃と柄の長さはほとんど同じです。
「先反り」とは、鋒/切先の反り具合のこと。薙刀は先反りが大きく反っているのに対して、長巻は先反りが浅く反っているのが特徴。また、長巻は帽子(ぼうし:鋒/切先の側面に現れる刃文)の焼刃に反りがない「焼詰」(やきづめ)となっています。
「横手(横手筋)」(よこて/よこてすじ)とは、鋒/切先の下部に入る境界線のこと。一般に「鎬造り」(しのぎづくり)と言われる造りの刀剣に見られる特徴で、薙刀には横手がなく、長巻には横手があると言われています。
「拵」とは、鞘(さや)や柄、鍔など刀剣を構成する道具の総称のこと。薙刀の柄には、ほとんど装飾が施されませんが、長巻は柄に麻紐や革などを巻くのが特徴。なお、長巻の名称由来はここから来ていると言われています。
また、長巻と薙刀は、使用方法にも違いが存在。どちらも人馬を薙ぎ払うことに特化した武器ですが、薙刀は刀身より柄が長いため間合いが広く、振り回すことに向いていました。一方で、長巻は柄と刃の長さがほとんど変わらないため、威力が高かった反面、薙刀のように振り回すことは物理的に難しかったと言われています。
「槍」とは、長い柄の先に刃を付けた刀剣のこと。ゲームや映画などの種類を問わず、戦場が舞台となる作品では必ず登場する、非常に知名度が高い刀剣として知られています。また、槍は歴史の中でも近接戦闘の主力武器として最も活躍した武器であり、日本では、弥生時代頃に槍の前身である「矛」(ほこ)が使用された他、時代の流れと共に様々な形状、用途の槍が発展しました。
槍の特徴と言えば、「穂」(ほ)と「柄」に分解できる構造が挙げられます。穂とは、槍の先端部に付ける刀身部分のこと。「長柄槍」(ながえやり:柄の長い槍)では約20cm前後、「大身槍」(おおみやり:穂が長い槍)では約60cm前後と、槍の種類によってその大きさは様々です。柄の長さは、作刀者や年代によって様々ですが、長柄槍では約4~6m前後、大身槍では4m以上。また、長柄槍は記録上では8m前後の柄も存在しました。
槍は、その間合いの広さが最大の利点です。少し離れた場所から、刀剣や盾を持った相手へ攻撃したり、振り回すことで威力を持たせたりしました。一方で、その長さが返って取り回しや携帯に不便だったとも言われていますが、柄を持つ位置を短くすれば近接戦闘にも対応できたと言います。
また、槍は戦闘以外でも便利な使い方が存在。槍を2口並べて物品や人を運搬した他、複数の槍を使って壁を作る、高い場所に引っ掛けて物干し竿代わりにするなど、日常においても様々なことに使用されていました。
日本で活躍した槍と言えば「天下三名槍」(てんがさんめいそう)が有名です。天下三名槍とは、戦国武将「福島正則」にまつわる槍「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)、三名槍の中でも最大級の威容を誇る「御手杵」(おてぎね)、徳川家に仕えた戦国武将「本多[平八郎]忠勝」が愛用したことで知られる「蜻蛉切」(とんぼぎり)のこと。これらの槍は「大身槍」に分類されています。
また、槍はこの他にも刀身の形状などで様々な種類が存在。戦国武将「真田幸村」(真田信繁)は、「大坂冬の陣・夏の陣」で朱色の十文字槍(じゅうもんじやり)を持ち、騎乗によって「徳川家康」のいる本陣へ突撃したと言われています。十文字槍とは、穂の側面に「鎌」と呼ばれる枝刃が付いた槍「鎌槍」(かまやり)の一種で、穂の形が十字になっている槍のこと。鎌槍は、十文字槍以外にもその形によって複数の種類がありますが、作刀にかかる費用が通常の槍よりも掛かったため、主に大将が使用していたと言われています。
「矛」とは、長い柄の先に両刃を取り付けた刀剣のこと。神話などでは、神が所有する武器として登場するため、知名度が高い一方で、どのような刀剣であったのかはあまり知られていません。また、その形状から「槍」と同一視されることがありますが、矛と槍には異なる点がいくつか存在します。槍は、刺突を目的としているため、その先端部は鋭く尖っていますが、矛は「斬る」ことを目的としているため、先端部は丸みを帯びた形状です。
柄への固定方法にも違いがあります。槍は、茎を柄の内部へ差し、蔓などを巻いて固定しますが、矛はソケット状となった部位に柄を差し込み、鋲(びょう)などで柄と刀身を固定することで長柄の刀剣に改造しました。
また、矛と槍は、日本においてはどちらも両手で持って使用するため、持ち方に大きな違いはありませんが、中国では持ち方にも違いがあります。
矛は、片手で使用するのが基本であったため、空いている片手には「盾」を装備することもありました。しかし、槍は両手での使用が前提であったため、盾を同時に装備することはなかったと言います。
日本において刀剣は、作刀された時代などによって様々に分類され、その中のひとつに、作刀の伝法によって分ける方法があります。それは、5つの刀剣生産地で発達した「五箇伝」(ごかでん)と称される伝法です。
その5つの地域とは、①大和国(現在の奈良県)、②山城国(現在の京都府南部)、③備前国(現在の岡山県東南部)、④相模国(現在の神奈川県)、⑤美濃国(現在の岐阜県南部)。これらの地域で発祥した伝法ごとにいくつもの流派が誕生し、作刀の発展に寄与していったのです。
五箇伝の呼称は、刀剣が登場した当初から使われていた訳ではありません。刀剣鑑定などを生業(なりわい)としていた「本阿弥家」(ほんみあけ)により、流派が体系化された、江戸時代以降から用いられるようになりました。
そんな五箇伝における各伝法の歴史や特徴について解説すると共に、「刀剣ワールド財団」の所蔵刀を中心に、各伝法を代表する刀工が作刀した刀剣をご紹介します。
「大和伝」は五箇伝の中で最も古い時代となる、平安時代前期以降に大和国で発達したと推測される伝法です。大和地方は、古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)に、「ヤマト王権」が発生した地域。そのため、国内の他地域に比べて、中国大陸などからの最新の文化が、いち早く入って来る場所でもありました。大和国において、作刀技術が発展したのも、そのような背景が要因だったのです。
そんな大和伝には、日本における刀剣の始祖と評される名工、「天国」(あまくに)の伝説がありました。同工の活動時期は、大宝年間(701~704年)、または奈良時代や平安時代初期とも言われていますが、その真偽のほどは定かではありません。
天国は、「御物」(ぎょぶつ:天皇の所有物)の太刀「小烏丸」(こがらすまる)を作刀したことでも知られていますが、同工の在銘作は現存しておらず、実在したかどうかも分かっていないのです。
710年(和銅3年)、大和国の「平城京」に日本の都が移されて奈良時代に入ると、大和伝の刀工は、貴族達が寺社に奉納する刀剣を作刀。公家や貴族らの手厚い庇護を受け、繁栄の兆しを見せるようになっていきます。
ところが、784年(延暦3年)には平城京から山城国の「長岡京」へ、さらに794年(延暦13年)には、同国の「平安京」へ遷都したことが契機となり、大和伝の刀工達に対する作刀の依頼が激減。大和鍛冶は、一時的に衰退することになったのです。
その後、平安時代末期に覇権を握っていた「藤原氏」が、仏教を重んじる政策を実施。寺院が国家の保護下で勢力を拡大させ、合戦にも参加する「僧兵」が誕生しました。そのため、刀剣の需要が爆発的に増加。大和鍛冶は各寺院のお抱え刀工として、再び活躍するようになります。
大和国には多くの寺院が遍在しており、なかでも、5つの寺院で発展した大和伝の流派は「大和五派」と呼ばれ、高い評価を得ていました。
それらに共通していた特徴は、上品さを少し残しながらも、僧兵が実戦で用いることに耐え得る質実剛健な姿であること。さらには、「中反り」(輪反り)が雄大に付いて鎬幅(しのぎはば)が広いところも、大和伝の各流派に見られる特徴です。
「千手院」(奈良県生駒郡)は、「東大寺」(奈良県奈良市)の子院(しいん:本寺に属する寺院)として知られる寺院。千手院に従属していた「千手院派」の刀工達は当初、若草山麓にある千手谷で刀剣を作刀していましたが、970年(安和3年/天禄元年)頃に、東大寺三月堂の北側に居住地を移転しました。平安時代中後期の刀工「行信」を始祖とする同派は、直刃(すぐは)を基調として小乱(こみだれ)が交じり、狭い焼幅(やきはば)で美しい地鉄(じがね)が特徴です。
「尻懸派」は、東大寺の裏にあった地名「尻懸」(しりかけ)からその名称が付けられました。この地名は、同寺における祭事のときに神輿を担ぐ人達が、休憩のために腰を下ろしていた場所であったことが由来。尻懸派の実質的な始祖は、「則長」であったと伝えられています。同派最大の特徴は、「尻懸肌」と称される、柾(まさ)がかる板目鍛えの地鉄。また、直刃調の刃文には、二重刃やほつれなどの刃中の働きが見られ、小互の目(こぐのめ)が交じる作風です。
「当麻派」は、「当麻寺/當麻寺」(現在の奈良県葛城市)に属していた刀工一門です。1288年(弘安11年/正応元年)に、「当麻国行」(たいまくにゆき)が始祖となって興しました。
大和五派の中で最も穏やかな作風である当麻派の特徴は、「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)であること。刃文は焼幅が狭い沸出来(にえでき)の直刃丁子乱(すぐはちょうじみだれ)や、小互の目乱が見られるのです。地鉄は板目肌が強く現れ、刃先に向かって柾目肌へと流れており、「当麻肌」と称されています。
「手掻派」の呼称は、同派の刀工達が、所属先の東大寺境内にあった「輾磑門/輾害門」(てんがいもん)の門前に居住していたことが由来。開祖と伝わる「包永」は、大和鍛冶の中でも屈指の腕前を持っており、名物「児手柏包永」(このてがしわかねなが)などの優品を多数作刀しています。
手掻派の刃文は、中直刃(ちゅうすぐは)の中に、「喰違刃」(くいちがいば)やほつれ、二重刃といった多彩な働きが含まれるのが特徴。地鉄は、柾目肌に板目が交じり、帽子は「掃掛け」(はきかけ)となる作風です。
「保昌派」は、大和国・高市郡(たけちぐん:現在の該当地域は、同表記で「たかいちぐん」と読む)に住して刀剣を作刀していました。同派の所属寺院については、その詳細は不明ですが、有力な寺院であったと伝えられています。
保昌派の開祖は、弘安年間(1278~1288年)に活躍した「国光」です。しかし、同工によって作刀された刀剣は、そのほとんどが現存していないため、国光の子「保昌貞宗」が、同派の実質的な祖と言われています。
保昌派の作風で最も高く評価されているのは、地鉄において顕著となる柾目肌。直刃調に喰違刃や二重刃が入る刃文が特徴で、鋒/切先には、「焼詰帽子」(やきづめぼうし)が多く見られます。
794年(延暦13年)に山城国の平安京へ遷都されたことに伴って、大和伝が衰退。代わって隆興したのが「山城伝」です。平安京が、政治的にも経済的にも日本国内の中心地となったことで、作刀に欠かせない高品質な鉄が入手しやすくなっただけでなく、各地から名工が集まったことで、最先端の作刀技術が発展していきました。山城伝の開祖は、永延年間(987~989年)、もしくは保延年間(1135~1141年)に活躍した「三条宗近」(さんじょうむねちか)。「天下五剣」(てんがごけん)の中でも格段に美しいと評される太刀「三日月宗近」(みかづきむねちか)を作刀したことで有名です。
山城鍛冶の得意先は、天皇や公家などの貴族であったことから、武具としての強靭さよりも気品が漂う刀剣が、その作刀に求められていました。このため、平安時代中後期までの山城伝の刀剣は、細身で反りが高く付き、優美な姿が特徴となりました。
しかし平安時代末期には、地方豪族の台頭などにより、合戦が繰り返されるように。山城伝においても見た目の美しさだけではなく、切れ味などが考慮された実戦向けの刀剣が求められるようになったのです。そこで山城国に、大和伝や「備前伝」(びぜんでん)など、高い技量を持つ地方鍛冶を招聘。やがて山城鍛冶は、美しい姿と頑強な性質をかね備えた山城伝を確立させました。
山城鍛冶の優れた作刀技術は、鎌倉時代初期に82代天皇「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が設けた、「御番鍛冶」(ごばんかじ)と呼ばれる制度からも窺えます。御番鍛冶とは、全国から名工を集めて、月番で作刀させた制度のこと。これに山城鍛冶が、多数選ばれていたのです。さらに鎌倉時代後期には、「相州伝」(そうしゅうでん)の名工「正宗」(まさむね)に学ぶなどして、その影響を受けた山城鍛冶が、相州伝を加味した技法を考案しました。しかし、あまり人気は得られず、室町時代頃には衰退してしまったのです。
山城伝の刀剣が、洗練された印象を与える要因の大部分を占めるのが、「鳥居反り」などとも呼ばれる深い中反り。また、狭い身幅(みはば)や、板目肌が詰む地鉄、品格のある小鋒/小切先(こきっさき)なども、各流派に共通する特徴です。
各流派では、これらを踏まえながらも試行錯誤を繰り返し、流派ごとに異なる個性を持った伝法を完成させ、多数の名工を世に送り出しました。
「三条派」は、山城伝の中で最も早く誕生した刀工一門です。開祖の宗近が、三条(現在の京都市東山区)に住していたことが由来となり、この呼称が付けられました。三条宗近は、公卿の子であったと伝えられています。そのため三条宗近は、専門的な刀工ではありませんでした。ところが66代天皇「一条天皇」の命を受け、伝説の刀剣「小狐丸」(こぎつねまる)などを作刀したことで、その腕前の高さが証明され、「名工」と評されるまでになったのです。
三条派の作風は、直刃仕立てで小乱刃の刃文が特徴。さらには「金筋」(きんすじ)や「稲妻」(いなずま)など、多種多様な刃中の働きも見られます。山城伝の刀剣らしい美しい姿である分、繊細な性質を併せ持つ作風となっていました。
「粟田口派」は、複数ある山城伝の流派の中でも、「来派」と共に同伝を代表する名門です。同派は、粟田口(現在の京都市東山区)で作刀活動を行っていました。粟田口派の開祖は、御番鍛冶の取締役を務めるほど、その技術に定評があった「国家」。国家には「国友」や「久国」、「国安」(くにやす)など6人の息子がおり、彼らは全員刀工になって活躍。「粟田口六兄弟」と称され、6人中4人が御番鍛冶に選ばれています。
粟田口派の作風で特筆すべきなのは、地鉄の美しさ。微塵に詰んだ小板目肌に「地沸」(じにえ)が一面に付く地鉄は、日本における刀剣史上、最も澄んでいると評され、「梨子地肌」(なしじはだ)と呼ばれます。また、中反りの姿のみならず、重ねや身幅などの部位において、絶妙なバランスが保たれている上品な作風も、同派の大きな特徴です。
粟田口派と代わるようにして登場した「来派」は、山城国随一と評された刀工一門。現代でも山城伝と言えば、「来派」の名前がいちばんに挙げられるほど多くの優品を残しています。
来派という呼称の由来には諸説あり、そのひとつが、開祖「国吉」(くによし)の祖先が、高麗(こうらい:現在の朝鮮半島)出身であったからとする説です。しかし、同工の在銘作は現存していないため、来派の事実上の開祖は、国吉の息子「来国行」とするのが一般的です。
来派の作風は、沸本位(にえほんい)の刃文に、浅い「湾れ刃」(のたれば)や小乱刃などを焼くのが特徴。
「来肌」(らいはだ)と称される地鉄は、板目交じりのよく詰んだ小板目肌の一面に、細かな地沸(じにえ)が付きます。
「長谷部派」は、南北朝時代に登場した刀工一門。同派の開祖「国重」(くにしげ)は、「織田信長」が愛用していた「へし切長谷部」(へしきりはせべ)を鍛えたことで知られる名工であり、相州伝の名門「新藤五派」(しんとうごは)の門下で作刀を学んでいました。その新藤五派が鎌倉の長谷(はせ)に住み、姓として「長谷」を称していたことから、国重も「長谷部」の姓を名乗っていたのです。
しかし国重は、鎌倉幕府の滅亡に伴って山城国へ進出。正宗に師事していた、もしくは多大な影響を受けた高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)に数えられるほど、優れた作刀技術を有していた国重は、山城国でその名を馳せ、同時期に活躍していた「信国派」(のぶくには)と切磋琢磨して、長谷部派を繁栄させました。
現存する長谷部派の刀剣は、多くが「短刀」です。作風は、相州伝を反映させた板目鍛えの地鉄に、激しい「皆焼刃」(ひたつらば)を焼くのが特徴。また、下端部がくびれた「たなご腹形」(たなごばらがた)の茎(なかご)も、長谷部派の短刀によく見られます。
「備前伝」が発祥した備前国は、刀剣の材料である良質な砂鉄の一大産地であった場所。そこに多くの名工が集まり、最大の刀剣生産地へと発展しました。同伝のルーツは、平安時代中期の987年(寛和3年/永延元年)頃に誕生した、「古備前派」(こびぜんは)から始まったと伝えられています。同派の開祖「友成」(ともなり)による作刀技術が受け継がれ、1208年(承元2年)頃には「一文字派」(いちもんじは)、続いて1238年(嘉禎4年/暦仁元年)頃に「長船派」(おさふねは)が登場しました。
そして鎌倉時代末期には、当時流行していた相州伝の技法を採り入れるため、長船派の「長義」(ながよし/ちょうぎ)や「兼光」(かねみつ)が正宗の門下に入り、技術を学びます。このような経緯によって備前伝では、相州伝の技法を大きく反映させた「相州備前」の作風が完成したのです。
室町時代には「備前刀」が、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が行っていた「日明貿易」において、主な輸出品のひとつに選ばれています。戦国時代に突入すると、繰り返される合戦により大幅に増加した刀剣の需要に応えるべく、刀剣の大量生産をこなしていたことで、備前鍛冶はさらに繁盛していったのです。
このように備前伝は、古来の伝法を守りながらも、移り変わる流行を作風に上手く加味していたことによって、平安時代中期から戦国時代の長きに亘り、繁栄し続けていきました。しかし、1590年(天正18年)に起こった吉井川(岡山県東部)の大洪水により、備前鍛冶は、壊滅してしまったのです。
「刀剣の華」と称されるほど、華美な作風である備前伝。各流派に共通する特徴は、茎のすぐ上部から反りが始まる「腰反り」(こしぞり)の姿です。この他にも、杢目が交じった板目肌であり、よく練れて詰んだ地鉄、刃文に似た影のような文様が平地に浮かんで見える「乱映り」(みだれうつり)も、備前刀の大きな特徴です。
しかし、備前伝の刀工は、古刀期だけでも1,200人以上いたと伝えられています。さらに同伝の各流派は異なる時代ごとに登場し、それぞれの流行に合わせて作風も変えていたため、各流派に共通する作風は、ひと言では言えないのが実状。その分同伝には、個性豊かな流派や刀工が揃っていたとも言えるのです。
最初に登場した古備前派は、同伝において、のちに大きな繁栄を見せることになる一文字派や長船派の源流に位置付けられる刀工一門です。古備前派の開祖・友成による実際の作刀が見られるのは、988年(永延2年)頃。父「実成」(じつなり)と共に、66代天皇「一条天皇」のもとへ召し抱えられ、勅命によって刀剣を作刀。これ以降古備前派は、「友成派」と「正恒派」に分かれて、系譜が受け継がれていきました。
古備前派の特徴は、腰反りが深く踏ん張りのある姿で、身幅が細く、小鋒/小切先となる作風です。また地鉄は、板目鍛えで地景(ちけい)が交じり、刃文については直刃、または直刃のように見える複雑な小乱刃や小丁子乱を焼きます。さらに同派の作風には、「焼き出し」(やきだし)にも個性が見られ、「鎺元」(はばきもと)の焼幅が、上部もよりも狭い形状となって焼き出されているのも特徴です。
鎌倉時代初期に発祥した「古一文字派」(こいじもんじは)を始めとして、「福岡一文字派」や「吉岡一文字派」(よしおかいちもんじは)など、諸派が誕生した一文字派。同派は、刀剣の茎に「一」の字を銘として切ることから、この呼称が付けられました。
鎌倉時代中期、福岡(現在の岡山県瀬戸内市)に住していた福岡一文字派は、開祖「則宗」を始めとする十数人の刀工が御番鍛冶に選ばれるほど、名工揃いの一門だったのです。
鎌倉時代末期には福岡一文字派に代わり、吉岡(現在の岡山県美咲町)を拠点とした吉岡一文字派が登場。この他にも「片山一文字派」などが見られますが、「一文字派」と言う場合、福岡一文字派、もしくは吉岡一文字派を指すのが通常です。
このように複数の流派があるため、その作風を一概に決められないのも一文字派の特徴。その中でも、「重花丁子乱」(じゅうかちょうじみだれ)など華やかな刃文を特徴としながら、貫禄のあるしっかりとした姿が顕著である福岡一文字派は、その隆盛は短い期間ではありましたが、最も高い評価を受けていました。
「光忠」を祖とする長船派は、長船(岡山県瀬戸内市)で作刀活動を行っていた刀工一門。同派に属した「長光」と「景光」、そして「真長」の3人は、特に技量が高かったことから「長船三作」と称されています。
腰反りの付いた太刀姿となる長船派の刀剣は、小板目肌がよく詰んだ地鉄や、直刃のみならず、「蛙子丁子乱」(かわずこちょうじみだれ)や、横手筋の上で乱れが大きく緩んで返りが浅い、長船三作に共通する「三作帽子」(さんさくぼうし)といった個性的な刃文や帽子を焼くのが特徴。また長船派は、流行を柔軟に採り入れることを得意としており、相州備前を確立させました。
1185年(元暦2年/文治元年)、「源頼朝」(みなとものよりとも)によって鎌倉幕府が開かれたことにより、武士の都となった相模国・鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)。そのため同地では刀剣の需要が急増し、名工の確保が急務となりました。そこで鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)が、山城国の「国綱」、備前国の「三郎国宗」(くにむね)と「助真」を招聘し、相州伝の基礎が築かれたのです。
1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に、モンゴル帝国の元軍が日本を侵攻しようとした「元寇」(げんこう:別称「蒙古襲来」)が勃発。これにより、重量があることで上手く振り回せなかったり、元軍が着用していた革製の鎧を刺し通せなかったりするなど、日本で作られた刀剣の弱点が判明。
「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)や、その門人の正宗らが、これらを克服する新しい技法を考案します。例えば、硬さの異なる地鉄を組み合わせて板目肌に鍛えることで、軽い重量でありながら強度を上げることに成功。さらには、湾れ乱の刃文を創始するなど、刀剣の美観もレベルアップさせ、鎌倉時代末期には、正宗により実用性と美しさをかね備えた相州伝が完成したのです。
進化した相州伝の刀剣は、全国の武士達の間で一世を風靡することに。その中で多くの刀工が、同伝の作風を採り入れようとします。しかし相州伝は、焼き入れ(やきいれ)の際に刀身を高温で熱したあと、素早く水に入れて急速に冷やす難易度の高い技術が必要だったのです。
そのため相州伝は他の伝法と比較すると、後継者があまり育ちませんでした。加えて鎌倉幕府が滅亡し、鎌倉での刀剣需要が大幅に減少してしまったこともあり、鎌倉鍛冶は、室町時代中期頃に衰退してしまいました。
正宗の名声が知れ渡るようになったことで、一気に全国区となった相州伝。最大の特徴は、強調された「荒沸」(あらにえ)にあります。意識して沸を出したり、金線や砂流し(すながし)などの刃中の働きを盛んに示したりすることで、華美な見た目を十分に表現したのです。
また、湾れに互の目や丁子を交える刃文は、焼幅が広いことが特徴。これもまた、相州伝がいちばん難しいと評される要因のひとつになっています。
姿は反りが浅い長寸で、身幅は広くて重ねが薄く、鋒/切先が延びて「ふくら」が枯れた、鎌倉武士の要求に応えた豪壮な作柄。また地鉄は、板目肌に地景が顕著に現れるのが特徴です。
新藤五派は、「新藤五国光」を実質的な始祖とする刀工一門。
その出自は、山城伝に属する「粟田口六兄弟」の末弟・国綱の子であったとするのが定説ですが、国綱の孫や、備前伝の三郎国宗の子とする説などもあります。新藤五国光の門下には、後続の刀工達がこぞってお手本にした正宗や、正宗の父と伝わる名工「行光」などがいました。
新藤五派の作風は、太刀の場合、粟田口派を彷彿とさせる上品で優美な太刀姿が特徴。身幅が狭い腰反りになっています。
また短刀の場合は、「平造り」(ひらづくり)で「筍反り」(たけのこぞり)の姿がよく見られる特徴です。
正宗は、新藤五国光に作刀を学び、相州伝を完成させたことで名高い刀工です。師の新藤五国光が当初、山城伝を修得していたため、正宗の作風にも同伝の名残が見られます。そんな正宗は、全国を行脚して多種多様な作刀技術を会得。これらをもとに独自の鍛法を確立し、相州伝を完成させたのです。
正宗の作風で注目すべき点は、地鉄の美しさと、沸出来となる刃文の見事な出来映え。互の目などの乱刃/乱れ刃が奔放に変化し、金筋や稲妻、「足」といった刃中の働きが交じる華やかな作風です。
正宗の刀剣は、相州伝における他の上工(じょうこう:刀剣の切れ味によって格付けされる「業物」(わざもの)において、上位に列せられる刀工のこと)と比べても、さらにその上を行く仕上がりとなっており、多くの武将達から重宝されています。また、同工の銘を切った作品はほとんどないため、銘のある偽物が大量に流通していました。このことからも、正宗の刀剣は、非常に人気があったことが窺えるのです。
貞宗はもともと、近江国の僧侶に刀剣の鍛法を学んでいた刀工。その後、正宗の門下に入り、技量の高さが見込まれて、同工の養子に迎え入れられました。貞宗は、越中国(現在の富山県)の「江義弘/郷義弘」(ごうよしひろ)や「則重」(のりしげ)らと共に、正宗十哲のひとりに数えられる名工です。相州伝を目指した刀工の多くは、貞宗の刀剣に範を取った「貞宗写し」の作刀に励んでおり、正宗と並んで後代の刀工達に影響を与えていました。
貞宗の作品には、身幅が広く、鋒/切先が延びた刀剣が多く見られます。また、教育者としても一流であった正宗門下の中でも貞宗は、師の作風に最も近かったと言われていますが、姿は総じて穏やかであるのが特徴です。
さらに貞宗は、刀身彫刻の名手としても高く評価されており、「梵字」(ぼんじ)や「護摩箸」(ごまばし)など、多彩な意匠の彫刻を得意としていました。
美濃伝の始まりは南北朝時代。五箇伝の中で最も新しい時代に誕生した伝法です。元来美濃国では、鎌倉時代に大和国から移って来た「千手院重弘」(せんじゅいんしげひろ)が、現在の岐阜県大垣市にあった赤坂の地で作刀活動を行っていましたが、後継が育たず、その系譜が途絶えていました。
そんな中、大和伝の手掻派出身で、正宗十哲の「志津三郎兼氏」(しづさぶろうかねうじ)と、同じく正宗十哲に数えられ、越前国(現在の福井県北東部)を本国とする「金重」(かねしげ/きんじゅう)が美濃国へ移住。この2人により、大和伝と相州伝を融合させた美濃伝が完成したのです。
美濃伝が隆盛した理由のひとつに、その立地が挙げられます。国内や周辺諸国には、「明智光秀」や「徳川家康」などの有力武将達が住しており、美濃鍛冶の得意先となっていました。美濃伝の刀剣は実用性に優れていたため、多くの武将が用いていたのです。戦国時代には、刀剣需要が急激に増加。美濃鍛冶は軍需工場さながら、刀剣の大量生産品である「数打物」(かずうちもの)を作刀しました。一方で美濃鍛冶は、良質な「注文打ち」でも、その名を馳せていたのです。
1590年(天正18年)の大洪水により、圧倒的な生産数を誇っていた備前伝が壊滅すると、美濃鍛冶のもとへ作刀依頼が全国から集中。これに応えた美濃鍛冶は、幕末まで存続しました。
美濃伝は、板目肌に流れ柾や杢目を交え、よく練れた地鉄が各流派に共通する特徴のひとつ。匂本位(においほんい)となる刃文は、互の目に丁子乱や尖り刃を交えています。
また、刃文が乱れ込み、刃先のほうへ向かって丸く返る「地蔵帽子」(じぞうぼうし)も、美濃伝の刀剣に多く見られる特徴です。
美濃伝の流派は、同伝を完成させた①志津三郎兼氏、②金重の系統と、戦国時代に繁栄した③「末関物」(すえせきもの)の3つに分類できます。
「志津系」は、志津三郎兼氏が率いた刀工一門です。兼氏は初銘を同音で「包氏」と表記していましたが、志津郷(現在の岐阜県海津市)へ移住したことをきっかけに、志津三郎兼氏と名乗るようになりました。その後、「兼次」や「兼友」など、兼氏の門人であった刀工達が直江(現在の岐阜県大垣市)に移った際に、流派名を「志津」から「直江志津」(なおえしづ)に改めています。
志津系は、相州伝を思わせる豪壮で長寸の姿が特徴。また地鉄は、相州伝の板目肌に、大和伝の柾目肌が交じっています。このように志津系の作風には、相州伝と大和伝の良いところが、バランス良く加味されているのです。
刃文は、焼幅が広い刀剣には互の目が交じり、やや狭い場合には湾れ乱が多く見られます。前述した通り、美濃伝の刀剣は匂本位となるのが普通ですが、初期の志津系や金重などは、相州伝を踏襲した沸本位の作風となるので、無銘刀剣の極めの際などには注意が必要です。
「金重系」は、金重が関(現在の岐阜県関市)に移住して来たことで始まりました。そのため同工は、「関鍛冶の祖」と称されています。金重系の刀工による太刀姿は、非常に穏やかで優しい印象を与える作風です。
刃文は、大和伝に倣ったような中直刃を基調とした小互の目乱となり、黒く澄んだ地鉄には、同じく大和伝風の柾目肌が見られます。
関鍛冶が鍛えた刀剣は、総称して「関物」(せきもの)と呼ばれていました。
なかでも、戦国時代の需要に合わせて大量生産された数打物は、「末関物」(すえせきもの)と称され、安価でありながら切れ味が良い「実用刀」として、高い人気を博していたのです。
そんな末関物を代表する名工と言えば、双璧を成す「兼定」と「兼元」です。同銘が3代続いた兼定の中でも、「之定」(のさだ)とも呼ばれ、「和泉守」(いずみのかみ)を受領した2代 兼定は、切れ味の格付けにおける最高位の「最上大業物」(さいじょうおおわざもの) に列せられています。
また、「孫六」(まごろく)の異称を持つ2代 兼元は、大小様々な互の目尖り刃が3つほどを一単位にして杉林のように連なる、「三本杉」の刃文を創始したことでも有名です。
各生産地の伝法によって刀剣を分類する五箇伝の他にも、その品質を評価する上で最も重要である「切れ味」によって分類する方法があります。刀剣の切れ味の良し悪しは、刀剣鑑定家による判断のみならず、罪人の遺体を実際に切る「試し切り」の結果によって判断していました。試し切りは、合戦が盛んに繰り返されていた安土桃山時代から江戸時代にかけて、よく実施されていましたが、江戸時代に入って太平の世が訪れると残酷だという理由で、少しずつ忌み嫌われるようになっていきました。
このような風潮を受けて江戸幕府は、試し切りを公式に行う専門職「御様御用」(おためしごよう)を設けます。なかでも特に著名であったのが、「山田浅右衛門」(やまだあさえもん:御様御用を務めていた「山田家」の当主が代々用いていた名称)。
その5代目である「吉睦」(よしむつ)は江戸時代後期、試し切りの実例をもとに、切れ味によって刀工を格付けした鑑定書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と、「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)を編纂します。
その中で用いられていたのが、「業良き物」を意味する「業物」(わざもの)という表現。
同書では、いちばん高いランクを①「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)とし、以下②「大業物」、③「良業物」(よきわざもの/りょうわざもの)、④「業物」の4等級に分けていたのです。なお、業物の格付けにおける試し切りは、下記の通り2つの条件のもとで行われました。
乳割とは、乳首より少し上の部分を指す試し切りの用語です。胸骨が発達している部分であるため、切断しづらくなっています。試し切りの際には、その乳割よりも、さらに堅い部分が選ばれたのです。
「最上大業物」は、懐宝剣尺や古今鍛冶備考によって選定された刀工の中でも、ひと際優れた切れ味の刀剣を作った刀工を指します。1797年(寛政9年)に刊行された懐宝剣尺の初版では、古刀期の刀工が5工、新刀期の刀工7工の計12工が列せられました。その後、1805年(文化2年)の再版では新刀期1工が追加。その後、1830年(文政13年/天保元年)に古今鍛冶備考が刊行された際、古刀期2工がさらに加えられ、最上大業物には、最終的に計15工が選ばれたのです。
最上大業物の判定を受けるには、乳割以上に堅い所を10回切り込み、8~9回確実に両断するか、もしくは、両断寸前まで切り込むことが条件となっていました。
古刀期に作刀された最上大業物には、試し切りの結果を茎に切った「截断銘」(さいだんめい)を持つ刀剣がいくつかあります。截断銘には様々な表現が用いられており、なかでも珍しいのが、「古釣瓶」(ふるつるべ)と表記された銘です。
釣瓶とは、井戸から水を汲み上げるときに使われる道具。底が抜けるなど古くなった釣瓶では、水が溜まらずに流れてしまいます。これが由来となり古釣瓶は、「切ることのできない水でも溜まらないほどに鋭い切れ味」を意味する截断銘となったのです。
この古釣瓶を刻んだ刀剣が、最上大業物のひとりである長船派の「元重」(もとしげ)による作刀に見られます。元重は、相州伝の名工・貞宗の門人と伝わっており、「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)に選ばれるほどの高い作刀技術を有していました。
最上大業物において、新刀期を代表する刀工のひとりが、越前国(現在の福井県北東部)出身で、元々は甲冑師でもあった「江戸新刀」の名工「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)。鉄の鍛えに秀でていた同工には、その作刀の切れ味がどれほどであったのかを窺える逸話があります。それは、「石灯籠切虎徹」(いしどうろうぎりこてつ)と号する打刀のこと。この刀剣で松の大枝を真っ二つに切った際、その傍にあった石灯籠も一緒に切り込んだと伝えられています。
長曽祢虎徹(初代 虎徹)の弟子であり、のちに養子となった「2代 虎徹」こと「長曽祢興正」(ながそねおきまさ)は初代の技術を受け継いで切れ味の鋭い刀剣を多く手掛け、初代と共に、最上大業物に列せられているのです。
最上大業物に次ぐ切れ味のランクは、「大業物」と呼ばれます。試し切りの際、乳割以上に堅い所を10回切り付け、7~8回、両断、もしくは両断寸前まで切り込めた刀剣が大業物と判定されたのです。
大業物の刀工には、最上大業物と同様に古刀期から新刀期まで、幅広い顔ぶれとなる21名の刀工が選ばれていました。特に古刀期には、備前伝の名門・長船派の「祐定」(すけさだ)や「盛光」(もりみつ)といった名工達が名を連ねており、日本における「刀剣の代名詞」と称される、備前刀の人気ぶりが見て取れます。
また新刀期は、「新刀の祖」と評される山城国の刀工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)や、新刀期の中でも江戸時代初期に、「大坂新刀」の基礎を築いた初代「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)が列せられました。大業物には、日本の刀剣史を語る上で欠かせない名工達の名前が、ずらりと並んでいるのです。
錚々たる名工が列挙された大業物の中には、不思議な霊力を持っていたと伝わる刀剣を作刀した刀工がいます。それは、古刀期における加賀国(現在の石川県南部)出身の刀工「藤島友重」(ふじしまともしげ)。「火車切」(かしゃぎり)と号するその刀剣は、1749年(寛延2年)に発刊された会談奇談集「新著聞集」(しんちょもんじゅう)に登場します。
「大給松平家」(おぎゅうまつだいらけ)2代当主「松平近正」(まつだいらちかまさ)が従兄弟の葬儀に参列した時、雷雲から火車と共に妖怪が出現。遺体が奪われそうになったため、松平近正がこの火車切で妖怪の腕を切り落とし、その場から退散させたとする伝承があるのです。
このように大業物の刀剣には、切れ味に秀でた武具としてだけではなく、どこか妖しげな力を宿した、魔除けのような側面を併せ持っていたことが分かります。
「良業物」は大業物の次に、良い切れ味の刀剣を作刀した刀工に与えられるランク。試し切りにおいて、乳割以上に堅い所を10回斬撃したうち、5~7回両断、または、両断寸前まで切り込めた刀剣が、良業物に認定されました。この良業物には、計58工が選ばれています。
良業物の刀工は、58工中15工が古刀期の備前国、及びその近辺の出身です。刀工の本国が偏った比率で選ばれていることは、業物における他のランクではほとんど見られません。古刀期において、生産量日本一を誇っていた備前刀は、見た目の美しさと切れ味の良さで、高い人気を博していました。そして、その人気は日本国内にとどまらず、備前刀は、貿易によって輸出されたことで、中国でも絶賛されるように。
その記録は、明王朝時代(1368~1644年[応安元年~寛永21年])の物産解説書「東西洋考」(とうざいようこう)に残されています。具体的には、「倭刀(わとう:日本の刀剣のこと)、甚だ(はなはだ)利あり。中国人多くこれをひさぐ(手に提げる)」と評されており、日本より先に作刀の技術が発展した中国において、当時の備前刀が、どれほどの高評価を得たのかを物語っていたのです。
また、良業物を占める割合を古刀期と新刀期で比べた場合、新刀期の刀工数が多く、良業物の半分以上が新刀期の刀工で構成されていました。その中で著名な刀工のひとりに、「11代 会津兼定」(あいづかねさだ)がいます。その刀工名からも分かる通り同工は、会津(現在の福島県)の地を拠点として作刀活動を行った刀工。
会津兼定は、「新選組」の副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)が愛用していた刀剣「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)を鍛えたことでもよく知られています。
「業物」は切れ味の判定において、良業物に次ぐ4番目のランクです。最上大業物や大業物、そして良業物と同じように試し切りを行った際に、乳割以上に堅い所を切り込んだ10回中、3~4回の両断、または両断寸前まで切り込めた刀剣が業物に選ばれています。
業物の刀工は、切れ味の格付けの中で93工と最も数が多く、その代表格とも言える刀工のひとりが「井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)です。
同工は江戸時代前期に、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)において、作刀を行っていた刀工。井上真改は、1658年(明暦4年/万治元年)に自身の作刀を朝廷に献上した際、その出来映えが称賛され、天皇家の証しである「菊の御紋」を茎に切ることが許された名工です。同じく業物に列せられた「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)と共に、大坂新刀の双璧をなす名工として高く評価されました。
そんな2人が江戸時代初期に合作した、「刀 銘 津田越前守助広 井上真改」が現代にまで伝わっています。大坂新刀の特色を窺い知るだけではなく、両者の関係性を推測する資料としても、非常に貴重な1振です。
業物において著名な刀工は、この他には「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)が挙げられます。現在の大阪府池田市に当たる地域で作刀していた同工は、新選組の三番隊組長「斎藤一」(さいとうはじめ)が佩用した刀剣を鍛えたと伝えられているのです。
また業物には、新刀期に活躍した刀工が多く列せられています。業物における古刀期の刀工は93工中、備前伝の「二王清実」(におうきよざね)と「長船春光」(おさふねはるみつ)、大和伝の「金房政次」(かなぼうまさつぐ)ら3工のみ。
戦乱のない太平の世となった江戸時代に当たる新刀期に比べ、古刀期の刀剣は、合戦の場で何度も使われていたため、切れ味が鈍いなど品質があまり良くない場合、後世にまで残ることはやはり難しかったのが実状。逆に言えば、良業物以上に列せられている割合として、古刀期の刀工が多いのは、切れ味が鋭い良質な刀剣ばかりが残された結果であったと考えられているのです。
ここまでご説明した大業物と良業物、そして業物に選ばれなかった刀工は、懐宝剣尺と古今鍛冶備考において「混合」(こんごう)と題した項目にまとめて紹介されています。
その刀工数は、合計で68工。混合の刀工が、最上大業物を除く業物以上に格付けされなかった理由には諸説あり、一説によると、鑑定書である懐宝剣尺と古今鍛冶備考の出版時期が異なっていたことが影響したと推測されています。
前述した通り、懐宝剣尺の初版で出版されたのは、1797年(寛政9年)。これが思いのほか高い評判を得たことを理由に、山田浅右衛門吉睦が再編纂し、1830年(文政13年/天保元年)に古今鍛冶備考が発刊されたのです。懐宝剣尺の初版から古今鍛冶備考が出されるまでの期間は、30年あまり。その期間中も山田浅右衛門吉睦は、江戸幕府の御様御用の職務に従事していたため、試し切りを継続していたのです。
このような経緯があり、懐宝剣尺が出版されたときには、切れ味を確認することができなかった刀剣が、古今鍛冶備考が出版される頃には、膨大な数に増えていました。新しく試し切りを行い、その切れ味が吟味された刀剣を掲載するために、大業物・良業物・業物混合の項目が追加されたと考えられているのです。
大業物・良業物・業物混合には、美濃伝の関鍛冶や備前伝の長船鍛冶など、数多くの優品を世に送り出した刀工達に混ざって、希少性の高い刀工の名前も記されています。その刀工とは、薩摩国・波平(現在の鹿児島県鹿児島市)に住して作刀活動を行っていた、「波平派」の刀工「波平重吉」(なみひらのしげよし)。希少流派として知られる同派は、平安時代後期から幕末に至るまで、約900年にも亘り存続した刀工一門。波平派の作刀は、その切れ味についても定評があり、「平家物語」や「源平盛衰記」などの軍記物語にも、「波平」の名が登場するほどの名門としても知られているのです。
刀と言えば、煌めく美しいその見た目や、鋭い切れ味などが魅力として挙げられます。一方で、1振の刀をじっくりと鑑賞する際は、その全体の見た目である「姿」以外にもたくさんの見所が存在。しかし、それらの見所は画像を観るだけではなかなか伝わりません。刀は、展覧会や鑑賞会へ足を運んで実際に鑑賞することで、さらにその美しさと魅力を知ることができます。刀を鑑賞する際に大切なのは、「姿」、「刃文」(はもん)、「地鉄」(じがね)、「銘」(めい)、「刀身彫刻」(とうしんちょうこく)、「樋」(ひ)など、各鑑賞ポイントを押さえることです。
「姿」とは、「鋒/切先」(きっさき)、「身幅」(みはば)、「反り」、「長さ」など、刀全体の形状を総称した言葉のこと。
刀身のなかでも、「茎」以外の部分(鋒/切先から棟区)までを指しており、「体配」(たいはい)とも呼ばれています。「姿」は、刀を鑑賞する際にはじめに注目する部分であり、その刀がいつの時代に作刀されたのかを知る手がかりにもなるのです。
姿の各部位は、作刀された時代・刀工によって、その形状や名称が異なるのが特徴。すべてを覚えるのは非常に大変ですが、覚えておくとより楽しく刀を鑑賞することができます。
「鋒/切先」とは、刀身の先端部分のこと。正確には、「鎬筋」(しのぎすじ:刀身の側面、刃と棟の間にある山高くなっている筋のこと)と、刃から棟に引かれた「横手」(よこて:鋒/切先の下部に入る境界線)が交わる、「三つ頭」(みつがしら)より上の部分を指します。その長さや形状によって、「かます鋒/かます切先」、「小鋒/小切先」、「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)、「中鋒/中切先」、「大鋒/大切先」の5種に大別することが可能です。
5種のうち、最も小さく、また最も古い時代に作刀されていたのが「かます鋒/かます切先」。「かます鋒/かます切先」の次に作刀されたのが「小鋒/小切先」です。
小鋒/小切先とかます鋒/かます切先は大きさがほとんど同じですが、「ふくら」(鋒/切先の刃側の曲がり具合)を観たときに、膨らみが浅い「ふくら枯れる」と表現される場合は「かます鋒/かます切先」、膨らみが大きい「ふくら張る」や「ふくら付く」と表現される場合は「小鋒/小切先」と判断することができます。
「猪首鋒/猪首切先」とは、「中鋒/中切先」の一種。一見では中鋒/中切先と区別しづらいですが、中鋒/中切先と比較すると、猪の首のように少し短く詰まったような姿をしているのが特徴です。
「大鋒/大切先」とは、5種のなかでひと際大きい鋒/切先のこと。他の4種に比べて明らかに大きいため、すぐに区別が付きます。
また、鋒/切先には「帽子」(ぼうし)と呼ばれる見所が存在。「帽子」とは、鋒/切先に現れる刃文のことで、その刀を作刀した刀工の技量や特徴がよく表われる部位でもあります。刃文の特徴によって、約20種に分類することができ、刀工によって様々な模様の帽子が焼かれました。
また、「名工で帽子が下手な人はいない」とも言われているため、鋒/切先を鑑賞する際は、どのような帽子が焼かれているのかを見極めることも鑑賞ポイントとなります。
「身幅」とは、棟から刃先までの長さのこと。区(まち:茎に向かってカギ形にくぼんでいる部位)の側面の幅を「元幅」(もとはば)、区の棟の厚みを「元重」(もとがさね)。また、横手筋付近の側面の幅を「先幅」(さきはば)、横手筋付近の棟の厚みを「先重」(さきがさね)と呼びます。
刀は、身幅を調べると作刀された時期をある程度推測することが可能。平安時代後期から鎌倉時代中期に作刀された刀は、身幅が広く、重ねが厚く、重量がありました。鎌倉時代後期から南北朝時代になると、身幅が広く、重ねが薄い刀が主流になります。
また、身幅は刀の印象に大きな影響を与える部分です。先幅と元幅の差が大きいことを「踏ん張りがある」と言いますが、この形状の刀は鋒/切先が小さくなるため、優美な印象を与えます。なお、踏ん張りがある刀が多く作刀されたのは平安時代までで、鎌倉時代から南北朝時代に入ると、先幅と元幅の差が小さくなるのが特徴です。
「反り」とは、鋒/切先(きっさき)から棟区(むねまち:棟側の区)までを線で結んだ際、棟とその線までの距離が最も離れている部位の寸法のこと。
刀は、「斬る」ことに特化した武器として作られていますが、その切れ味の良さは反りによって生み出されているのです。
反りは、その反り具合によって
「腰反り」(こしぞり)、「中反り」(なかぞり)、「先反り」(さきぞり)、「内反り」(うちぞり)、「筍反り」(たけのこぞり)、「無反り」(むぞり)の6種に大別されます。
「腰反り」は、平安時代後期から鎌倉時代前期に作刀された刀に多く見られる反り。反りの中心が、茎に近い位置にあるのが特徴です。
「中反り」は、鎌倉時代に作刀された刀に見られる反り。その形状が神社の鳥居に似ていることから「鳥居反り」(とりいぞり)とも言われており、反りの中心が刀身の真ん中付近にあるのが特徴です。
「先反り」は、室町時代から戦国時代に作刀された刀に多く見られる反り。反りの中心が、刀身の中央よりも鋒/切先寄りにあるのが特徴です。先反りの刀は、片手で扱う刀「片手打」(かたてうち)として使用されていました。
「内反り」は、奈良時代以前、及び鎌倉時代に作刀された刀に見られる反り。一般的な刀と異なり、その反りが棟側ではなく刃側に付いているのが特徴です。
「筍反り」は、鎌倉時代に作刀された刀に見られる反り。内反りの一種に分類されており、刀身に反りが少なく、刃の方へ傾いているのが特徴です。
「無反り」は、江戸時代に作刀された刀に見られる反り。刀身に反りが全くないのが特徴です。無反りの刀は、剣術で使用する「竹刀」(しない)に合わせて作られたと言われています。
刀は、長さによって「大太刀」(おおたち)、「太刀」(たち)、「打刀」(うちがたな)、「脇差」(わきざし)、「短刀」(たんとう)に分類することが可能です。
「大太刀」とは、最大級の刀で刃の長さが約3~10尺(約90㎝~約3m)ある長大な刀のこと。神社などへの奉納刀に使用されていた他、実際に戦場で使用されたこともあったと言われています。
「太刀」とは、刃の長さが約2尺3寸~3尺(約70㎝~約90㎝)ある刀のこと。「太刀緒」(たちお)と呼ばれる紐や革を使い、腰から吊るして携帯します。このとき、刃の向きは下向きになるため、博物館などで展示される際は同じように刃の向きが下向きになっていることが多いです。
「打刀」とは、刃の長さが約2尺(約60㎝)以上ある刀のこと。携帯する際は、腰帯に差します。このとき、刃の向きは上向きになるため、博物館などで展示される場合は同様に、刃の向きが上向きになっていることが多いです。
「脇差」とは、刃の長さが約1~2尺(約30㎝~約60㎝)以下の刀のこと。打刀より少し短いのが特徴です。また、その長さが1尺8寸~2尺(約54.5㎝~約60㎝)であれば「大脇差」(おおわきざし)、1尺3寸~1尺8寸(約40cm~約54.5㎝)未満であれば「中脇差」(ちゅうわきざし)、1尺3寸(約40cm)未満であれば「小脇差」(こわきざし)に分類されます。
「短刀」とは、刃の長さが1尺(約30㎝)未満の刀のこと。女性や子どもでも扱えるサイズであったため、古くから護身用の武器として利用されていました。護身用の短刀は、約4寸~5寸(約12cm~約15cm)までの長さで、懐へ隠して持ち運ぶことができたため、「懐剣」(かいけん)、「懐刀」(ふところがたな)、「隠剣」(おんけん)などとも呼ばれます。
また、甲冑(鎧兜)の隙間に刺すための「鎧通」(よろいどおし)も短刀の一種です。鎧通は、右手で逆手に持って使用するため、その長さは約9寸5分(約28.8㎝)以下、つまり肘までの長さになるのが一般的です。
なお、その長さが脇差と同じ1尺(約30㎝)以上の「寸延短刀」(すんのびたんとう)と呼ばれる短刀も存在。寸延短刀は、現在の登録制度では脇差に分類されますが、短刀として作刀されたため、短刀の一種と見なされています。
「刃文」とは、刀身に現れる白っぽい模様のこと。刀工の個性が最も出る部分であるため、刀の見所のなかでも、最大の見所と言われています。
なお、「刃文」と聞いて連想されるものとして、刀身のなかでも「すぐに目に付く白い波」のような部分がありますが、その白い模様はじつは刃文ではありません。
一般に、刃文と誤解されがちな白い模様は、研ぎによって付けられます。刃文は刀を作る際、「焼き入れ」と言う作業によって刀身に付けられる模様であり、刀を光に当てて、様々な角度から鑑賞することで確認することができるため、刃文が見られる角度を探すのも鑑賞ポイントのひとつです。
刃文の種類は、「直刃」(すぐは)と「乱刃(乱れ刃)」(みだれば)に大別されています。「直刃」とは、直線的な刃文のこと。その幅が非常に細い直刃を「糸直刃」(いとすぐは)、糸直刃より少し広い直刃を「細直刃」(ほそすぐは)、細直刃より広い場合は「中直刃」(ちゅうすぐは)、最も幅が大きい場合は「広直刃」(ひろすぐは)と言います。
「乱刃(乱れ刃)」とは、直刃以外の刃文のこと。作刀された時代や地域、作刀した刀工によって様々な種類の乱刃が付けられました。
「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)とは、植物の「丁子」の実を連ねたような乱刃のこと。丸みの大きさや向き、長さなどによって「大丁子乱れ」(おおちょうじみだれ:丸みが大きい丁子乱れ)や「小丁子乱れ」(こちょうじみだれ:丸みが小さい丁子乱れ)、「重花丁子乱れ」(じゅうかちょうじみだれ:大丁子乱れが八重桜のように重なり合って、大きく乱れて見える丁子乱れ)、「蛙子丁子乱れ」(かわずこちょうじみだれ:大丁子乱れのなかに蛙子[かわずこ:おたまじゃくし]を思わせる乱れが交じっている丁子乱れ)、「逆丁子乱れ」(さかちょうじみだれ:丁子の足が鋒/切先へ向かって傾いている丁子乱れ)、「足長丁子乱れ」(あしながちょうじみだれ:丸みが刃先に向かって長く伸びている丁子乱れ)など、様々な種類があります。
「互の目乱れ」(ぐのめみだれ)とは、丸い文様が連続して凹凸のある形に見える乱刃のこと。丁子乱れ同様に、形状や長さによって「小互の目」(こぐのめ:丸い文様が小さい互の目乱れ)、「片落ち互の目」(かたおちぐのめ:丸い文様が斜めに切り取られ、のこぎりの刃のように見える互の目)、「三本杉(互の目尖り)」(さんぼんすぎ/ぐのめとがり:丸い模様のなかに、尖ったような模様が混ざり、連なっている互の目)などの種類があります。
「湾れ刃」(のたれば)とは、大波がゆったりと波打つような乱刃のこと。そのうねり具合によって「大湾れ」(おおのたれ:うねり具合が特に大きい湾れ刃)、「中湾れ」(ちゅうのたれ:うねり具合が大湾れより小さい湾れ刃)、「小湾れ」(このたれ:うねり具合が特に小さい湾れ刃)、「湾れ乱れ」(のたれみだれ:うねり具合のなかに乱れが混ざった湾れ刃)、「直湾れ」(すぐのたれ:直刃に近い湾れ刃)、「互の目湾れ」(ぐのめのたれ:互の目を交えた湾れ刃)などの種類があります。
刃文にはこの他にも、「数珠刃」(じゅずば:互の目の丸みがほとんど同じ大きさで揃って並んでいる乱刃)、「簾刃」(すだれば:刃と並行に点や線が流れる乱刃)、「濤瀾刃(濤瀾乱れ刃)」(とうらんば/とうらんみだれば:うねり具合が湾れ刃よりも様々に付いた乱刃)、「皆焼刃」(ひたつらば:刃先だけではなく、地鉄部分にも焼き入れがされている乱刃)、「箱乱刃」(はこみだれば:互の目の形状が長方形の箱のようになっている乱刃)など、様々な種類が存在。刃文は、その刀工の個性が最も発揮される部位であるため、鑑賞ポイントのなかでも特に重要な部位と言えるのです。
刃文は、刀を鑑賞したときに、目を凝らせば見えるサイズの粒子「沸」(にえ)と、肉眼では確認できないほど細かい粒子「匂」(におい)によって構成されています。
そして、どちらの粒子が主体となっているかで、「沸出来」(にえでき)、「匂出来」(においでき)と分類されるのが通常です。
しかし、沸出来と匂出来は区別するのが非常に難しいため、熟練の愛刀家でも判断に迷うことが多いと言われています。沸出来か匂出来かを正確に判断するには、様々な刀を鑑賞して、知識と鑑識眼を養うことが大切です。
刃文には、直刃や乱刃以外にも、様々な模様が存在。そうした模様が多彩に現れる様子を「刃中の働き」と呼びます。
沸は、その粒の大きさ順に「荒沸」(あらにえ)、「中沸」(ちゅうにえ)、「小沸」(こにえ)と呼び分けることが可能です。
一方で、匂は粒子が見えない代わりに、粒子の集合体の幅や色などで様々な表現がされます。刃文と地鉄の境目に見える匂を「匂口」(においぐち)と呼び、匂口は刃文全体の印象を決める重要なポイントです。
鑑賞する際は、「匂口深い」(においぐちふかい:匂の幅が広く、色が濃くなっている状態)、「匂口締まる」(においぐちしまる:匂口が光によって強く輝き、肉眼でもはっきりと見える様子)、「匂口冴える」(においぐちさえる:匂口がはっきりと明るく光って見える状態)、「匂口潤む(眠い)」(においぐちうるむ/ねむい:匂口が不明瞭になっている状態)、「匂口沈む」(においぐちしずむ:匂口がほとんど見えず、沈んでいる状態)などと言い表します。
また、刃文に現れる働きはこの他にも、「刃縁」(はぶち:匂口が現れる境界線)を起点として「足」(あし:刃縁から刃先へ向けて、真っ直ぐに切り込んだような働き)や「葉」(よう:刃縁から独立して、刃中に入る楕円状の働き)、「逆足」(さかあし:刃縁から刃先にかけて、鋒/切先へ向けて斜めに切り込んだような働き)、「小足」(こあし:足のなかでも、切り込んだような距離が短い働き)、「鼠足」(ねずみあし:小足よりもさらに短い働き)、「玉」(たま:刃縁から独立して、刃中に入る円形状の働き)、「ほつれ」(直刃の沸や匂の一部が、ほつれた糸のように地鉄へはみ出ている働き)、「金筋」(きんすじ:刃中に、刃と並行に現れる、黒く太い線状の働き)、「稲妻」(いなづま:金筋の線が、稲妻のようにうねっている働き)など、多彩な模様・表現が存在。
日本刀は、「折り返し鍛錬」と呼ばれる鍛錬方法によって作られます。「折り返し鍛錬」とは、叩いては伸ばし、重ねて、また叩いては伸ばし、重ねると言う作業を繰り返す鍛錬法のこと。この鍛錬を行うと、刀身は強靭になり、その表面に様々な模様が付きます。地鉄は、その模様のことを指しており、「姿」や「刃文」とともに、その刀が作られた時代や流派を見分ける上で不可欠な部位であり、刀工の個性が表れる見所のひとつです。
地鉄は、刃文と同様に刀を手に取って、光に反射させることで確認できます。地鉄の模様には、「鍛肌」(きたえはだ)と呼ばれる様々な種類が存在。鍛肌の名称には、基本的に「肌」と言う言葉が付くのが特徴です。
「板目肌」(いためはだ)とは、地鉄の表面が木材の板目に似た模様のこと。複数ある地鉄の模様のなかでも、様々な刀に現れる代表的な模様です。板目の大きさが大きい場合は「大板目」(おおいため)、反対に板目の大きさが小さい場合は「小板目」(こいため)と呼ばれます。
「杢目肌」(もくめはだ)とは、地鉄の表面が木の株に見られる年輪のようになっている模様のこと。一般に、杢目肌のみではなく、板目肌に交じって現れる模様と言われています。
「柾目肌」(まさめはだ)とは、地鉄の表面が木を縦に切ったような、真っ直ぐに伸びている模様のこと。杢目肌と同様に、板目肌に交じっていたり、反対に柾目肌の一部に板目肌が交じっていたりする場合が多いです。
また、地鉄は鍛肌の他にも「働き」があります。
「地景」(ちけい)とは、鍛肌のなかに現れる、黒光りする細い線のこと。見極めるのが特に難しい働きと言われていますが、大板目が現れる刀だと見えやすく、肌目が細かい鍛えの刀だと認識しにくいのが特徴です。なお、地景は刃文に現れる「金筋」や「稲妻」が、地中に現れたものと言われています。
「地沸」(じにえ)とは、地鉄に現れる沸のこと。刃文のなかに現れる沸と同質の物であるため、鑑賞する際は単に「沸」と呼ぶのではなく、刃文に現れる沸を「刃沸」(はにえ)、刃文に現れる沸を「地沸」と呼び分けています。
「湯走り」(ゆばしり)とは、刃縁から沸や匂が地鉄の方へ流れ込むように連なっている模様のことを言います。湯気が漂っているように見える様子が、名称の由来と言われています。
刀は、茎部分に「銘」(めい)と呼ばれる文字が入れられることが多いです。「銘」とは、茎部分に切られた作者名や作刀年のこと。基本的には、その刀の作刀者が銘を切りますが、文字が書けない刀工に代わって、代理の人が銘を切ることもありました。
銘は、「鏨」(たがね)と呼ばれる棒状の工具を使用して入れられます。なお、鏨を槌(つち)で叩いて銘を切る作業は非常に難しいため、銘の上手や下手、また文字の特徴などでその刀が本物か、あるいは偽物かを見極めることも可能です。
通常であれば、銘の文字が上手な方が本物と思われがちですが、なかには「もとの作刀者よりも銘が上手に入れられている」と言う理由で偽物と判明することも。
銘の位置に明確な決まりはありませんが、一般的には太刀は「佩表」(はきおもて)、打刀は「差表」(さしおもて)に刀工名を入れ、裏側に作刀した年月や作刀地などが切られます。
「作者銘」とは、刀の作者である刀工の名前を切った銘のこと。その刀を作刀したのが誰なのかを示す重要な手がかりとなる銘であるため、刀を鑑定するときも作者銘があるか、ないかで大きく結果が変わると言われています。
また、銘を切る人によっては、直線のみで表現した「楷書体風」や、曲線も採り入れたやわらかい印象を与える「行書体風」など、文字の刻み方に個性が表れているのも見所のひとつ。なお、その銘の書体以外にも、銘の書き順(鏨を切る方向)や鏨を切った際の茎の盛り上がり方などで本物か、あるいは偽物かを見分けることができると言われています。
「受領銘」(ずりょうめい)とは、刀工が朝廷や幕府から与えられた国司名を、作者銘へ加えた銘のこと。受領銘は、名目上の官位ですが、江戸時代には多くの刀工が受領しました。「守」(かみ)、「大掾」(だいじょう)、「介」(すけ)などが代表例です。
「紀年銘」(きねんめい)とは、作刀した年月を記した銘のこと。一般に、刀の裏側に切られるため「裏銘」とも呼ばれます。年号の他、正確な月日を入れることもありますが、焼き入れに適した時期と言われる「二月日」や「八月日」が多く見られます。
「所持銘」とは、その刀を所有した人物の名を入れた銘のこと。基本は、刀を注文したときに注文者が希望することで入れられました。なお、のちに刀が別人のもとへ渡った際にも、本人の名前の他、所持した理由などを入れることがあり、こうした所持銘は室町時代や江戸時代末期の刀に多く見られます。
「注文銘」とは、刀を注文した人の名前を切った銘のこと。所持銘と異なるのは、刀工の名前と注文者の名前が同時に切られている点。刀には主に、武士などから注文されて作刀する「注文打ち」と、大量生産された「数打ち」の2つに分けられます。このうち、注文銘が入れられたのは「注文打ち」の方であり、数打ちの刀と比較すると、その姿は優れた出来となっているのが特徴です。
刀は、その表面に様々な彫刻が施されることがありますが、そうした彫刻を「刀身彫刻」と言い、刀の見所のひとつとして多くの人びとを魅了しています。刀身彫刻が入れられた理由は、重量を軽くするための他、宗教への信仰心を表すため、また作刀者や所持者の思いが込められたためなど、じつに様々。
刀身彫刻は、その刀の作刀者が施すことが多いため、専門の職人である「彫師」(ほりし)が活躍するのは江戸時代に入ってからでした。江戸時代以降、刀は武具ではなく、美術品としての価値が見いだされるようになったことで、刀身彫刻もその装飾性が高まったのです。そうしたなかで、刀工と彫師の分業が明確化し、各地で著名な彫師が出現。なかには、刀工と同じように自身の名を銘に切る彫師も現れました。
刀身彫刻は、「鏨」の他、「豆槌」(まめつち)や「福槌」(ふくづち)と呼ばれる、鏨を叩くための道具を用いて施されます。使用する鏨の数は、その彫師によって異なりますが、なんと約50~数百種類。それらの鏨はひとつひとつが手作りされているだけではなく、なかには1度使ったらそれきりという物もあると言われています。
刀は、戦場で使用されていた時代にも、「戦勝祈願」や「邪気払い」などを目的として様々な装飾が施されました。
「梵字」(ぼんじ)とは、インドのサンスクリット語を起源とした仏教用語のこと。サンスクリット語は、もとはインド神話で登場する、万物を創造した神「ブラフマー」(日本では[梵天]と訳される)が作った文字と言われており、密教とともに日本へ渡りました。
刀身彫刻の梵字でもっとも多く見られるのは「不動明王」(ふどうみょうおう)。また、その他に「愛染明王」(あいぜんみょうおう)、「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)、「摩利支天」(まりしてん)なども多く見られます。
密教で使用される法具「金剛杵」(こんごうじょ)の一種である「独鈷」(とっこ/どっこ)や「三鈷剣」(さんこけん)、不動明王の化身である「素剣」(そけん/すけん)、不動明王が左手に持つ密教法具「羂索」(けんさく/けんじゃく)、不動明王の変化神「倶利伽羅」(くりから)などの図柄は、刀身彫刻として人気です。
また、「日本武尊」(やまとたける)や「達磨」(だるま:中国禅宗の開祖)、縁起がいいとされる動植物など、所有者や注文者の好みによって様々な彫刻が施されました。
「樋」とは、刀身彫刻の一種で、刀の棟側に施される細長い溝のこと。刀身に樋を施すことを「掻く」、または「突く」と言い、樋が掻かれた刀は見栄えが良くなることから、愛刀家の間でも「樋が掻かれた刀の方が好き」と言う人も多いです。
樋は、なんのために刀身へ入れられたのかの史料が見つかっていないため、明確な役割は判明していません。一般には、「刀の強度を低下させずに刀身を軽くするため」、「見栄えを良くするため」、「風切り音を出やすくするため」などが考えられています。
また、刀のなかには茎まで樋が深く掻かれていることも。こうした樋は「掻通し」(かきとおし)や「掻流し」(かきながし)と言い、「古刀」の時代によく見られました。
なお、樋が掻かれた刀は、一度折れ曲がるとプロの技量であっても、もとの状態に戻すことは困難と言われているため、「居合術」などでは樋が掻かれていない刀を使用するのが一般的です。
樋は、掻かれている本数や形状、長さなどによっていくつかの種類が存在。
「棒樋」(ぼうひ)とは、刀身に沿って掻かれた1本の樋のこと。刀身に見られる樋のなかでも特に多い、典型的な樋と言われています。
「添樋」(そえび)とは、樋に沿うように掻かれたもう1本の細い樋のこと。
「連樋」(つれひ)とは、先端が棒樋の先まで並行して掻かれた樋のこと。添樋と似ていますが、連樋は添樋よりも少しだけ長く、先端まで沿っているのが特徴です。
「二筋樋」(ふたすじひ/にすじひ)とは、同じ太さの樋が2本、並行して掻かれている樋のこと。
「腰樋」(こしび)とは、茎寄りに掻かれた短い樋のこと。
なお、樋は斬った相手の血が溝のなかを流れていく様子から「血流し」と言う別名があることでも有名。一方で、樋のなかに血が入ると手入れが困難になるとも言われているため、樋のなかに朱色の漆を塗ることで、手入れをしやくすることもありました。
博物館などで観ることができる刀のなかには、こうした理由から朱漆が塗られた刀もあるため、樋の形状や本数、どのような色であるのかなどを意識しながら観るのもおすすめです。
平安時代中期、日本独自の製法により誕生した刀。以来、名刀と謳われる作品も数多く歴史に名を残してきました。古くから知られた名刀の多くは、徳川幕府8代将軍「徳川吉宗」の命により編纂された名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に所載され、現代においては、日本国民の宝として国宝・重要文化財・御物(ぎょぶつ:皇室の私有品)に指定されています。
また、刀の切れ味や巧みな装飾、そして刀身自体が持つ美しさは、日本のみならず海外の人々をも魅了し、世界中でファンを増やしているのです。
ここでは、日本が誇る刀の中から、とりわけ著名な名刀中の名刀をご紹介。
いずれも名のある刀匠の手により鍛えられ、戦国武将や歴史人、天皇・公家の愛刀として大切に受け継がれた逸品ばかりです。
名だたる名刀の中でも、最高傑作との呼び声が高い5振の刀を「天下五剣」(てんがごけん)と言います。その5振とは、「童子切安綱」(どうじきりやすつな)、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「大典太光世」(おおでんたみつよ)、「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)のこと。
天下五剣は、室町時代には広く知られ、江戸時代に名物として「享保名物帳」にも所載されました。そして、「天下五剣」という名称が用いられるようになったのは明治時代と言われています。「日本刀研究会」を設立した刀剣研究家の「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)らの著作に「天下五剣」の名称が見られることから、当時自然発生的に名刀5振の総称として定着していったと考えられているのです。
時代を超え、人々の心を惹き付けて止まない天下五剣について、詳しく見ていきましょう。
童子切安綱という号の由来は、鬼退治伝説にあります。平安時代、京の都で非道の限りを尽くす「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼がいました。これに困った帝は武将の「源頼光」(みなもとのよりみつ)に鬼退治を依頼。
源頼光は見事に鬼を討ち取り、そのとき使われた太刀は、鬼の名にちなんで「童子切」と名付けられたのです。その後、童子切安綱は足利将軍家、「豊臣秀吉」、「徳川家康」といった時の権力者に伝来していきました。
童子切安綱の作者は、平安時代中期に伯耆国(現在の鳥取県中西部)で活躍した刀工「大原安綱」(おおはらやすつな)です。腰反りが高く、優美にして豪壮な作風を得意としました。童子切安綱を語る上で忘れてはならない特徴がその切れ味です。江戸時代に罪人の死体を使用して行われた試し斬りでは、6体を輪切りにして、さらに下の台座まで切り裂いたと伝えられています。
現在は「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に収蔵。展示されるたびに愛刀家やファンの間で話題になる人気の高い作品です。
三日月宗近を作刀したのは、平安時代の刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)。
山城国(現在の京都府)三条で栄えた刀工一派「三条派」の開祖として知られ、「源義経」が所持した短刀「今剣」(いまのつるぎ)や、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)の愛刀「岩融」(いわとおし)など伝説的な刀を何振も鍛えました。
「三日月」という号は、三日月形の「打ちのけ」(刃縁の辺りでほつれた短い刃文の一種)に由来。小さな三日月をいくつも映すその刀身は冴え冴えとして、刀姿は茎から腰にかけての反りが強く、鋒/切先に向かうほど反りが浅くなるのが特徴で、この太刀の清廉な優雅さを際立たせています。天下五剣の中でも最も美しく、「名物中の名物」と称賛されるのも納得の名刀です。
三日月宗近もまた高名な武将達に愛され、足利将軍家や徳川家へと受け継がれました。現在は「東京国立博物館」が収蔵しています。
「鬼丸国綱」は、天下五剣の中で唯一、御物となっている刀です。「鬼丸」という号は、不思議な逸話が由来となっており、それは鎌倉時代のこと。鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)は、夜ごと夢に現れる鬼に苦しめられていました。1寸(約30cm)ほどの小鬼が眠りを妨げようとするのです。
しかし、ある夜、北条時頼が火鉢の側で眠っていると、抜き身のまま柱に立て掛けておいた刀がひとりでに倒れ、火鉢の脚を切り落としました。驚いた北条時頼が目を凝らすと、斬り落とされた火鉢の脚には、夢に現れる小鬼とそっくりな鬼が象られていたのです。これ以降、悪夢にうなされることはなくなり、北条時頼は鬼を斬った太刀に邪気を打ち祓う霊剣として「鬼丸」と名付けました。
鬼丸国綱の作者は、鎌倉時代の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)です。北条時頼の招きに応じて鎌倉へ移住し、のちに鬼丸と名付けられる太刀を鍛えたと言われています。
鬼丸国綱は皇室の所有となっているため、一般公開されることはめったにありません。愛刀家が一度は目の前で鑑賞したいと希望する憧れの刀なのです。
足利将軍家の家宝として伝わったのち、豊臣秀吉に献上された大典太光世は、霊力の宿る刀としても知られています。
安土桃山時代の武将「前田利家」(まえだとしいえ)の娘「豪姫」(ごうひめ)が原因不明の病に臥したときのこと。前田利家は治癒祈願のため豊臣秀吉から大典太光世を借り受け、豪姫の枕元に置きました。するとたちまち病は治ったのですが、大典太光世を返すと病がぶり返してしまいます。そのため、何度か貸し借りを繰り返した末、豊臣秀吉から前田家へ贈られることになったのです。
そんな大典太光世を作刀したのは、平安時代に筑後国(現在の福岡県南部)を拠点とした刀工「三池典太光世」(みいけてんたみつよ)。刀工集団「三池派」の開祖として知られ、身幅が広く重厚感のある刀を得意としていました。
現在、大典太光世は前田家の文化遺産を保存管理するために設立された「公益財団法人 前田育徳会」が収蔵し、年に数回「石川県立美術館」(石川県金沢市)で展示されています。
「日蓮宗」の開祖「日蓮上人」(にちれんしょうにん)ゆかりの霊剣として知られる数珠丸恒次。日蓮上人が身延山(日蓮宗の総本山)の開山にあたり、麓に住む有力信徒から寄進された刀です。日蓮上人はその刀を「破邪顕正の太刀」(はじゃけんしょうのたち:邪道を打ち破り正しい道理を示す太刀)として佩刀します。「数珠丸」の名は、柄に数珠を巻いて用いたと伝えられることから名付けられました。
数珠丸恒次を作刀した刀工は、平安時代末期から鎌倉時代前期に備中国(現在の岡山県西部)で活躍した「青江恒次」(あおえつねつぐ)。
「後鳥羽上皇」の「御番鍛冶」(ごばんかじ)を務めたほどの名工であり、「備前守」の受領名を下賜されています。
現在、数珠丸恒次は兵庫県尼崎市にある「本興寺」に収蔵。美術館や博物館ではなく、お寺に納められているのは、仏教にゆかりの深い本太刀ならではと言えます。
戦場において、最も強力な武器のひとつだった「槍」。なかでも名槍との誉れ高い3本を「天下三名槍」(てんがさんめいそう)、もしくは「天下三槍」(てんがさんそう)と言います。
江戸時代には、西の「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)、東の「御手杵」(おてぎね)として並び称されていましたが、そこに「蜻蛉切」(とんぼきり)を加えて、明治時代に天下三名槍と呼ばれるようになりました。いずれも武勇で名高い猛将の愛槍として知られています。
福岡黒田藩の至宝「日本号」。もともとは御物であり、皇室から「正三位」(しょうさんみ)を賜ったと伝えられることから、「槍に三位の位あり」と謳われる無二の槍です。
「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)が拝領し、天下人である「織田信長」や豊臣秀吉の手に渡りました。その後、豊臣秀吉の家臣であった「福島正則」(ふくしままさのり)に下賜されます。
あるとき、黒田家に仕える「母里友信」(もりとものぶ)が主君の使いとして福島正則を訪ねてきました。福島正則は酒を勧めますが、母里友信は使いで訪れたゆえとこれを固辞。それでも福島正則は「盃を呑み干せば思うままに褒美を取らす」となおも絡んだ上、「黒田武士は腰抜けだ」と侮辱したのです。
これには母里友信も黙ってはおれず、盃3杯の酒を豪快に呑み干すと、「それでは日本号を頂きましょう」と所望。母里友信が酒豪であることを知らなかった福島正則は驚きましたが、「武士に二言はない」として日本号を譲り渡しました。
この出来事から日本号は、「呑み取りの槍」とも呼ばれています。日本号を巡る逸話は「黒田節」に歌われ、黒田武士の心意気を伝える酒宴の定番歌となりました。
「槍 銘 義助作」(号:御手杵)は、鞘に収めたときの形が、手杵(てぎね:餅つきで臼の餅米をつく杵)に似ていることが名前の由来です。また、一説には、御手杵を作らせた戦国武将の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)が、戦場で挙げた首級十数個をこの槍に刺して担いでいたところ、中央辺りの首級ひとつが切れて落ち、全体が杵のような形に見えたことから付けられた名とも言われています。
御手杵を鍛えた刀工は、室町時代に駿河国(現在の静岡県中部)嶋田を拠点とした「島田義助」(しまだぎすけ/よしすけ)です。
室町時代中期から江戸時代中期まで続いた刀工の流派「嶋田派」の4代目とされ、その技量は極めて高いと評価されています。
刃長2尺(約60cm)前後の長い穂を持つ槍を大身槍と呼びますが、この御手杵は刃長4尺6寸(約139cm)という極めて長大な大身槍です。柄を加えると1丈1尺(約333cm)にも及ぶ槍だったと伝えられています。惜しまれることに、1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で焼失してしまいました。
「槍 銘 藤原正真作」(号:蜻蛉切)は、徳川家康の重臣「徳川四天王」のひとりであり、勇将として知られる「本多忠勝」(ほんだただかつ)の愛槍です。生涯に57回の戦いに身を投じながら、かすり傷すら負わなかったという本多忠勝。あるとき戦場へこの槍を持参し、立て掛けておいたところ、蜻蛉が穂先へ止まった途端、真っ二つに切れてしまったとの逸話から蜻蛉切と呼ばれるようになりました。
作者は伊勢国(現在の三重県)と三河国(現在の愛知県東部)で作刀した刀工「藤原正真」(ふじわらまさざね)。「村正一派」とも伝えられ、三河国では「三河文珠」と称えられた名工です。
蜻蛉切は総身2丈(約6m)、刃の長さは1尺4寸4分(約43.7cm)。約4~5mの槍が主流であった時代に、この長大な槍を軽々と扱ったであろう本多忠勝の勇猛さがなお際立ちます。青貝螺鈿細工(あおがいらでんざいく)の見事な装飾を施した柄がありましたが、現在では失われてしまいました。
「国宝」とは、「文化財保護法」により指定された「重要文化財」のうち、日本のみならず世界的に見ても類まれな「国民の宝」である特別な文化財を指します。もちろん国宝に指定されている刀もあり、それは天下五剣に含まれる作品だけではありません。
ここでは、国宝に指定された刀の中でも、最高傑作と言われる1振と、戦国時代の「三英傑」にゆかりのある3振について見ていきます。
「大包平」(おおかねひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した備前国(現在の岡山県南東部)「古備前派」の刀工「包平」が鍛えた刀です。現存する刀の中でも最高傑作とされ、1951年(昭和26年)6月9日に国宝指定されました。
大包平を所有したのは、国宝「姫路城」(兵庫県姫路市)の築城で有名な戦国武将「池田輝政」(いけだてるまさ)。池田輝政をして「一国にも替え難い」と言わしめた名刀であり、以降池田家に伝来しています。
江戸時代に著された「享保名物帳」では、その大きさから「大」の字を冠しているという旨が記されているものの、傑作に対する敬意を込めて「大」が付けられたとする説が一般的です。
第2次世界大戦後にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「マッカーサー」が所望するも、「自由の女神と引き換えなら」という切り返しによって断念したとの伝説もあります。現在は、「独立行政法人 国立文化財機構」が所有。「東京国立博物館」に保管されています。
備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)の刀工「長光」(ながみつ)の代表作「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)。室町時代、名刀の価値が50~100貫(1貫は現代の貨幣価値で約12万円)ほどとされる頃に、刀剣鑑定家の本阿弥家がこの太刀に銭600貫という破格の代付(だいづけ:価格)をしたことから、600巻の経典である「大般若波羅蜜多経」にかけて、「大般若」と名付けられました。
一方、大般若長光は流浪の名刀とも言われ、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「三好長慶」(みよしながよし)に渡り、やがて三好政権の実力者「松永久秀」(まつながひさひで)へ。その後、織田信長が所持すると、1570年(元亀元年)の「姉川の戦い」で武功を挙げた徳川家康に下賜されます。そして1575年(天正3年)、「長篠の戦い」で大殊勲を挙げた「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)が賜ったのち、奥平家の宝刀となりました。
1951年(昭和26年)6月9日、国宝に指定され、現在は「東京国立博物館」の所有となっています。
南北朝時代に山城国を拠点とした刀工で、「正宗」の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)にも数えられる「長谷部国重」(はせべくにしげ)が鍛えた刀(打刀)です。もともとは大太刀でしたが、磨上げによって打刀に作り直され、銘がなくなったため、鑑定した「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)によって金象嵌(きんぞうがん)が入れられました。「享保名物帳」にも所載されている名物です。
この不思議な名前の由来には、織田信長の厳しい一面が垣間見える逸話があります。ある日、「観内」という茶坊主が無礼を働いたことから、激昂した織田信長は、台所の膳棚の下へ逃げ込んだ観内を棚もろとも長谷部国重の刀で圧し(へし)斬ってしまったのです。その切れ味に感心した織田信長は、刀に「へし切長谷部」という名を付けました。
へし切長谷部はその後、豊臣秀吉の軍師として名高い「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)に下賜されて黒田家に伝来。
1953年(昭和28年)3月31日に国宝指定。黒田家より福岡県に寄贈され、現在は「福岡市博物館」(福岡県福岡市)に所蔵されています。
「短刀 銘 国光」(名物:会津新藤五)を手掛けたのは、鎌倉時代後期に相模国(現在の神奈川県)で活動した刀工「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)です。相州伝の祖と言われる名工であり、会津新藤五は国光の作刀の中でも特に優れ、最高傑作と目されています。
本短刀を所有していたのは、戦国武将の「蒲生氏郷」(がもううじさと)。織田信長や豊臣秀吉に仕え、「九州征伐」、「小田原征伐」での目覚ましい武功により会津42万石(のちに92万石)を領有しました。「会津新藤五」の名は、蒲生氏郷が会津を領したことに由来します。
本短刀は蒲生家に伝えられましたが、子孫の「蒲生忠郷」(がもうたださと)の没後に減封された折、加賀藩主「前田利常」(まえだとしつね)に売却。前田利常は江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」に献上しました。会津新藤五は徳川将軍家の重宝として伝来したのち、現在は「ふくやま美術館」(広島県福山市)に寄託されています。
天下五剣や天下三名槍、また国宝に指定されている刀だけでなく、数多くの傑作刀が歴史に名を残してきました。天下人がこよなく愛した作品も少なくありません。その中から、現代でも特に人気が高く、個性あふれる刀をご紹介します。人々の心を掴んで離さない、選りすぐりの名刀ばかりです。
本太刀に作者の銘はありませんが、天下五剣の1振「大典太光世」の作者、三池典太光世の作刀ではないかと考えられています。
「ソハヤノツルキ」の所有者であった徳川家康は、自分の死後この刀を久能山へ納めるよう命令。そして、いまだ不穏な西国へ鋒/切先を向けておくよう言い遺したのです。その言葉通りに本太刀は「久能山東照宮」(静岡県静岡市)へ納められ、265年にわたる徳川の治世を見守ったとされています。
本太刀の個性的な呼び名は、茎に切られた「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキ ウツスナリ」という銘に由来。このことから、本太刀は征夷大将軍「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が佩用した「楚葉矢の剣」(そはやのつるぎ)の写しであり、徳川家康は、東北地方に住む「蝦夷」(えぞ)を平定した坂上田村麻呂の故事にあやかろうとしたのではないかと推測することができるのです。
「正宗」、「江義弘」(ごうよしひろ)と並んで「天下三作」と称される名工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ:藤四郎とも)の手による本太刀。吉光が短刀を得意としていたため、生涯で唯一の太刀であるとして「一期一振」と名付けられたと言われています。しかし、他にも太刀を残していることから、一生に2つとない傑作という意味を込めて付けられたとする見方が有力です。
毛利家に伝来した本太刀は、「毛利輝元」(もうりてるもと)から豊臣秀吉に献上され、のちに「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に継承されました。ところが、「大坂夏の陣」で焼失。名刀が失われるのを惜しんだ徳川家康が、お抱え刀工の「越前康継」(えちぜんやすつぐ)に命じて再刃(さいば/さいは:火災などで刃がなくなった刀を焼き直すこと)させ、よみがえらせたのです。
なお、本太刀は磨上げによって、銘のみをあとからはめ込んだ額銘(がくめい)となっていますが、これは豊臣秀吉が自分の体格に合わせて磨上げたという説と、越前康継が再刃の際に磨上げたという説があります。
作者は「正宗十哲」のひとりであり、「天下三作」に名を連ねる「江義弘」(郷義弘とも)です。南北朝時代に越中国(現在の富山県)松倉を拠点とした江義弘は、師である正宗に倣って無銘を貫いたため、真正の作品が入手困難となり、「江と化け物は見たことがない」と囁かれるほどでした。
本刀は福岡藩主だった「黒田長政」(くろだながまさ)が入手し、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」へ献上。その後の1639年(寛永16年)、3代将軍「徳川家光」の娘「千代姫」(ちよひめ)が尾張徳川家の「徳川光友」(とくがわみつとも)のもとへ輿入れする際、婿引き出物として贈られ、以降尾張徳川家に伝来しました。
本刀の大きな特徴は刃文にあります。刀身に霧がかかったように見えることから「五月雨江」(さみだれごう)と呼ばれ、この刃文を観た徳川秀忠は、五月雨とはうまく付けたものだと感心したということです。名前の由来には異説があり、刀剣鑑定家の「本阿弥光瑳」(ほんあみこうさ)が、五月雨の降る季節に江義弘の作であると極めたことから、この名が付いたとも言われています。
現在は「公益財団法人 徳川黎明会」が所有。愛知県名古屋市東区にある「徳川美術館」が所蔵しています。
「模造刀」とは、真剣である刀を模しているものの、刃を備えていない金属製の刀のことです。クオリティの高い模造刀の刀身は、一見しただけでは本物の刀とほとんど区別が付きません。また、外装である拵(こしらえ)も丹念に作り込まれていることから、真剣の代役として床の間に飾るなど、愛好家の楽しみ方も様々。著名な刀を再現した模造刀は、とりわけ高い人気を博しているのです。
真剣が上質な「玉鋼」(たまはがね)から鍛えられるのに対して、模造刀の素材には亜鉛やアルミニウムの合金が使用されています。刃がなく切れないことに加え、研ぐこともできない、つまり将来的にも刃を備えることがない製品でなければなりません。鉄製の刀身は、例え刃が付いていない物であったとしても、研ぐことによって刃を持つことが可能なため、模造刀には使用されないのです。
「模造刀剣類」については、「銃砲刀剣類所持等取締法」(銃刀法)第22条4で、「金属で作られ、かつ刀剣類に著しく類似する形態を有する物で内閣府令で定めるものをいう」と規定されています。
また、刀を所有する場合に必要不可欠な「銃砲刀剣類登録証」(登録証)は、模造刀の所持には必要ありません。ただし、模造刀を携帯するときは、本物の刀と同様の注意が求められます。周囲の人からは本物の刀であるのか、模造刀なのかは分からないため、無用なトラブルを避けるためにも、模造刀を鞘に収めた上、専用の刀袋へ入れるなどして、模造刀を持っているとは分からないようにするのが適切です。
コスプレ用の道具として使用する場合、刀袋から取り出すのはイベント会場での写真撮影に限り、観光地や公園など公共の場所では使わないようにしましょう。
模造刀には、鑑賞用にきめ細かく作られた作品の他、コスプレや演劇での小道具として用いられる木製・プラスチック製の刀もあります。
さらに、「居合道」(いあいどう)などの現代武道で実際に稽古や試合で使う模造刀もあり、これは鑑賞用の作品よりも頑丈にできているのが特徴です。模造刀を買うときは、目的に適した作品を選ぶと良いでしょう。
模造刀を購入する方法は、下記の4つがあります。
「居合」とは、素早く刀を抜き放ち、敵に斬り付ける際の初撃(しょげき)を極めた武術のこと。現在の「居合道」は、古武道の「居合術」(抜刀術)を継承した現代武道のひとつとして確立しています。
古武道としての「居合術」(抜刀術)は、刀を鞘に収めて帯刀し、鞘から抜いて斬り、ふたたび鞘へ収めるまでの一連の動作を「形」(かた:「型」とも表記)として構成した武術です。戦国時代から江戸時代初期にかけ、剣客(けんかく)として名を成した「林崎甚助」(はやしざきじんすけ)によって創始されたと言われています。これにより居合術は剣術とは明確に区別されることとなりました。
現代の居合道は、剣道のように対戦形式で試合を行うのではなく、決められた形を、刀を用いて表現する競技です。相手(敵)が突然目の前に現れたと想定し、座位(座った姿勢)から刀を抜いて相手に一撃を与えるか、または相手の攻撃を防いだ直後、二の太刀で相手に止めを刺します。さらに納刀(のうとう:刀を鞘へ収めること)までがひとつの形となるのは居合術と同じです。
服装は道着、袴を着用。上級者は正装として紋付、仙台平(せんだいひら:宮城県仙台市で制作される絹織物)の袴を身に付けることもあります。
居合道の試合では、一般的には模造刀の一種である「居合刀」(模擬刀)を使い、上級者になると真剣を使用。段位ごとに、「全日本居合道連盟」や「全日本剣道連盟」が制定する規定技や流派の形を演武し、勝敗は審判員が提示した旗の数による多数決や採点で判定します。
試合は、ただ形の出来栄えが優れていれば良いというわけではありません。着装や姿勢、そして心の動きにいたるまで、すべてが礼に始まり礼に終わるという武道の礼法が尊重されていることが大切なのです。
刀は、刀身の片側のみに刃のある刀剣の総称であり、日本をはじめ世界各地で使用され、それぞれが独自の歴史を築いてきました。効果的に斬り抜くため、刀身に反りを付けた構造の「湾刀」(わんとう)が多いとされますが、反りのない「直刀」(ちょくとう)と呼ばれるタイプもあります。
アジア諸国やヨーロッパの古い時代、刀剣類の主流は、反りがなく刀身の両側に刃のある剣でした。しかし、騎馬による戦いが多くなるにつれ、片刃の刀が使われるようになります。それは、馬に乗っている場合、相手とのすれ違いざまにいち早く鞘から抜き、そのまま振るうのに適していたためです。
ただし、西洋には刀だけを特に表す言葉はなく、剣と区別することなくすべて「sword」(ソード)と呼ばれています。
また、日本の刀と西洋の刀には大きな違いがあり、それは製造方法です。日本では刀を鍛えるとき、熱した玉鋼を叩き延ばして折り返し、また叩いて延ばすという「折り返し鍛錬」を行います。一方、海外の刀は、剣と同じく熱した金属を叩き延ばして成形する「鍛造」(たんぞう)か、高温でどろどろに溶かした金属を型に流し込んで形作る「鋳造」(ちゅうぞう)、あるいはその両方を組み合わせた方法で作られるのです。
刀の形状も様々であり、日本の刀に近いタイプも見られる一方で、鎌(かま)や鉈(なた)に似たタイプや、個性的な湾曲を備えたタイプなどもあり興味は尽きません。世界各地ではどのような刀が用いられてきたのでしょうか。世界を「アジア」、「ヨーロッパ」、「アフリカ」、「アメリカ・中南米」の4つの地域に分けてご紹介します。
アジア諸国では、11~13世紀頃にかけて、騎馬での斬り合いに適したインドの「タルワール」や、ペルシャ(現在のイラン)の「シャムシール」といった反りのある刀が誕生しました。
「タルワール」は、インドをはじめ、パキスタンやバングラデシュ、アフガニスタンでも見られる片刃刀で、大きく湾曲した細身の刀身が特徴的です。タルワールは16世紀前半~18世紀に南アジアで栄えた「ムガル帝国」のもとで盛んに使用され、モンゴルや中近東のトルコまで広まっていきました。その形状はイギリスの「サーベル」に影響を与えたと言われています。
「シャムシール」もまた、わずかな反りを持つ細身の片刃刀で、中近東で使用されました。シャムシールという名称は、英語のsword(ソード)と同様の普通名詞であり、ペルシャ語で「刀剣」を意味しています。「モンゴル帝国」など遊牧民族の戦士が使う刀に影響を受け、発展したと考えられている湾刀です。
また、ネパールやインドでは、「ククリ」と呼ばれるナイフに近い形状の刀も登場。グルカ族などでは現在も使用されています。湾曲した刀身の内側に刃を持つ「内反り」(うちぞり)と呼ばれる様式で、「く」の字形の形状が目を引く短刀です。戦闘の他、農作業や家事、狩猟、さらには儀式、祭礼用としても用いられていますが、その由来や歴史は明らかではありません。
同じくネパールや北インドで使われた刀に「コラ」があります。コラは大きく曲がった刀身の内側に刃があり、刀身は先端に向けて幅が広がっているため、わずかに開いたハスの花のようです。実際に刀身には溝やハスの花など仏教的な意匠が施され、戦闘用の他、儀礼用としても用いられました。
一方、中国においては、西暦25~220年頃の古代王朝「後漢」の頃から、それまで刀剣類の主流であった剣に変わり、片刃の直刀が用いられるようになります。それは、中央ユーラシアの騎馬民族である匈奴(きょうど)との馬上での戦いが増え、従来の剣では騎馬戦に向かず不利となったため、刀が主流となっていったのです。
中国の刀として最も有名なタイプは、片手で使用する「柳葉刀」(りゅうようとう)。片刃で浅い反りがあり、日本の刀に比べると刀身の幅がたいへん広くなっています。重量があるため、遠心力を利用して斬り付けることにより威力を発揮する刀です。
日本では、「青龍刀」(せいりゅうとう)と呼ばれることがありますが、それは違う種類の刀であり、実際の青龍刀は長い柄の先に湾曲した刃のある、日本の「薙刀」(なぎなた)に似た「青龍偃月刀」(せいりゅうえんげつとう)を指します。
中国の「苗刀」(みょうとう)は、日本の大太刀をもとに作られた刀です。倭寇(わこう:私貿易、密貿易を行う日本の貿易商人に対する中国側の呼び名)との戦いを通して、日本人が使う刀の性能や、日本剣術を研究して明(みん)で作刀されました。形状は、長さの割に軽量であり、柄が鍔元(つばもと)へ向かって細くなっている点などに特徴があります。
さらに、中国では2振の刀を左右の手に1振ずつ持って操る武術があり、これに用いられる2振1組の刀が「双刀」(そうとう)です。双刀は柄から刀身まで、縦に真っ二つに割ったような形状をしており、この構造により2振を重ねてひとつの鞘に収めることができます。
古代ローマ時代に登場した刀として、トラキア人が使った長柄武器の「ロンパイア」や、ダキア人の巨大な刀「ファルクス」、ケルト人の「ファルカータ」などが有名です。
なかでも、1世紀頃ダキア地方(現在のルーマニア周辺)に居住していたダキア人は、古代ローマにとって脅威となる存在であり、その代表的な武器が「ファルクス」でした。ファルクスの全長はおよそ120cm。刀身は幅が広く湾曲し、グリップ(握り)部分は両手で握るために大きく作られていました。その切れ味は鋭く、敵兵の手足を簡単に斬り飛ばしてしまうほどの威力があったと言われています。
また、「ファルカータ」は、戦士としてのポリシーを重んじていたケルト人が、名誉を示すために用いた刀です。当時の西洋剣と比べても非常にクオリティが高く、頑丈で、鋭い切れ味を誇っていました。鉄製のヒルト(柄)は独特なフック状になっており、ポンメル(柄頭)に馬や鳥の頭部をかたどった装飾が施されているタイプもあったと伝えられています。ファルカータの起源は、古代ギリシャの鎌剣「コピス」にあるとする説が有力です。
中世ヨーロッパでは、肉切り庖丁や剣鉈(けんなた)をそのまま長く、大きくしたような「ファルシオン」などの直刀が普及しました。これらは、従来の剣と比較して安価であり、かつ扱い方が簡単であったため、一般民衆から募った下級兵士や、一部の騎士が用いた他、斧(おの)や鉈のように日常的な作業にも使用されたとのことです。
「ファルシオン」は、幅広の刀身を備えた片刃の刀で、全長はやや短く70~80cmほど。刃の部分は緩やかな曲線を描いていますが、峰/棟(みね/むね)側は基本的にまっすぐなタイプが多く、ファルシオンの形状における特徴となっています。
ファルシオンの刀身は短めであるにもかかわらず幅が広いために重量があり、その重さは1.5~2kg。重量を活かして打ち叩く攻撃が可能であったため、接近戦で効果を上げました。
フランス、ドイツ、イタリアでは、歩兵用の刀として、あるいは補助的な武器として使われていたということです。
中世の騎士が誕生した頃には、狩猟用の刀として「ハンティングソード」が開発されました。主に西ヨーロッパのフランスや、ドイツ語圏の貴族達が狩猟を行うときに使用していましたが、火器が発達するにつれ刀は狩猟においても主要武器ではなくなります。その一方で、上流階級の人々にとって刀は、自らの社会的地位を誇示する象徴となっていったのです。
刀が持つ象徴的な意味合いは、20世紀初頭まで軍隊で将校の階級を表すシンボルとして装備され続けた「サーベル」にも備わっています。
16世紀頃、銃火器の発達によって歩兵が強力な火力を得ると、騎兵の主力武器であった「騎兵槍」(先端が尖った刃のない槍。ランス)は廃れ、集団での接近戦に適したサーベルが使用されるようになりました。
サーベルの起源は、正確には分かっていません。ゲルマン系民族のアングロサクソン人が用いていた「サクス」や、サクスから発展させたファルシオンなど、中世の比較的刀身の短い刀から影響を受けて誕生したのではないかと推測されています。
16世紀に、ヨーロッパで最初にサーベルを使ったのはスイスの軍隊です。さらに主力武器としてヨーロッパ全土へ広がったのは、17世紀になってドイツやイギリスの軍隊でも使われ始めて以降のこと。その後、銃火器が発達したナポレオン時代のフランスにおいても廃れることなく、20世紀初頭まで第一線で活躍しました。
多種多様な民族・文化・言語が存在する広大なアフリカでは、刀や剣の種類も豊富であり、デザインや用途も独特です。紀元前7世紀頃には、カルタゴ(現在のチュニジアを中心とした地中海沿岸地域)などのフェニキア人が「ハルパー」(ハルペー)という大きく弧を描いた鎌のような刀を使いはじめました。
そして7世紀以降、北アフリカの一部地域はイスラム帝国の支配下に置かれ、新たな武器の文化も持ち込まれます。その影響から北アフリカで作られる刀には、イスラム圏の武器とアラブ文化が色濃く反映されることになったのです。
「フリッサ」は、モロッコやアルジェリアなどの北アフリカ北西部に住むベルベル人の伝統的な刀で、刀身の中央部分から先端にかけてうねった独自の形状をしています。
ヒルト(柄)には彫刻や真鍮象嵌といった装飾が施され、動物の頭をかたどった柄頭が付けられましたが、グリップにはガード(鍔)がありません。また鋒/切先は鎖帷子(くさりかたびら)の鎧を貫くほどの鋭さを備えています。
イスラム帝国によってもたらされたアラブ文化、あるいはヨーロッパのキリスト教文化に影響を受けたアフリカの刀や剣の文化。そんなアフリカにおける鍛冶は、古代エジプトの製錬技術にルーツを持つと言われています。
アフリカでは、鍛冶職人に対する人々のイメージは古代からさほど変化していないとされ、現代でも鍛冶職人は伝説的で特別な、魔術師のような存在と考えられている地域もあるとのことです。その理由は、歴史学者の見解によると、いまだ謎の多い古代エジプトから伝わった技術を、サハラ砂漠の鍛冶職人が身に付けたことに由来していると言います。
そうした理由から、鍛冶職人が村に移り住み鍛冶場を開設すると、それだけで村人は怯え、慌てふためくこととなりました。しかし、鍛冶場から様々な武器が生み出されていく様子を目の当たりにすることで、村人達は鍛冶職人を崇拝の対象として認めはじめたのです。アフリカの鍛冶職人達は、武器の需要が少ないときには、畑仕事に使う農具や狩猟用の道具などを作って農民と変わらない生活を送っていたと伝えられています。
カリブ海の島々や、中央アメリカで使われている「カットラス」は、武器であると同時に、農業用の道具として熱帯雨林の伐採やサトウキビ畑での収穫時にも使用される刀です。同じ目的で作られた、中南米の現地人が使う「マチェーテ」という鉈のような刀もあります。
「カットラス」は、もともとイギリス海軍の武器として開発されました。刀身が短く片手で扱うことができるため、障害物が多く狭い帆船の甲板上での戦闘に適しています。
この刀は17世紀頃にイギリス陸軍が使用していた「カートル」という刀身の短い斧に似た剣に由来しており、18世紀になると船上で用いる剣を「カットラシュ」と呼ぶようになったことから「カットラス」の名前が定着しました。その後カットラスはフランス海軍にも導入され、独自の改良が加えられています。20世紀になると、カットラスは次第に戦闘では使われなくなり、船上から姿を消していきました。
カットラスと同様に用途が広い「マチェーテ」は、スペイン語で「山刀」を意味する呼称です。マチェーテは、カリブ海や中南米の熱帯雨林でブッシュ(藪)を刈り払いながら歩くために刀身が長めで薄く作られたタイプと、サトウキビ畑やバナナ園、ヤシ園などで、農作物を収穫する際に使う刀身が短い道具タイプ、そして密林地帯などの戦場へ派遣される兵士のために支給される武器タイプがあります。
それぞれの用途に合わせて形状や刃長、ハンドルの素材などを工夫したバリエーションは豊富。鑑賞用の高級なマチェーテも少ないながら存在しますが、おおむね実用的な消耗品です。
西洋の剣と日本刀には、どんな違いがあるのでしょうか。最も大きな違いは、西洋の剣が刀身の両側に刃を持つ「両刃」(もろは)であるのに対して、日本刀は「片刃」(かたは)だということです。ここでは、剣と日本刀それぞれの特徴について、その歴史を交えてご紹介します。
日本刀の素材となるのは、「玉鋼」(たまはがね)と呼ばれる良質な鋼です。玉鋼は、砂鉄を原材料として、日本古来の製鉄法である「たたら」の一方法「鉧押し」(けらおし)によって製錬されます。
この玉鋼を内部まで均一に加熱したのち、叩き延ばしては折り曲げるのですが、刃になる部分の「皮鉄」(かわがね)は15回ほど折り曲げて硬度を上げ、刀身の中心となる「心鉄」(しんがね)は7~10回ほどにとどめ、しなやかさを保つのです。
そのあと、硬い皮鉄とやわらかい心鉄を組み合わせて延ばす「造込み」(つくりこみ)を行います。
折り返し鍛錬や、造込みの技法によって、硬くしなやかな刀身は生み出され、「折れず、曲がらず、よく切れる」という日本刀の特性が実現されました。
この折り返し鍛錬によって作られた作品以外は日本刀とは認められません。
日本刀は、1振作刀するために、約10kgの材料を使います。しかし、折り返し鍛錬によって不純物が取り除かれるため、完成したときには10分の1以下の、850~900gになるのです。
一方、西洋の剣の作り方は多種多様。溶かした鉄を型に流し込んで成形する「鋳造」(ちゅうぞう)から、熱した鋼を叩き延ばす「鍛造」(たんぞう)、またはその両方を合わせた方法などがあります。
最も多く用いられたのは鍛造であり、中世前半までは日本刀と同じく硬さや性質の違う複数の鋼を組み合わせて作られていました。
やがて、より効率的な製鋼法として、柔軟性のある鋼を生成し、その表層のみを硬くするために、焼き入れによって炭素を加える「浸炭」(しんたん)を施したのち、熱処理するといった方法に変わっていきます。
基本的な鋼の長剣で、現存する作品のほとんどは鍛造によって作られました。
しかし、この鍛造は、日本刀のように折り返し鍛錬は行われておらず、剣の形に成形されているだけなのです。そのため、10kgの材料があれば、1kgの剣を10振作ることができると言われています。
日本でも、弥生時代には両刃の銅剣が主流でした。
古墳時代には、片刃で「鎬」(しのぎ)が刃に近い位置にある「切刃造り」(きりはづくり)が登場しますが、まだ反りはなく、切ることよりも刺突(しとつ)を目的とした「直刀」(ちょくとう)であり、この流れは平安時代中期まで続きます。
平安時代中期以降、反りを持つ日本刀が増え、鎬が峰/棟(みね/むね)側に近い「鎬造り」(しのぎづくり)が普及。これは武家の台頭と密接な関係があります。
それまでの貴族は、直刀を用いており、これは儀礼用の装飾品としての意味合いが強かったのです。
しかし武士は、反りを持つ実戦向きの「太刀」(たち)を使うようになりました。馬に乗って戦うとき、反りがあれば素早く鞘から抜くことができ、相手を打ち切る動作や、相手の武器を切り上げる防御にも適していたのです。
反りのある日本刀は、叩いて引くことで、小さな力でも大きな効果を得ることができる優れた構造であったと言えます。この優れた特性は、戦国時代に登場した「打刀」(うちがたな)にも引き継がれました。打刀は、長大で重かった太刀に比べ、徒歩(かち)での集団戦においても扱いやすいよう、刃の部分が薄く、より鋭利な刀姿へと変化。断ち切る能力が高められています。
叩いて引く日本刀に対して、西洋の剣は「叩き切る」ことと「突く」ことが重視されました。鋭利な刃で切り抜けるのではなく、厚く重い刃を振り下ろして叩き切ったり、突き刺したりしていたのです。このため、切れ味よりも重量と、いかに効率良く力が加えられるかが大切でした。
また、刃が潰れても戦えるというメリットがあり、持続的な切れ味という点では優れています。西洋でも片刃の剣が作られましたが、使い方は両刃の剣と変わりはありません。西洋の剣術をもとにしたと言われるスポーツ競技の「フェンシング」には、3種類の種目がありますが、そのうちの2つは、許されている攻撃が「突き」のみです。これは西洋の剣の特徴をよく表しています。
日本刀と西洋の剣の違いについてご紹介してきましたが、実は日本でも剣は作られました。それらは西洋の剣とは異なり、武器としての用途よりも祭祀的な性格を備えていたのです。「刀剣ワールド財団」では、日本で作られた剣の名作も数多く所蔵。そのなかから、特徴的な2振について見ていきましょう。
室町時代初期の1394~1428年(応永年間)に、備前国長船(現在の岡山県瀬戸内町)で活躍した刀工達を「応永備前」(おうえいびぜん)と呼びます。本剣の作刀者である「長船盛光」(おさふねもりみつ)は、それを代表する名工です。
本剣は、左右対称の「両刃造」(もろはづくり)の短刀(短剣)となります。実戦で使用するのが目的ではなく、「三鈷柄」(さんこづか:三鈷の形に作った柄)が付き、主に密教の法具として用いるために作られました。
全体の姿である体配は通常の短剣よりも大きめで、「茎」(なかご)の先をわずかに詰めていますが、本剣が作られたときの状態を保った、ほぼ「生ぶ」の姿です。
「地鉄」(じがね)は、板目肌に杢目(もくめ)交じりよく練れて、白い靄(もや)のような直映り(すぐうつり)が立っています。刃文は匂出来(においでき)の直刃(すぐは)。小沸(こにえ)盛んに付き、細かな金筋(きんすじ)が入る明るい出来です。地鉄や刃文には、応永備前の特色がはっきりと表れています。
また、刀身の表に「不動明王」(ふどうみょうおう)の梵字(ぼんじ)が見られ、裏には、こちらも不動明王の化身である「護摩箸」(ごまばし)が刻まれているのが特徴的です。梵字と護摩箸は組み合わせて彫刻されることが多く、法具としての意味合いが大きいことを示しています。
本剣の作刀者である「近江大掾忠廣」(おうみだいじょうただひろ)は、「肥前刀」(ひぜんとう)の名手・初代「肥前忠吉」(ひぜんただよし)の子で、肥前刀の基礎を確立した名工です。
1632年(寛永9年)に19歳で家督を継いで以来、80歳で他界する直前まで作刀を続けたと伝えられ、生涯を通じて幅広い作風へ果敢に挑戦。新刀期の名工の中でも、とりわけ多くの優れた作品を残したことでも知られています。
本剣の作刀も近江大掾忠廣が志した挑戦のひとつであり、また剣の作品は少なかったことから、たいへん珍しい貴重な1振と言えるのです。
本剣は、忠吉一門に伝わる直刃を焼き、一方で鍛えは、剣によく見られる柾目肌(まさめはだ)になっています。
刀身の表には、「太樋」(ふとひ)と神号「天照皇太神」(あまてらすすめおおかみ)の文字、裏には梵字と護摩箸が彫られ、茎に見えるのは作者名と年紀銘です。
年紀銘には「辛巳」(かのとみ)とあり、このような「十干十二支」(じっかんじゅうにし)の名が切られたのには、特別な理由があったと推測されますが、確かなことは分かっていません。
近江大掾忠廣作の剣は、すべてが寺社への奉納品であったと伝えられ、本剣も同じく奉納された作品と考えられています。
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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)を運営する「刀剣ワールド財団」では、①当博物館及び、②愛知県の「刀剣ワールド名古屋・丸の内」、③三重県の「刀剣ワールド桑名・多度」の3施設で、価値の高い様々な美術品をご覧いただくことができます。
名古屋刀剣ワールド
国宝・重要文化財や重要美術品など、貴重な刀剣を最大200振展示し、館内には、甲冑50領、浮世絵150点、火縄銃・古式西洋銃350挺も常設展示しています。
刀剣ワールド名古屋・丸の内
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どなたでも無料でご覧いただけます。
刀剣ワールド桑名・多度
刀剣の他、甲冑や薙刀、拵、陣笠、鐙・鞍など多数の美術品を展示しています。
どなたでも無料でご覧いただけます。
愛知県名古屋市中区丸の内の東建コーポレーション本社丸の内ビル1階・2階にある「刀剣ワールド名古屋・丸の内(東建本社)」には、日本刀をはじめ、甲冑、槍、薙刀、火縄銃といった美術的にも価値の高い様々な美術品を展示。刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」で紹介している刀剣や甲冑などを、実際に観ることのできる貴重な施設です。
時間 | 9時30分~17時30分 |
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営業日 | 月曜日~金曜日(平日) |
休館日 | 土曜日、日曜日、祝日、年末年始、夏季休暇 |
入館料 | 無料 |
所在地 | 〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内2丁目1番33号 東建本社丸の内ビル1階・2階 |
お問い合わせ | TEL:052-262-6000 メールで お問い合わせ |
三重県桑名市多度町のホテル多度温泉「刀剣ワールド桑名・多度」には、日本刀をはじめ、甲冑や槍、薙刀、火縄銃といった美術的にも価値の高い様々な美術品を展示。刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」で紹介している刀剣や甲冑などを、実際に観ることのできる貴重な施設です。
受け付け | フロントでの受け付けとなります。 お気軽にお声かけください。 ※要ご連絡 |
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入館料 | 無料 |
営業時間 | ホテルの営業時間内はお部屋を確保しております。ご覧になる際は、ホテル多度温泉クラブハウス本館1階受付までご連絡ください。 |
所在地 | 〒511-0122 三重県桑名市多度町古野2692 |
お問い合わせ | TEL:0594-48-5800 メールで お問い合わせ |
更新情報
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「鉄砲(火縄銃・西洋式銃)の基本」では鉄砲(火縄銃・西洋式銃)、軍艦・台場の歴史や種類などを解説しています。
1543年(天文12年)、種子島に伝来したと言われる火縄銃は日本の戦のあり方を大きく変えました。火縄銃の伝来や銃の内部構造など、火縄銃の基本を見ていきます。
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