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津島壽一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津島 壽一つしま じゅいち
1953年
生年月日 1888年1月1日
出生地 日本の旗 日本 愛媛県阿野郡坂出村(現香川県坂出市
没年月日 (1967-02-07) 1967年2月7日(79歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科[1]
前職 大蔵省官僚
所属政党自由党→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
勲一等瑞宝章
藍綬褒章
坂出市名誉市民
法学士(東京帝国大学)

内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

日本の旗 第46代 大蔵大臣
内閣 小磯内閣
在任期間 1945年2月21日 - 1945年4月7日

日本の旗 第48代 大蔵大臣
内閣 東久邇宮内閣
在任期間 1945年8月17日 - 1945年10月9日

選挙区全国区→)
香川県地方区
当選回数 2回
在任期間 1953年5月3日 - 1965年6月1日

在任期間 1945年10月5日 - 1946年2月16日

その他の職歴
日本の旗 大蔵次官
1934年7月10日 - 1936年3月13日
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津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一1888年明治21年)1月1日 - 1967年昭和42年)2月7日)は、日本大蔵官僚政治家位階正三位勲等は勲一等。

第二次世界大戦後の外債処理や賠償交渉に道筋をつけたことで知られる。

来歴・人物

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愛媛県阿野郡坂出村(現香川県坂出市)生まれ。旧制丸亀中学旧制一高1912年東京帝国大学法科大学政治学科卒業[1]大蔵省に入省。理財局[2]

昭和戦前期の代表的な国際金融官僚であり、金解禁から昭和恐慌を経て高橋財政に至るまでの期間、海外駐在財務官(英、仏、米駐在)などの職にあって、一貫して第一線で実務に関わった。理財局長大蔵次官日本銀行副総裁、北支那開発総裁などを経て、1945年(昭和20年)2月、内閣書記官長に転じた蔵相石渡荘太郎の後任として小磯内閣大蔵大臣に就任[3]。終戦後の同年8月には東久邇宮内閣で再び大蔵大臣に就任した[4]。同年10月5日、貴族院議員に勅選され[5]、1946年(昭和21年)2月16日まで在任[6]

終戦処理内閣の蔵相として津島が直面したのは戦前に日本が発行した外債の支払い問題だった。敗戦国の外債処理といえばまず返済額の減額を交渉するのが常識と考えられていた時代にあって、津島は戦争で失った国際信用を回復することが重要と考え、元金の減額や利子の停止には一切ふれずに、ただ支払い期限の10年間先延ばしを求めるにとどまった。天皇の従弟を首班とする内閣の政策に懐疑的だった諸外国もこうした日本政府の対応には一定の評価を下した。

その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦渋沢敬三次田大三郎らとともに証人喚問された[7]1951年(昭和26年)に追放解除。同年吉田茂に乞われてフィリピンとの賠償交渉に日本国主席全権大使としてあたる。フィリピンの要求額と、日本が提示額の間には数倍の開きがあり、交渉は多難を極めたが、4年越しの地道な交渉により、沈没船の引き揚げその他の役務や生産財の現物供与などを含めることで両国は合意に至った。

1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙自由党公認で全国区から立候補し初当選。自由民主党合流後は第1次岸改造内閣防衛庁長官を務めた。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で香川県地方区から立候補し再選された。

1963年、長らくスポーツの育成発展に努め世界スポーツ界での日本の地位向上に尽くすなど体育振興に寄与したとして藍綬褒章受章[8]1964年秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[9]1965年、銀杯一組を賜った[10]。1967年1月、坂出市名誉市民[11]

郷里の後輩である大平正芳に勧めて大蔵省に入省させたことや[12][注釈 1]谷崎潤一郎の一高同期の親友としても知られた。

1967年(昭和42年)2月7日死去、79歳。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、従三位から正三位に叙される[11][13]

役職

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官僚時代の年譜

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  • 1912年7月:大蔵省に入省。理財局[2]
  • 1912年11月:高等文官試験を合格[2]
  • 1916年1月:淀橋税務署長
  • 1916年5月:幸橋税務署長
  • 1916年11月:専売局参事補 兼 専売局長官官房 兼 理財局
  • 1917年2月:専売局参事補 兼 専売局長官官房 兼 理財局 兼 臨時調査局金融部
  • 1917年3月14日:大蔵大臣秘書官(事務担当)
  • 1918年6月:参事官 兼 大蔵大臣秘書官(事務担当)
  • 1918年9月29日:参事官
  • 1920年5月10日:参事官 兼 理財局臨時調査課長
  • 1920年8月23日:参事官 兼 理財局臨時調査課長 兼 大蔵大臣秘書官
  • 1923年9月19日:参事官 兼 理財局臨時調査課長 兼 大蔵大臣秘書官秘書官(事務担当)
    • 1923年12月:欧米各国出張(〜1924年6月)[2]
  • 1924年1月21日:参事官 兼 理財局国庫課長 兼 理財局臨時調査課長 兼 大蔵大臣秘書官秘書官(事務担当)
  • 1924年1月29日:参事官 兼 理財局国庫課長 兼 理財局臨時調査課長
  • 1924年5月30日:参事官 兼 理財局国庫課長
  • 1925年10月:参事官 兼 理財局国庫課長 兼 支那関税特別会議帝国代表議員
  • 1926年8月:理財局国庫課長
  • 1927年5月24日:海外駐在財務官(英、仏、米駐在)
  • 1934年2月15日:理財局長
  • 1934年7月10日:大蔵次官 兼 理財局長
  • 1934年7月13日:大蔵次官
  • 1936年3月13日:退官

著書

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  • 『谷崎と私』(中央公論社、1953)
  • 『芳塘随想』(全16集、芳塘刊行会、1955-1966)、各・非売品の随想集
  • 『芳塘随想 第17集 我国の国際貸借及び対外金融 遺稿拾遺1』(芳塘刊行会、1968)、追録 芳塘先生の終焉
  • 『芳塘随想 第18集 津島寿一遺稿集 遺稿拾遺2』(芳塘刊行会、1979)、綾子夫人追悼も含む
  • 『芳塘随想 第19集 津島寿一遺稿集 遺稿拾遺3』(芳塘刊行会、1982)、追想・追悼集

脚注

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注釈

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  1. ^ 大平は大蔵大臣時代の津島の秘書官を務めた。
  2. ^ a b c 1962年のアジア大会混乱の責任を取って辞任。詳細はアジア競技大会を参照。

出典

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  1. ^ a b 『東京帝国大学一覧 従大正7年至大正8年』学士及卒業生姓名 法学士 政治学科125頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月発行、112頁
  3. ^ 福永 2008 45頁
  4. ^ 福永 2008 48頁
  5. ^ 『官報』第5624号、昭和20年10月9日。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、54頁。
  7. ^ 第3回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第6号 昭和23年10月20日
  8. ^ 『官報』第11067号10-13頁 昭和38年11月4日号
  9. ^ 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号
  10. ^ 『官報』第11418号16-17頁 昭和40年1月7日号
  11. ^ a b 名誉市民”. 坂出市 (2018年4月13日). 2023年5月31日閲覧。
  12. ^ 福永 2008 32頁
  13. ^ 『官報』第12046号7頁 昭和42年2月10日号
  14. ^ 【オリンピズム】五輪旗と組織委員会(3)政、官と戦った剛腕事務総長 - 産経ニュース、2013.10.22
  15. ^ 【オリンピズム】五輪旗と組織委員会(5)調整役に徹し難局乗り切る - 産経ニュース、2013.11.5

参考文献

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  • 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 従大正7年至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
  • 福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』(初版)中央公論新社中公新書〉(原著2008年12月20日)。ISBN 9784121019769 
  • Huebner, Stefan, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia. NUS Press: Singapore 2016, 147-173ページ所収。
公職
先代
石渡荘太郎
広瀬豊作
日本の旗 大蔵大臣
第46代:1945年
第48代:1945年
次代
広瀬豊作
渋沢敬三
先代
小瀧彬
日本の旗 防衛庁長官
第8代:1957年 - 1958年
次代
左藤義詮
その他の役職
先代
東龍太郎
日本体育協会会長
第7代 : 1959年 - 1962年
次代
石井光次郎