iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.
iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.



Link to original content: https://kotobank.jp/word/倭-153709
倭(ワ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

(読み)ワ

デジタル大辞泉 「倭」の意味・読み・例文・類語

わ【倭】[漢字項目]

人名用漢字] [音]ワ(呉)(漢) [訓]やま
中国側から日本を呼んだ称。「倭寇わこう倭国倭人
[名のり]かず・しず・まさ・やす
難読倭文しず

わ【×倭/和】

日本人の住む国。古代、中国から日本を呼んだ名。
(和)日本のものであること。日本的であること。「技術」「に親しむ」

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「倭」の意味・読み・例文・類語

わ【倭・和】

  1. [ 1 ] 日本人の国。もと、中国での呼び方で、志賀島出土の金印「漢委奴国王印」の「委」もこれであるという。日本人も「倭・和」の字を自称に用いて通例は「やまと」と訓読しているが、室町時代頃には「わ」と音読して単独に日本または日本のものを意味する語として用いるようになった。
    1. [初出の実例]「庭申 ニワマウシ 倭(ワ)世話直奏義又作言」(出典:文明本節用集(室町中))
    2. [その他の文献]〔後漢書‐東夷伝・倭〕
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 漢詩に対して、和歌・俳諧などをいう。
    1. [初出の実例]「春は少しの風も、花をいとひて嵐と和にもいふ也」(出典:俳諧・三冊子(1702)わすれ水)
  3. [ 3 ] 〘 造語要素 〙 日本、日本風、日本語などの意を添える。「和紙」「和書」「和服」「和室」「漢和」「和英」など。

倭の補助注記

明治になって西洋の文物が多く入ってきたときに、従来の日本のものと違うことを表わすために「洋紙」「洋服」など「洋」を添えた。西洋風のものが一般的になると、逆に日本のものに対して、[ 三 ]のように「和」を添えて表わさなければならなくなった。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

普及版 字通 「倭」の読み・字形・画数・意味


人名用漢字 10画

[字音] ワ・イ(ヰ)
[字訓] やまと・したがう

[説文解字]

[字形] 形声
声符は委(い)。委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう。〔説文〕八上に「順(したが)ふ皃なり」とあり、「詩に曰く、倭遲(ゐち)たり」と〔詩、小雅、四牡〕の句を引く。〔毛伝〕に「の貌なり」とあって、倭遅は畳韻の連語。威夷(いい)・逶遅(いち)などにも作る。わが国の古名として中国の古い史書にみえ、〔漢書地理志下〕「樂浪(らくらう)中に倭人り。れて百餘國と爲る」の〔注〕に引く〔魏略〕に「倭は帶方東南の大中に在り。山島に依りて國を爲す」「其の語を聞くに、自ら太伯(呉の始祖)の後なりと謂ふ」などの記載がある。〔後漢書、光武帝紀下〕にみえる「倭奴國」も、その古名であろう。

[訓義]
1. したがう、低い姿勢。
2. 倭遅は、はるかに連なるさま。
3. わが国の古名。中国の史書に、倭としるす、やまと。

[古辞書の訓]
名義抄〕倭 ヤマト・イタム・オモネル・ヘツラフ・オコツル・カタム・ユヅル・タム・エラブ

[語系]
倭・委・萎・逶・痿iuaiは同声。委は祈年(としごい)の祭に、稲魂を被って低く舞う女。男の舞う字は年。委声の字には委の声義を承けるものが多い。紆・iua、宛・婉iuanも、低い姿勢で舞う委の声義と関係がある。

[熟語]
・倭彝・倭傀・倭妥・倭遅・倭夷・倭患・倭漢倭寇・倭国・倭種・倭人・倭賊・倭堕・倭奴・倭刀・倭名

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「倭」の意味・わかりやすい解説

倭 (わ)

7世紀以前の日本の呼び名。中国人が付けた名であるが,対外関係では7世紀後半まで自称として使われていた。日本語の一人称代名詞〈わ〉(吾)によるとする説が古くから唱えられている。最近は身長,体型など人種的特徴によるとする説もある。後漢に成立した《説文解字》に〈倭は順(しなやか)なる貌(すがた)なり。人に従い委の声〉とある。転じて背が丸く曲がって低い人を指すといわれる。なお倭はもと委と書いたと説くのは《経典釈文》の誤解。確実な倭の初見は《漢書》地理志の〈楽浪海中に倭人有り,分かれて百余国を為す。歳時を以て来りて献見すと云う〉で,前1世紀半ばころ九州北部の集落の首長たちが楽浪郡から前漢の先進文化を摂取していた事実に基づく。ほかにも《山海経(せんがいきよう)》海内北経に〈蓋(がい)の国は鉅(おお)いなる燕(えん)の南,倭の北に在り。倭は燕に属す〉,《論衡》儒増篇ほかに〈周の時は天下太平にして越裳(えつしよう)は白雉を献じ倭人は鬯草(ちようそう)を貢ず〉とある。いずれも根拠は不確かである。《三国志魏志東夷伝によって,中国人は朝鮮半島南部を倭と呼んでいたとか,倭人が朝鮮南部に進出していたとかいう説もあるが,史料解釈が穏当ではない。

 九州北部と朝鮮南部との間に古くから住民の移住も含む継続的交流があったことは確かであるが,歴史的親縁性の証拠を中国史料の文面に求めるのはむつかしい。したがって,倭人は,前漢の朝鮮4郡の設置(前108)によって中国人に知られ,平均身長に約10cmの差があったらしい韓人種族と区別して〈小柄な人〉と命名された公算が大きい。1,2世紀に九州北部の部族連合が栄えたが,倭人種族を正式に代表する〈倭王〉が国際的に公認された最初は3世紀の邪馬台(やまと)の卑弥呼(ひみこ)/(ひめこ)で,倭についてのまとまった叙述(《魏志倭人伝》)もこのころ現れる。なお安徽省亳(はく)県の後漢墓塼銘は〈倭人〉でなく〈=佞人(ねいじん)〉であろう。
邪馬台国 →(やまと) →倭奴国王(わのなのこくおう)印
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「倭」の意味・わかりやすい解説


wiと発音された可能性がある。本来的には7世紀以前の中国・朝鮮での日本に対する呼称であるが、冊封(さくほう)体制内で自称国号としても援用された。倭の字は委とも表記される場合がある。意味は一人称の吾(わ)、従順な人、などの見解があるが不明。倭に関する史料上の初見は中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』(戦国~秦(しん)・漢時代成立)の「倭は燕(えん)に属す」、雑家書『論衡(ろんこう)』(90成立)の断片的記事であるが、実態はわかっていない。『漢書(かんじょ)』地理志には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国」、『後漢書』東夷(とうい)伝には「使駅漢に通じる者、三十国許(ばかり)」「建武中元二年、倭の奴国(なこく)奉貢朝賀」などとみえ、中国王朝下の冊封体制において倭の「国」々が統合されている過程がうかがえる。『三国志』魏書倭人条を根拠に、近年、朝鮮南部も倭とする見解が出されているが、「倭人は、帯方(たいほう)東南大海中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す」などを細かに検討すれば、倭は九州・四国・中国地方を中心とする西日本と考えるのが妥当である。4世紀末の高句麗(こうくり)好太王碑文、5世紀の『宋書(そうじょ)』倭国伝の倭は大和(やまと)王権と考えるのが一般的である。倭はやがて「ヤマト」と訓じられ、大和を示す語となった。7世紀後半以降、わが国の称号は日本となるが、倭と日本の関係について『旧唐書(くとうじょ)』は、「日本国は倭国の別種なり、其(そ)の国日辺に在るを以(も)って名となす。或(あるい)は曰(い)う。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。或は云(い)う。日本は旧小国、倭国の地を併す」と論じている。

[関 和彦]

『鈴木靖民著『古代国家史研究の歩み』(1980・新人物往来社)』『関和彦×『邪馬台国論』(1983・校倉書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「倭」の意味・わかりやすい解説

倭【わ】

日本の古名。《漢書(かんじょ)》に〈楽浪(らくろう)海中に倭人あり〉とあるのが最古語義については日本語の一人称代名詞〈わ〉(我・吾)によるとの説などがある。7世紀から日本と自称,7世紀後半まで〈ヤマト〉の宛字(あてじ)として使用,8世紀から中国でも日本と呼ぶようになった。
→関連項目安康天皇異称日本伝伊都国允恭天皇鬼室集斯狗奴国投馬国臺與日本反正天皇

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「倭」の意味・わかりやすい解説



Wo; Woe

委とも書く。中国,朝鮮で日本のことを呼んだ古称。文献上では漢代の『山海経』の海内北経に「倭は燕に属す」とあるのが初見。確実なものとしては1世紀後半頃班固が撰した『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり,分れて百余国をなす…」とある記事である。朝鮮でもすでに高句麗の広開土王碑にみえる。聖徳太子以降,日本人がみずから日本と称するまでは,倭の五王倭国王と自称したことでも明らかなように,日本人自身も中国と通交する場合は倭と称していた。中国で日本と称するようになったのは唐代以降である。倭の語源については諸説あり,定説はない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「倭」の解説


中国で称された日本の古名。「山海経(せんがいきょう)」にはじめてみえ,「漢書」地理志,「魏志」東夷伝から「旧唐書(くとうじょ)」東夷伝までの正史にも例外なく記録される。朝鮮でも,石上(いそのかみ)神宮七支刀,広開土王碑(好太王碑)をはじめ,「三国史記」もすべてこの称を踏襲している。わが国でも,ヤマトという国名と日本の総名(国号)の双方に,この字をあてて用いたが,7世紀末から8世紀にかけて,国名は大倭(やまと)→大養徳(やまと)→大和に,総名は日本に改めた。しかし中国・朝鮮では,後世も倭寇(わこう)・倭乱のように用いることがあった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「倭」の解説


中国・朝鮮の史書や金石文に記された日本および日本人の古称
中国と通交するときは,日本の天皇自身もみずから倭国王と称した(倭の五王)。『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人あり,分かれて百余国を為す」とあり,また朝鮮の高句麗 (こうくり) の広開土王の碑文にも倭の字が見られる。倭の存在は,前漢の武帝が朝鮮に楽浪郡など4郡を設置して以来,中国に知られたらしい。「日本」を使ったのは聖徳太子以降で,中国では『唐書』に「倭国は日本国の別称」と記されている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「倭」の解説

倭(わ)
Wo

中国の記録に用いられた日本の呼称。確実なところでは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる」とあるのが最初。中国では楽浪郡が設置されて以後その存在を認識したものと思われる。日本でも唐代に「日本」と名乗るまで通商上では倭を自称していた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「倭」の解説


古代,中国・朝鮮で日本のことを呼んだ名称
『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志』倭人伝・『宋書』倭国伝などに前1世紀ころから7世紀ころまで,この名称で日本のことが記録されている。「日本」の始用は推古朝や天武朝などの説がある。日本人のことは倭人と称した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のの言及

【加羅】より

…また,新羅や日本との関係記事が,国交や戦闘など国家間の交渉記事となっているが,本来の伝承では,それぞれの地域住民の接触交渉を伝えたものとみられる。《三国史記》新羅本紀の加羅関係記事は,倭関係記事を挿入したため,5世紀後半の国家間の交渉記事を遡及させている。《日本書紀》も同様で,〈百済記〉などの朝鮮側史料は510年代以降の史実を遡及させており,この時期の日本側史料は朝鮮側史料に合わせたものが多く,なかには編纂直前の8世紀初頭につくられた記事もある。…

【百済】より

…しかしこれらの伝承記事は,6世紀中葉の事情をもとに年代を遡及させた記事で,8世紀初頭に作られたものとみられる。397年に阿莘王は南下する高句麗広開土王の勢力と対抗するため,太子腆支を人質として倭国に送った。また,百済が倭と結んで396年以降5度にわたって高句麗と戦ったことは,広開土王碑文にもみられる。…

【日本】より

… また,諸外国における日本に対する関心の系譜については〈日本研究〉の項目を参照。
【国号】
 日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。…

【弥生文化】より

…そして同時に,吉備が一貫して独自の墓をもち,方形周溝墓を受け入れない点も注意をひく。
[〈国〉の誕生]
 中国の史書によると,前1世紀の倭(西日本)は〈百余国〉に分かれていた(《漢書》)。紀元57年(後漢の中元2)には倭の奴国(なこく)の王が光武帝に朝貢した(《後漢書》)。…

※「倭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」