松木直亮
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松木 直亮 | |
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生誕 |
1876年11月5日 日本 山口県 |
死没 | 1940年5月22日(63歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1899 - 1934 |
最終階級 | 陸軍大将 |
墓所 | 多磨霊園 |
松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 1940年5月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
経歴
[編集]山口県出身。松木一郎の長男として生れる。周陽学舎、成城学校、陸軍幼年学校を経て、1898年11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、陸軍少尉任官。日露戦争では、歩兵第1連隊中隊長として出征し戦傷を受けた。日露戦争のため中退した陸軍大学校に復校し、1907年11月、陸大(19期)を卒業。
参謀本部員兼乃木希典軍事参議官副官、ドイツ大使館付武官補佐官、陸軍歩兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸大教官、歩兵第78連隊長、陸軍省副官などを経て、1923年8月、陸軍少将に進級。台湾第1守備隊司令官、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議幹事長)、陸軍省整備局長を歴任し、1927年12月、陸軍中将に進級し、第14師団長などを歴任。1933年12月、陸軍大将に進み待命、翌年1月に予備役編入となった。二・二六事件発生に伴い、1937年2月、東京陸軍軍法会議判士を命ぜられ、磯村年陸軍大将らと公判を担った。
年譜
[編集]- 1898年(明治31年)11月 - 陸軍士官学校(10期)卒業
- 1899年(明治32年)6月 - 歩兵少尉・歩兵第1連隊付
- 1901年(明治34年)11月 - 歩兵中尉
- 1902年(明治35年)8月 - 陸軍大学校入校
- 1904年(明治37年)2月 - 陸軍大学校中退
- 3月 - 歩兵第1連隊中隊長
- 4月 - 日露戦争出征
- 5月 - 歩兵大尉
- 8月 - 戦傷を受ける。
- 1906年(明治39年)3月 - 陸軍大学校復校
- 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校(19期)卒業
- 12月 - 参謀本部員兼乃木希典軍事参議官副官
- 1909年(明治42年)10月 - 歩兵少佐
- 1910年(明治43年)6月 - ドイツ大使館付武官補佐官
- 1911年(明治44年)10月 - ドイツ駐在
- 1913年(大正2年)7月 - 歩兵第13連隊付
- 1915年(大正4年)8月 - 歩兵中佐・歩兵学校教官
- 1916年(大正5年)4月 - 軍務局課員
- 1917年(大正6年)5月 - 陸軍大学校教官
- 1918年(大正7年)7月 - 歩兵大佐・歩兵第78連隊長
- 1919年(大正8年)1月 - 陸軍省副官
- 1923年(大正12年)8月 - 陸軍少将・台湾第1守備隊司令官
- 1925年(大正14年)5月 - 兵器本廠付(作戦資材整備会議幹事長)
- 1926年(大正15年)10月 - 整備局長
- 1927年(昭和2年)12月 - 陸軍中将
- 1929年(昭和4年)8月 - 第14師団長
- 1933年(昭和8年)8月 - 参謀本部付
- 12月 - 陸軍大将・待命
- 1934年(昭和9年)1月 - 予備役
- 1937年(昭和12年)2月 - 召集・参謀本部付・東京陸軍軍法会議判士
- 9月 - 召集解除
栄典
[編集]- 位階
- 1902年(明治35年)2月20日 - 従七位[1]
- 1927年(昭和2年)12月28日 - 従四位[2]
- 1930年(昭和5年)1月16日 - 正四位[3]
- 1934年(昭和9年)2月19日 - 正三位[4]
- 1933年(昭和8年)2月1日 - 従三位[5]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]- 妻 松木ツタ 林錬作(陸軍少将)の娘。