《
二子山》
富士山には、33才の時に一度登っている。
自ら登りたかったのではない。
当時70才の父親が、
「富士山に登る!」
と一念発起したらしく、妻を従えて東京在住のけんじろう君の、
アパートへ押しかけてきたのである。
ならばと、押し入れからキスリングというザックを引っ張り出し、
中古の車で河口湖のルートの5合目までやってきた。
当時は、五合目まで、マイカーで行けた。
いまから37年前のことである。
70才と62才の二人を登らせるにはどうしたらよいか?
(ふたりとも登山経験ほとんどなし)
考えた末、杖以外何も持たずに登らせよう。
ところが、形にコダワル父親が、どうしてもリュックを背負いたいと、
駄々をこねる。
仕方ない。
子供用のリュックを二つ用意し、その中に、
風船をいくつも膨らませて入れた。
見た目には、かなり重いリュックに感じられる。
気を良くしたらしく、ふたりはその後、おろしたらバレるリュックを、
背負い、川口湖登山口で、柏手を打っていた。
計画では、7合5尺の小屋で一泊し、山頂を目指す。
思いのほか二人の足どりは軽く、宿泊小屋まで来た。
受付を済ませ、夕食となる。
当時の山小屋は、大きな声では言えないが、
非常にお粗末であった。
ある意味仕方ない事情もあったようで、
修験者の仮の宿というべき施設状況。
まず、トイレが100年前に遡った趣であり、
夕食は、お弁当。
それも、稀に見る日の丸弁当に毛の生えたモノ。
まあ、それはそれで仕方ない。
食い物に文句を言う状況ではない、
ところが、寝る場所が、狭かった。
《蚕棚(かいこだな)》と呼ばれる人間の横並びである。
2階建ての蚕だなが並んでいた。
幅は肩幅。
そこに押し込められた父親。
しばらくは、ジッと耐えていたが、小一時間した頃、
突然、怒り出した。
「ふざけるな!」
父親は、狭さを怒っているのではなかった。
ある状況とソックリな寝所に怒りを感じたのである。
実は父親は、終戦後4年半、シベリアに抑留された人である。
マイナス20~50℃の中で、ラーゲリという宿泊施設にいた。
そこは、上下二段になった蚕棚になっており、
寒さと飢えで、毎日のように隣りに寝ている人が、
冷たくなっていった。
食べるモノは、一日にパン一枚と具のないスープ一杯。
連日、フファイカという外套だけで、吹雪の中12時間労働。
鉄道を作らされた。
楽しみは、一枚のパンと、眠ることだけ。
その眠る場所が、寝返りさえ打てないような狭さ。
富士山の山の中で、40年前の記憶が、
まざまざと蘇ったのである。
「ふざけるな!」
父親の怒りは、山小屋に対してではなく、
戦争に対する情けないような怒りであった。
怒りを爆発させそうな父親を寝床から引っ張り出し、
食堂へ向かい、日本酒を呑むことになった。
とはいえ、標高3000mの山の上。
酔いは早いし、クラクラする。
そこで、山小屋の人に事情を話してみた。
「70才で登ってきたんです。あそこに広くあいている場所は、
次々に登って来る方の為に、あけてある寝床ですよネ。
その方たちが来るまでで構わないので、
父親だけ、手足を伸ばして寝かせて貰えませんか?」
こころ優しき小屋主さんのおかげで、
父親はそこで朝を迎えることができた。
翌日、ご来光を小屋前で浴び、
山頂に向けて出発!
高山病にもなることもなく、山頂つまり、剣が峰にたどり着いた。
その頃には、気象観測レーダーの、
いわゆる富士山ドームは撤去された後だった。
そして、神社に行くと、70才以上の登頂者には、
扇子が与えられたのである。
父親の喜ばんことか!
帰りは、須走コース。
ザラザラの火山砂を大股で走るように降りる。
あまりにも面白く、富士山の記憶の大半が、コレ!
(実は、この富士登山の前にも後にもお馬鹿な顛末が、
あるのだが、またの機会にいたしましょう、
でないと先に進めな~い) 大勢の自衛隊員の登る姿が