中国や朝鮮,日本で凶年など非常のときに窮境を救うための米などを貯蔵しておく米倉。隋代にはじまった義倉は村鎮に設置され,無償で配給されたが,管理は一種の自治団体である社が行ったので,別に社倉と呼ばれた。宋代になって最も発達し,村落が管理する社倉と州県官が管理する義倉とがはっきり区別された。困窮農民の救済を目的とした社倉は,南宋時代になって朱熹(子)の社倉法に代表されるように極盛期を迎えた。常平倉の官米を農民に分配し,秋に2割の利息をつけて返還させ,これを社倉に貯蔵して以後,独立運営を行い,夏に穀物を貧農に貸し冬に回収した。社倉の管理に豪農があたることが多く,不当な貸付けや回収が横行するようになった。明代に再建された社倉は南宋を模倣したものであり,また清代でも社倉が設置されている。朝鮮でも中国の影響のもとに李朝時代に社倉がおかれたが,ここでも官僚が運営に介入し,創設の意図が失われた。
執筆者:衣川 強 日本近世には義倉とともに中国の制度が紹介され,救恤(きゆうじゆつ)制度としてさかんに論じられた。享保期(1716-36)に幕府領では貯穀,貯麦,貯稗などの名で各代官所ごとに各様の社倉制度が施行されたが,時代が下るとともにその制度が整備された。関東では村ごとにヒエを蓄えておく貯穀制度が広く行われた。これは毎年全戸より一定量のヒエを集めて郷倉(ごうぐら)や村役人の倉に蓄えておくもので,収穫期になるとその年分を追加し,それまで蓄えた分を新穀と交換する。この取り集め,詰め替えはいちいち帳簿に記録しておき,代官所の役人が回村して貯穀状況を検査するのに備えた。蓄えたヒエは飢饉・災害に当たって放出されるが,この場合も代官の許可を必要とした。こうした代官の管理のきびしさに,この貯穀は農民側に一種の租税としてうけとられた。明治初年,政府は地方官に備荒貯穀制の施行を命じたが,これは県単位に行われるものであり,これまでの村単位のものとで,二重の貯穀制度となった。品川県ではこの制度に反対する農民と,これを強行する県が衝突して社倉騒動をひきおこしている。
執筆者:伊藤 好一
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おもに中国で非常米などを貯蔵した倉。隋(ずい)・唐(とう)時代には義倉(ぎそう)の別名として用いられたが、宋(そう)代以後義倉が変化するにつれて郷村に置かれ、自治的に運営され、凶作や春の端境(はざかい)期に貸与した穀物倉をさした。北宋の神宗(在位1067~85)の初めに社(村)に社倉を設けようとしたが、王安石が反対して青苗(せいびょう)法を行った。南宋になり1168年建寧(けんねい)府(福建省建甌(けんおう)県)の大飢饉(ききん)に、朱子(朱熹(しゅき))が官粟(かんぞく)を得て民を救い、秋、返済したのを民家にとどめ、年1回貸し付け、飢饉の年には利息を割引あるいは免除した。ついで71年知府の援助銭で社倉3をつくり、利息の穀物で返済したあとは無料で貸与した。その後、細目を加えたいわゆる朱子の社倉法では、希望すれば州県の常平米(物価調節米)を貸し、あるいは富豪の寄付によって石当り2斗の利息をとり、在住の有力者と官吏に自治的に運営させた。朱子が浙東(せっとう)常平茶塩に任命されたおり、その上奏によって1181年末には両浙(せつ)(現在の浙江省と、揚子江(ようすこう)以南の江蘇(こうそ)省)を中心に南方で社倉が設けられたが、有力者が実権を握って弊害が生まれ、小農民にかならずしも有効でなかった。明(みん)代には朝鮮、日本、ベトナムにも行われ、清(しん)代には土地の富豪、有力者の寄付により、社長、社副を公選して運営させ、かなり多く設けられたが、太平天国の乱に荒廃したものが多かった。
[青山定雄]
『曽我部静雄著『宋代政経史の研究』(1974・吉川弘文館)』
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江戸時代,飢饉対策または困窮者への貸与を目的として,穀物を供出させてたくわえた貯蔵倉,およびその運用制度。古代からある義倉・常平倉とともに三倉といわれた。山崎闇斎の「朱子社倉法」によって関心が高まり,諸氏により必要性が主張された。貯穀の方法は,農民の供出が基本だが,領主の下賜米金なども充用された。会津藩で1655年(明暦元)に実施されたのが最初とされ,岡山藩・広島藩・姫路藩・松代藩など各地でたてられた。高島藩の常盈(じょうえい)倉,徳島藩の陰徳倉,江戸の町会所など,他の名称の備荒貯蓄倉も同様の性格とみなされる。
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中国で郷社(きょうしゃ)つまり農村の困窮農民の救済を目的とした非常米の倉庫。南宋の朱熹(しゅき)が1181年に行った社倉法は,この制度の普及,発達に寄与し,明清両朝や朝鮮王朝でも行われた。
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…このほか米価対策として行われた囲米として,(1)幕領年貢収納量がピークに達した宝暦年間(1751‐64)に,諸大名にたいし1万石につき籾1000俵の囲置きを命じた例,(2)寛政(1789‐1801)初年に幕領農村に郷倉を設置したり,江戸・大坂に籾蔵を建てるなどして,農民・町人に貯籾を命じ,凶作時の夫食(ぶじき)・救米の備えとした例,(3)低米価に悩んだ文化年間(1804‐18)に,大坂の豪商に囲米を命じ米価引上げを図った例などがある。また備荒貯穀として独自な囲米制度を採用している藩も多く,水戸藩の常平倉,会津藩の社倉,米沢藩の義倉などは著名である。【大口 勇次郎】。…
…〈還上〉とも言う。〈還穀〉の制度化は高麗初期(10世紀)に〈義倉〉を配置したことに始まり,李朝初期(15世紀)の〈社倉〉〈常平倉〉設置で全国的に完成した。しかしこれは凶年のみの臨時措置で,常設化されたのは1626年の常平・賑恤(しんじゆつ)庁設置からである。…
…中国の義倉は,まず均田制とともに発達し,租税同様に徴収され,積み立てられた米穀を,飢饉のさい無償で配給した。北斉のとき,均田農民1人につき5斗を供出させ,州県に蓄えて非常時に備えたのが始まりで,のちに義倉・社倉と呼ばれるようになった(584)が,農民の餓死や逃亡を防ぐのが真のねらいであった。隋では社(村落)ごとに設置され義倉米は富に応じて徴収されることが法制化された。…
…この結果,七分積金を基礎とする江戸の都市改革は,都市下層社会に対する一個の〈社会政策〉を軸として展開することになった。 江戸町会所の第1の機能は,江戸町方全体の社倉=備荒貯穀として,飢饉や災害時における窮民への独自の〈御救(おすくい)〉を実施することにあった。向柳原をはじめ深川新大橋向や小菅などに60棟以上の籾蔵が建設されていき,文化・文政(1804‐30)期には13万~17万石,幕末には数十万石規模の籾が貯蔵されたのである。…
※「社倉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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