iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.
iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.



Link to original content: https://ja.wikipedia.org/wiki/8世紀
8世紀 - Wikipedia コンテンツにスキップ

8世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千年紀: 1千年紀
世紀: 7世紀 - 8世紀 - 9世紀
十年紀: 700年代 710年代 720年代 730年代 740年代
750年代 760年代 770年代 780年代 790年代
イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。
ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。
クルアーンイスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。
円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。
イコノクラスムの始まり。イスラム帝国の攻撃から帝都コンスタンティノポリスを死守した皇帝レオン3世により聖像禁止令が出され、東ローマ帝国と周辺のキリスト教国は宗教的混乱に巻き込まれることになった。画像はレオン3世とその子コンスタンティノス5世の肖像が刻まれたソリドゥス金貨
第2ニカイア公会議。東ローマ皇帝コンスタンティノス6世とその母である皇太后エイレーネー(後に女帝)により787年に開催されたこの全地公会議により、イコノクラスムの嵐はいったん収まることになった。画像は1502年にディオニシイにより描かれたロシアヴォログダ州にあるフェラポントフ修道院フレスコ壁画の公会議の場面。
ファラス英語版聖堂遺跡英語版ヌビアスーダン)の国家マクリア英語版では、イスラム勢力との抗争が落ち着いた8世紀から11世紀にかけて独特なキリスト教文化が発展した。画像は聖堂を飾っていた「聖アンナ」の壁画断片(ワルシャワ国立美術館蔵)。
エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教シヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。
シャンカラの革新。ヴェーダーンタ哲学不二一元論を確立したシャンカラはインド最大の哲学者と評価され、その後継者たちはヒンドゥー教最高指導者とされている。画像はスリナガルシャンカラ・アーチャーリヤ寺院に飾られたシャンカラの肖像画の数々。
パーンディヤ朝の復興。パッラヴァ朝に勝利したジャティラ・パラーンタカ・ネドゥンジャダイアン王の時代にパーンディヤ朝は勢力を拡大した。画像はこの王の治世に開削された南インドのタミル・ナードゥ州にあるカルグマライのジャイナ教石窟英語版
スリランカとインドの交流。アヌラーダプラ王国では南伝仏教が崇拝されていたが、インドからヒンドゥー教の影響も依然として大きかった。画像はこの世紀に作られた大英博物館所蔵のターラー像英語版多羅菩薩像)で、もともとはヒンドゥー系の女神の尊格が取り入れられたものである。
ボロブドゥール遺跡。インドネシアジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝ダルマトゥンガ王時代に造営された。
唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。
楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による楊貴妃の歴史画(奈良県奈良市松伯美術館蔵)。
盛唐の詩人たち。唐詩の名で知られるようにこの時代には李白杜甫などの詩人たちが活躍した。画像は室町時代の水墨画家相阿弥の「李白観瀑図」(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)。
安史の乱ソグド節度使安禄山とその部下史思明による11年に及ぶ反乱は、唐の衰退と律令体制の崩壊を示すものであった。画像は唐代の画家李昭道中国語版の「明皇幸蜀図(台北国立故宮博物院蔵)」で反乱を避けてに落ち延びる玄宗皇帝一行を描いたもの。
大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。
唐三彩駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。
突厥碑文テュルク系民族である突厥は遊牧民族として最初の固有文字を作ったことで知られている。画像はモンゴルトール川上流域にあるバイン・ツォクト碑文で突厥第二帝国の重臣トニュククの功績を記録したもの。
マニ教の東漸。ウイグルではマニ教が国教として受容された。画像はアルベルト・フォン・ル・コックが発見したタリム盆地高昌故城出土の細密画「マニ教経典断簡」(国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。
高松塚古墳藤原京時代(694年 - 710年)に建造された終末期古墳円墳で、天武天皇の皇子乃至は高位の貴族の墓と推定されている。1972年に発見された時にはその極彩色の優美な壁画で耳目を集めた。画像は古墳壁画のうち西壁女子群像の部分。
天平文化遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。
太宰府九州における日本の軍事・外交を担当した役所で「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた。『万葉集』で知られる大伴旅人筑紫歌壇の舞台でもあり、「梅花の宴」の故事でも有名になった。画像は現在の太宰府遺構正殿跡(都府楼跡石碑)。
平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。
カラクムル遺跡。メキシコにある古典期マヤの遺跡で、117基という最も多くの石碑(ステラ)が残ることで知られている。画像は石碑51で731年の記録がされているユクノーム・トーク・カウィール王のもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。
ワリ文化。500年から900年頃にアンデス中央高地地帯北部で栄えた文化で、南部のティワナク文化とも相互に交流し、後には帝国化した。画像はワリの人物立像(テキサス州キンベル美術館蔵)。
ケルズの書』。『ダロウの書』『リンディスファーンの福音書』とともに三大ケルト装飾写本の一つとされ、「世界で最も美しい本」とも称される。画像はキー・ローモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。
ランゴバルド王国の盛衰。東ローマ帝国のイタリア領を蚕食して支配を拡げたこの王国も教皇庁と提携したフランク王国の攻勢に敗退した。画像はランゴバルド王ラトキスが8世紀半ばに寄進した祭壇で、チヴィダーレ・デル・フリウーリのキリスト教美術館が所蔵している。
カール大帝800年のクリスマスに行われたローマ教皇レオ3世によるカール大帝の戴冠は、「西ローマ帝国復興」を示すものであり、東ローマ帝国との間に「二帝問題英語版」の軋轢を生んだ。画像はアーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。

8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀

できごと

[編集]

8世紀

[編集]
  • 世界的な温暖化現象により、各地で海水面が上昇する(ロットネスト海進、平安海進)。

700年代

[編集]

710年代

[編集]

720年代

[編集]

730年代

[編集]

740年代

[編集]

750年代

[編集]

760年代

[編集]

770年代

[編集]

780年代

[編集]

790年代

[編集]

800年代

[編集]

時代の動向

[編集]

東アジア

[編集]

大陸

[編集]

朝鮮半島

[編集]

日本

[編集]

日本では唐制に倣った律令制が布かれた時代にあたり、その最盛期とされる。時代区分で言うと飛鳥時代から奈良時代へと移り変わり、さらに平安時代初頭にあたる。条坊制を布いた都城制の都が建設され、藤原京平城京恭仁京難波京紫香楽宮平城京長岡京平安京遷都が繰り返された。

西アジア

[編集]

南アジア

[編集]

東南アジア

[編集]

ヨーロッパ

[編集]

デンマークの建国

伝説・架空のできごと

[編集]
  • 712年以降 - 唐の玄宗皇帝がの高熱に浮かされていると、夢の中に鍾馗が現れ、玄宗への恩義に報いるべく、瘧の原因となっている子鬼どもを退治していく(「鍾馗」伝説。明代には小説『鍾馗全伝』などがまとめられる)。
  • 716年 - 735年 - 唐に留学中の吉備真備が唐人により楼閣に幽閉されるが、鬼となった阿倍仲麻呂の霊の助力により、難解な「野馬台詩」の解読や囲碁の勝負などを解決していく(大江匡房の説話集『江談抄』。『吉備大臣入唐絵巻』の内容もほぼ同じ)。
  • 717年 - 美濃国に貧しい父子が住んでいた。息子は老いた父に孝行を尽くしていたが、ある時山中で酒が流れている滝を発見し、酒好きの父を大いに喜ばせた。この噂が元正天皇の耳に届き、天皇自らこの地を行幸し、奇瑞に感じ入って元号を「養老」と変更した(『古今著聞集』など「養老伝説」)。
  • 729年 - 749年 - 聖武天皇天平年間に大和国吉野郡にいた久米仙人が飛行術で空を飛んでいたが、久米川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って墜落し、その女性を妻として俗人となる道を選んだ(『七大寺巡礼私記』『久米寺流記』『元亨釈書』『扶桑略記』他)。
  • 730年頃 - フランク王国がイスラム教徒との戦いを続ける中で、アイフェル地方の領主であり宮中伯であるジークフリートも、妻ゲノフェーファと別れ戦地に赴く。家臣のゴローは領主不在の折、ゲノフェーファに横恋慕したが、夫人から拒絶された。恨みに思ったゴローは夫人の不倫の噂を流し、破滅させようと陰謀を企てる(フリードリヒ・ヘッベルの戯曲『ゲノフェーファ』、ロベルト・シューマンのオペラ『ゲノフェーファ』)。
  • 750年頃 - 唐の玄宗皇帝の天宝末年、隴西李徴進士に及第した。にもかかわらず官吏の生活を良しとせず河南に出張中に発狂し行方知れずとなる。後年、旧友の袁傪は図らずも虎となった李徴と再会する(唐の張読 (唐)中国語版の伝奇小説『宣室志中国語版』の「李徴」が原典。中島敦山月記』などに発展)。
  • 756年以降 - 唐の玄宗皇帝は馬嵬で殺された楊貴妃を想い、方士に命じその魂魄の行方を探させる。各地を遍歴して蓬萊宮に至った方士は楊貴妃に巡り会い、玄宗への形見と誓いの言葉を託される(白居易長恨歌」)。
  • 773年 - 藤原豊成の娘中将姫長谷観音の導きにより一夜で蓮糸を用いて曼荼羅を織り上げる(「當麻曼荼羅」伝説・折口信夫死者の書』ほか)。
  • 775年 - マヤ文明キリグア遺跡に残る石碑Cはこの年に建てられたものである。精密なマヤ暦に基づいて換算すると、この世の始まりが紀元前3114年8月13日となり、この世の終わりが2012年12月21日に来ると記されている(ホゼ・アグエイアス(英:José Argüelles)の著書『マヤンファクター』、エイドリアン・ギルバートの著書『マヤの予言』ほか「マヤ暦による2012年人類滅亡説」)。
  • 791年 - 東平の遊侠淳于棼はこの年の九月に、槐樹の下で泥酔し前後不覚に酔いつぶれた。そこへ使者が現れ、彼は夢うつつのまま槐安国に連れていかれ、国王の寵を受けて南柯郡の郡守にとりたてられる。更には王女も娶り栄耀栄華を恣にするが、帰国を決意して、目が覚めるとそこはもとの槐樹の生えている場所で、何もかも元通りだった(李公佐伝奇小説南柯太守伝中国語版』)。

人物

[編集]

東アジア

[編集]

[編集]
  • 張柬之625年 - 706年) - 唐の政治家・張易之と張昌宗の兄弟を斬り則天武后を退位させる・中宗の復位を実現
  • 韋后(? - 710年) - 唐の皇帝中宗の皇后・「武韋の禍」の一人・娘の安楽公主とともに中宗を殺害し帝位を窺う
  • 太平公主665年? - 713年) - 唐の皇帝高宗の娘・母は則天武后・韋后排斥の中心人物・後に甥の李隆基と対立し滅ぼされる
  • 張説667年 - 730年) - 唐の政治家・宰相・李隆基に挙兵を決断させた功で有名・詩人として『張説之文集』がある
  • 玄宗(李隆基)(685年 - 762年) - 唐の第6代皇帝(在位712年 - 756年)・その治世前半が「開元の治」
  • 姚崇650年 - 721年) - 唐の政治家・宰相・宋璟とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
  • 宋璟663年 - 737年) - 唐の政治家・宰相・姚崇とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
  • 張九齢678年 - 740年) - 唐の政治家・宰相・李林甫と対立し辞職・「開元最後の賢相」と呼ばれる
  • 李林甫(? - 752年) - 唐の政治家・宰相・張九齢らを失脚させ天宝年間の政局を握る・府兵制崩壊に伴い異民族節度使を登用
  • 高力士684年 - 762年) - 唐の宦官・韋后討伐から安史の乱まで玄宗の腹心として仕える・李輔国に失脚させられる
  • 郭子儀697年 - 781年) - 唐の軍人・安史の乱を平定・後には吐蕃やウイグルの反乱も鎮圧する
  • 高仙芝(? - 755年)- 唐の高句麗軍人・タラス河畔の戦いで敗北・安史の乱の渦中で処刑される
  • 杜環(生没年不詳) - 唐の著述家・タラス河畔の戦いで捕虜となり中央アジアや西アジアに滞在したのち帰国し『経行記』を執筆
  • 李輔国704年 - 762年) - 唐の宦官・玄宗に代わり粛宗を擁立・粛宗の皇后を殺害させるなど専権を極める
  • 楊国忠(? - 756年) - 唐の宰相・楊貴妃の親族として出世・安史の乱で長安を捨て四川に逃亡するが殺害される
  • 楊貴妃719年 - 756年) - 唐の玄宗の寵妃・安史の乱の原因とされ楊国忠に続き馬嵬で殺される
  • 安禄山705年? - 757年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは節度使・大燕皇帝を自称(在位756年 - 757年)・実子安慶緒に殺される
  • 史思明703年 - 761年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは安禄山の部下・大燕皇帝を自称(在位759年 - 761年)・実子史朝義に殺される
  • 魚朝恩中国語版721年 - 770年) - 唐の宦官・神策軍を従え代宗の宮廷で専権を振るうが元載の命で処刑される
  • 元載(? - 777年) - 唐の政治家・宰相・宦官魚朝恩を滅ぼし政権を掌握・後に代宗の命で処刑される
  • 楊炎727年 - 781年) - 唐の政治家・皇帝徳宗に仕え均田制/租庸調制に代わる両税法を創設・のちに失脚し処刑される
  • 第五琦729年 - 799年) - 唐の政治家・塩法による塩の専売制を導入し財政再建に尽力・乾元重宝銭の鋳造で物価高騰を招く
  • 杜佑735年 - 812年) - 唐の官僚・歴史家として法令制度の通史『通典』をまとめる・杜牧は孫
  • 司馬承禎643年 - 735年) - 唐の道士・「道先仏後」の唐にあって玄宗の信任を得る・著作に『坐忘論』『天隠子』がある
  • 李思訓651年 - 718年) - 唐の画家・皇族であり官僚として玄宗に仕える・「北画の祖」とされる
  • 呉道玄(生没年不詳) - 唐の画家・玄宗に仕えて山水画の画法に変革をもたらし「画聖」と呼ばれる
  • 張萱(生没年不詳) - 唐の画家・宮廷で活躍し「虢国夫人遊春図」「搗練図」(いずれも後世の模作)が残る
  • 呉競(670年 - 749年) - 唐の歴史家・唐の太宗とその臣下の言行を記録した『貞観政要』を編纂
  • 李瀚(生没年不詳) - 唐の文筆家・上古から六朝までの逸話を選び初学者用に編纂した『蒙求』で知られる
  • 一行683年 - 727年) - 唐の僧侶・真言八祖の一人であり善無畏と『大日経疏』を編纂・天文学者としては大衍暦を作成
  • 鑑真688年 - 763年) - 唐の僧侶・日本に渡り律宗を伝える・奈良の唐招提寺の開基となる
  • 孟浩然689年 - 740年) - 唐の詩人・代表作に「春暁」がある・官人にはなれず在野で活躍
  • 王維701年 - 761年) - 唐の詩人で「詩仏」と称される・画家として「南画の祖」とされる
  • 李白701年 - 762年)- 唐の詩人で「詩仙」と称される・代表作に「早發白帝城」がある
  • 顔真卿709年 - 785年) - 唐の書家・「争座位帖」や「祭姪文稿」がある・安史の乱でも活躍し忠臣とされる
  • 杜甫712年 - 770年) - 唐の詩人で「詩聖」と称される・代表作に「春望」がある
  • 張旭(生没年不詳) - 唐の書家・狂草という奔放な書体で有名・「自言帖」や「郎官石柱記」がある
  • 懐素725年 - 785年) - 唐の書家・僧侶・張旭の狂草の影響を受ける・「草書千字文」が有名
  • 陸羽733年 - 804年) - 唐の文筆家・にまつわる知識をまとめた『茶経』を残す
  • 沈既済750年 - 800年頃) - 唐の歴史家・小説家・歴史書『建中実録』や伝奇小説「枕中記」「任氏伝」がある。

渤海

[編集]

日本

[編集]
弓の名手である坂上苅田麻呂藤原仲麻呂の乱で藤原訓儒麻呂を射ようとする場面

南アジア・チベット・東南アジア

[編集]

イスラム世界

[編集]

ウマイヤ朝

[編集]

後ウマイヤ朝

[編集]

アッバース朝

[編集]

思想家・学者

[編集]

中央アジア

[編集]

キリスト教世界

[編集]

フランク王国

[編集]

イタリア

[編集]

東ローマ帝国と東方正教圏

[編集]

イベリア半島

[編集]

イングランド

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • ウィキメディア・コモンズには、8世紀に関するカテゴリがあります。