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白洲次郎はサンフランシスコ平和条約受諾演説にどのように関わったか - Valdegamas侯日録

白洲次郎はサンフランシスコ平和条約受諾演説にどのように関わったか

1.問題の所在

 NHKが11月25日放送した「映像の世紀バタフライエフェクト 吉田茂 占領下のワンマン宰相」を観た。占領期に焦点を当て、内閣総理大臣吉田茂の統治を追ったものである。

 テレビ番組にあまりそうしたことを言うのも詮無いことではあるが、多少この時期の日本史に関心を持つ人間として色々と疑問を抱く描写のある番組であった。細部はさておくとしても、占領期吉田政治最大のキーパーソンとして白洲次郎を描くというストーリーは、あまりにも現実離れしているのではないかと思わざるを得ない。

 もちろん歴史の描き方というのは解釈が伴うため、そうした方法もあり得ないわけではない。ただし現時点で明らかになっている事実に基づいて描写を行う必要があろう。その中でも、一点わかりやすいエピソードについて看過し得ない描写が存在したので、本エントリーではそれを論じてみたい。サンフランシスコ平和条約の受諾演説が日本語で行われた経緯に関する説明である。

 まず、この受諾演説とは何だったのか。1950年頃から本格化した講和交渉を経て、1951年9月4日から8日にかけて開催されたサンフランシスコ講和会議において、日本国政府全権団は連合国48カ国との間に戦争状態を終結させる平和条約(サンフランシスコ平和条約)に署名し、東側諸国、インド、ビルマなど一部の国を除く各国との間に講和を成立させ、占領状態からの脱出に道筋をつけた。会議期間中の現地時間9月7日午後20時、日本国全権・吉田茂はこの条約を日本国が受諾する意向を述べる演説を日本語で行った。この演説は歴史的に見ても重要な演説であった。

 演説は当初英語で行われる予定だったが、直前に日本語での演説に変更された。それ自体は比較的よく知られているエピソードであるが、この変更の経緯が今回の焦点である。「映像の世紀バタフライエフェクト」では、講和会議全権団顧問・白洲次郎の「演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってきまして、首席全権の演説を観てくれたかというのです。……それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。……冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。……」という1966年の回想を引用し、さらに「白洲は、日本が独立を回復するハレの演説は、日本語でやるべきだと激昂した。アメリカも日本語でやるべきだと提案してきた」とナレーションで続けて説明した。白洲にフォーカスした映像と相まって、番組が日本語演説実現に最も影響を与えたのは白洲だったというトーンでこの経緯を描いていることは明らかであった。

 しかし、この白洲の「証言」は他の証言や史料と矛盾する部分をいくつか含み、その信憑性に疑問符がつくものである。本エントリーは他の関係者の証言を取り上げながら、白洲次郎サンフランシスコ平和条約受諾演説にどのように関わったかを確認する。長い引用を複数含むものとなったが、作成の過程で一種の資料編としてまとめる方がおもしろい部分もあるかと考えたという事情もあるため、読者の方はご理解いただきたい。

 なお、この演説原稿の日本語への変更については、近年では小川原正道編『日本近現代政治史』において小宮京・青山学院大学教授が取り上げており、主要な参考文献はこのコラムと重なる。ただ同コラムでは取り上げていない白洲証言と重ねることで多少の変化が出るであろう*1

 

2.関係者の回想

 関係者は、受諾演説がどのような理由で日本語に変更されたと述べてきたのか。当時サンフランシスコ講話会議の場にいた関係者の回想をまず時系列順に並べ、その内容の相違を確認したい。

 以下の引用では、各回想の中でポイントとなる部分、①日本語演説への変更に誰が最も影響を与えたのか、②どのタイミングでその判断がなされたかの二点に注目し、関連する箇所に下線を付した。これは先述の1966年の白洲の回想であれば、①は白洲自身、②は9月5日に白洲が演説原稿を確認した時となる。

 

(1)吉田茂福永健司の回想(1957年)

 この演説変更の内幕を最初期に述べたものは、1957年に刊行された吉田茂の回想録『回想十年』のようである。そこでは以下のように述べられている。

 講和会議での私の演説は、初め英語でやるつもりであった。ところがアチソン議長が、「ソ連もロシア語でやっているのだから、日本語で演説してはどうか」という。私は「国粋主義誠に結構」と直ちに同意した。

吉田茂『回想十年』第3巻、中公文庫、1998年、52頁)

 『回想十年』の刊行経緯は第1巻の序文に詳しいが、同書は記憶の正確性に自信がなく、本文に書き足らざるところがあるという吉田の証言を補い背景を説明するという趣旨で関係者による「余話」を随所に挿入している。本箇所で講和会議全権団にオブザーバーとして同行し、後述する『平和条約締結に関する調書』において、会議中常に吉田のそばにいたとされる福永健司(当時衆議院議員)の談話が掲載されている*2

最初の予定では、吉田首席全権の演説は英語で行うことになっていた。ところがアチソン議長等の理解あるとりなしで、日本語でやって結構だということになり、吉田総理もその方が楽だというので、改めて日本語で原稿を書き直すこととなった。

福永健司「葉巻を断わった吉田さん」前掲『回想十年』第3巻、55頁)

 ここで吉田、福永の証言はいずれも①変更提案が講和会議の議長を務めたアチソン(Dean G. Acheson)米国務長官によるものとしている。一方で②のタイミングは定かではない。ひとまずこれ以上の確認は後に譲るとして、次の証言に移ることとしたい。

 

(2)シーボルトの回想(1965年)

 アメリカ側でもこの顛末に言及した人物がいる。当時連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAP)外交局長・大使で、講和会議の際は米国全権団の一員として、会議運営や日本政府との折衝にあたっていたウィリアム・J・シーボルト(William J. Sebald)である。シーボルトは1965年に回想録 With MacArthur in Japan: A Personal History of the Occupation(野末賢三訳『日本占領外交の回想』、朝日新聞社、1966年)を刊行し、この次のように記している(引用は訳本によった)。

  首相は、到着の際は、英語で演説をするよう申入れてきた。私は、日本全権団の人々に、前もって充分準備するよう注意しておいた。九月七日、金曜日の朝おそく、首相の個人的な秘書の松井明が私のところへ、演説草案の英文の写しを持ってきて、それを読んで、何か直したいところがあれば、いってくれないか、と頼んできた。誰が書いたのか知らないが、とにかくそれはよくなかった。事実、特にアジア諸国の一部では、すでに会議のために、不快の気持を増大していたのに、さらにこんな演説をやることになれば、これらの国々の善意をそこなう恐れのあるような部分が各所に見られた。この演説の調子と題目を変更するために、なんとかしなければならなかった。しかもぐずぐずしてはいられない。その日の午後か、夕方の会議の始めに、吉田は演説することになりそうだったからである。

 私は松井に、首相が日本語で演説をやって、日本代表団通訳官のヘンリー・島内に同時通訳をやってもらうよう頼みなさい、と提案した。私の理由は、根本的なものだった。吉田は、英語の知識こそ立派なものだが、発音は、多くの日本人同様に下手で、時々慣れない語句が出てくると、聞きとれないことがあった。非常に悪い演説草稿を、発音の下手な、妙な調子で読上げる。それを考えただけで身ぶるいするほどだった。私はこんな心配をホテルで首相に話すと、彼はすぐに日本語で演説することに同意した。

 一方私の同僚の数人が、草稿の原文に大急ぎで手を入れた。必要なところには手を加え、聞き手を怒らせそうなところは削り、全体として言葉を洗練したものに変え、どうやらいい演説といえるところまで仕上げ、さらに吉田の発言に権威を持たせるような調子に直した。われわれは、至急注文のサンドイッチをぱくつきながら、この苦しい仕事を続けたが、その間松井はそばについていた。そして彼は、出来上がった草稿に非常に満足した。松井は、それを持って飛んで行った。吉田の承認をもらってから、日本語に翻訳せねばならなかった。さすがに、吉田とその随員らの相変らずの努力によって、午後八時には、すべての準備が整った。―だが、ちょうどその時―会議議長のディーン・アチソンが、首相の演説を求めたところだった。

(ウィリアム・J・シーボルト著、野末賢三訳『日本占領外交の回想』朝日新聞社、1966年、241-242頁)

 ここでは、①はシーボルトとなり、かつ彼自身が松井明総理秘書官(本文中の「個人的な秘書」は全権団名簿の記述private secretaryの直訳であろう)だけでなく吉田総理に直接日本語演説を行うべきことを伝え同意を得たとされている。また②は9月7日の朝にシーボルトが松井秘書官から演説原稿案を受領してからとされている。

 

(3)白洲次郎の回想(1966年)

 これは冒頭触れたとおり番組でも引用されたものだが、全文を引用しよう。

 吉田さんの演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってきまして、首席全権の演説を観てくれたかというのです。見ないといったら、そんなことない、見ろというのです。外務省は僕に見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の首席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、全部日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは、沖縄かえせということ。

 そんなこといったら困ると外務省はいったけど、困るもなにも、冗談いうなといったのです。いま施政権返還といっても向こうは驚きませんが、そのときは、それを聞いてアメリカの人がびっくりしたらしいですね。

白洲次郎講和条約への道」安藤良雄編『昭和経済史への証言 下』毎日新聞社、1966年、409-410頁)

 繰返しとなるが①は白洲自身、②は9月5日に白洲が演説を確認した時としている。先述の吉田・福永、シーボルトと相違があることがわかる。

 

(4)西村熊雄の回想(1970年)

 次に外務省条約局長・日本国全権団随員としてサンフランシスコ講和会議に出席した西村熊雄の回想を確認しよう。西村は外務省退官後に同省の依頼を受け、平和条約締結に関する一連の交渉経緯と当時の自らが得た印象等について、その典拠となる外交記録と共に記述した「平和条約の締結に関する調書」という大部の調書群を作成した。

 内部の執務参考用として作成された調書群の中でサンフランシスコ講和会議を扱っているのが1970年7月に刊行された「平和条約の締結に関する調書VII」である。これは2002年に他の調書とあわせ、外務省の刊行する外交文書集『日本外交文書』の1冊として刊行された。

 本エントリーに関連する点は、講和条約受諾演説に関する項の注2・3に記載されている。西村は会議当時作成していた備忘録を典拠として、演説の作成経緯、日本語演説となった経緯にそれぞれ言及している。以下に記述を引用しよう。

(注2)総理の受諾演説は現地で新たに作成したものである。「備忘録」の記録を辿るとこうなる。前に説明したように東京から二つの案を持参したが、それは総理の意向によつて現地で会議の空気をみたうえさらに考えなおすことになつていた。現地に着いてから4日の夜に「総理の演説案を作成し第2案を元にしこれに第1案のうち装置のとくに関心をもたれる部分をくわえ、他方、先日のアチソン長官・ダレス特使・ラスク次官補の談話を考慮してわが方の要請の部分を簡単にしオブラートをかけたもの(第3案とでもいうか)、小畑くんに渡して5日中に英訳してくれるよう」依頼した。

 しかし5日は別段のこともなく6日になると、「今日は総理の演説作成についやし7日午前4時に一応完成した。藤崎・曾野くんと松井秘書官が助けてくれた。小畑くんの作成した英文案に総理が桑港にきてから申された事項をくわえた案文(第4案といおう)を作成した。2通作成し1部を7日午前4時に隣室の小畑くんに渡した。同くんは7日の朝に英文を完成した。(6日)夕刻、白州顧問・小畑・武内・寺岡諸くんと意見を交換し大綱について意見の一致をみた」と記録してある。

 7日には、「朝7時半スコット邸に総理を訪ね、午前2時松井くんがとどけてくれた演説案(四分の三)にたいする総理の意見を承り(自ら加筆訂正された)、持参した残りの四分の一について総理の意見を求めた。総理は中国問題に言及すること、マ元帥にたいする謝意をいれることを指示された。その他の意見は、だいたいにおいて、案文を簡単にされたといえばいい。

 午前11時シーボルト大使に会議場に呼ばれ、安全保障条約付属の交換公文案を手交さる。総理の演説案をダレス特使が知りたがっておること、および、内容のいかんによつて(対外向きか対内向きか)演説の時間(討論の終了の前にするか後にするか)をきめることになついていることを告げられた。

 午後2時松井くん(総理演説案を米代表部に持参した)から総理の演説は午後の会議で各国代表のステートメントがすんでからしてもらいたい(すなわち討議の前)ということに米代表部で決定した旨の通知があつて、あわてて英文と和文とを浄書しはじめる。同時に案文にたいするダレス特使の些少の加筆と最後に付加すべき1ページの英文((注)演説の末尾の「世界のどこにも将来の世代・・・」以下の部分)が松井くんによつてホテル事務室にもちこまれた。総理には無理ながらに、御承認を願つた。

(中略)

 (総理は)演説案をみたいといわれ、また、全権を集めて演説の趣旨を伝えたいと申された。全権は、総理の話の前に、午後6時参集されることになつていた。それをくりあげて星島、徳川、苫米地全権が参集され、その前で演説案を通読した。三人とも良くできているといわれ、苫米地全権から戦争にたいする遺憾の意をどこかに明らかにだしたがよかろうとのリマークがあつた。

 浄書中にインドネシア代表の今朝の議場における演説での質問3点にたいする「肯定の答」を演説のうちにいれてくれるようシーボルト大使から連絡があり、ズールヘレン氏が案文をもつてきてくれた。浄書は思うようすすまず6時は近づいてくる。

 どうしても夜のセッションにしてもらうようシーボルト大使に連絡しようと松井くんがあせり、わたくしも間に合わなければ切腹ものだと思いながら強いて平気をよそおつておるとき8時のセッションにされることにきまつたと米国側から電話がきた。ホツとして白州・麻生・松井諸兄ともども救われたようによろこんだ。(以下略)

 

(注3)総理はもともと英語で演説するつもりでいられた。それが日本語になったについては、つぎのような経緯がある。

 「備忘録」によると、5日夜、ホテルで入浴中、シーボルト大使から米国代表部のホテルにくるよう連絡があつた。急いでいつてみると大使は、オランダ・ヴェトナム・イタリア関係の用件を連絡すると同時に「総理の演説は日本語でされることがよろしいであろう。ディグニティのため―」とサゼストされるところがあつた。

 この趣旨を内密に白州顧問はじめ同僚諸君に伝えたところ、みな日本語で演説され島内くんが英語をよむのがディグニティのほかわが方の趣旨を議場に徹底さすためにもよかろうとの意見であつた。ただ問題はそれをどう総理に進言するかであつた。

 7日午後、松井秘書官が総理の演説案を米国代表部にみせ先方で総理演説のタイム―討論の前にするか後にするか―を決める資料に供した際、重ねて日本のディグニティのため日本語でするよう示唆をうけてきたのであつた。7日の備忘録は「・・・米代表部からディグニティのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白州顧問も総理にそうしたがよろしいと今朝手紙で申しあげたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ「そう白州くんにいいたまえ」とのことであつた。しかし、今度はすぐ了承されて、演説案をみたいといわれ、また全権を集めて演説の趣旨を伝えたいと申された。・・・・・・」と記入している。

(外務省条約局法規課「平和条約の締結に関する調書VII」外務省編『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書 第四冊(VII)』外務省、2002年、133-135頁)

 備忘録を参照したとのことで、西村の回想はこれまでに引用した回想の中でもっとも詳細である。ただ二つの注に今回の主題が分かれていて、かつ同時並行的に様々な作業が進んでおり少々煩雑なため、以下に時系列を整理したい。

 

<9月5日>

・夜、シーボルト大使より西村条約局長が日本語での演説提案を受ける。この連絡に対し白洲顧問以下関係者賛同。

<9月6日>

・夕方、西村が白洲顧問、小畑事務官他と意見交換し演説の大綱で意見一致。演説案作成作業開始。

<9月7日>

・午前2時 松井秘書官を通じて演説案の一部(四分の三)を吉田総理に提出。

・午前4時 演説案完成。英訳担当の小畑事務官に手交(朝、英訳完成)

・朝 白洲顧問、手紙で日本語での演説を吉田総理に提案(吉田は人を通じて拒否)

・午前7時半 西村局長、演説案の残部を吉田総理に提出し、確認を仰ぎ最終推敲。

・午前11時 西村局長、シーボルト大使より演説案の事前確認依頼を受ける。

・午後2時 演説案を米代表部に見せ修正案を松井秘書官が持ち帰る。この際、シーボルト大使から再度日本語での演説の提案を受ける。

・午後 西村局長、吉田総理に米代表部の修正内容について承認を得る。あわせて日本語での演説を打診したところ、了承される。

 

 西村は①についてシーボルトが決定的な役割を果たしたこと(しかもシーボルト自身の回想で触れられている7日以外にも働きかけがあったこと)、②7日の午後に吉田総理が了承したことを明らかにしている。また、シーボルト以外に白洲も日本語で演説を行うことを申し入れたが吉田が拒否したことに言及している。

 

(5)白洲次郎の回想(1975年)

 回想を時系列順に並べたとき、次に登場するのは再び白洲次郎となる。これは終戦30周年の頃、『週刊新潮』に掲載されたもので、この回想もしばしば日本語演説は白洲が提案したことで実現したという説の根拠として紹介されることがある。

 占領下の日本人を語るために、昭和二十六年の講和会議の舞台裏で起ったことにも触れておこう。ぼくはこの会議には、全権委員顧問の肩書で列席したのだが、会議が始まる二日前、サンフランシスコのさる邸宅に宿舎を定めた吉田さんから、マーク・ホプキンス・ホテルのぼくのところに電話がかかってきた。ぼくが電話に出ると、吉田さんは「わたしの演説原稿に目を通してくれましたか」という。まだ拝見していなかったぼくは、さっそく随行の役人を呼んで、その原稿を取り寄せた。

 ところが、ぼくは一読して、むらむらとくるのをどうすることもできなかった。その原稿は、日本の首席全権のものだというのに、なんと英語で書かれているのである。中身も、六年間にわたる占領について「感謝感激」と大げさな賛辞が述べられている一方、国民の悲願である沖縄返還については、一言も触れられていない。

 ぼくは思わず声高になった。

 「これはダメだ。全面的に書き直せ」

 が、この外務省の役人は「これは、GHQ外交部のシーボルト氏と相談して書いたものですから、こちらの意思だけで簡単に書き直すわけにはいきません」という。いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。ぼくは、外務省の役人の体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれ返るばかりだった。

 幸い、演説原稿は二日間で全面的に書き改め、またこの恥ずかしいエピソードも外部に漏れなかったからいいようなものの、うっかりすれば、えらいことになっていたのである。

白洲次郎「『占領秘話』を知り過ぎた男の回想」『週刊新潮』1975年8月21日号。引用は記事を再掲載した『KAWADE夢ムック文藝別冊 白洲次郎 日本で一番カッコイイ男』、河出書房新社、2002年、50-51頁に寄った)

 こちらは占領下の日本人の卑屈さを嘆じる中でエピソードとして触れられているもので、多少ストーリーの肉付きはよくなっているが、1966年の回想と内容に変化はない。①は白洲自身、②は9月5日に白洲が演説を確認した時である。

 

(6)西村熊雄の回想(1979年)

 たすき掛けのように、次の回想は再度西村熊雄のものとなる。1979年5月に外交官のOB団体である霞関会の会報『霞関会会報』に掲載されたもので、これは先ほどの1970年の西村の回想と違い、同時代的に公表されている。

  それから、総理はどうして日本語でやられることになったかの話。総理は英語でやられるつもりであられた。五日の夜、他用で訪れていった条約局長にシーボルト大使は「総理は日本語でやられる方がいいんじゃないか、日本のディグニティのために」との話があり、同僚―松井秘書官など―に話すとみな同感だった。なかなか申し上げにくいところだったがめいめい思いきって申しあげた。「講和会議だから日本全権は日本語でやって国威をたもつのがいいと思う」と申しあげた。白洲顧問も賛成で、その趣旨を手紙にかいて総理の室のドアの下から入れておかれた―総理はホテルでなく市内のスコット邸に起居しておられた―という話を聞いている。真偽は白洲さんに伺わなくちゃ解らん。総理は結局「日本語でやろう」といって下さった。

(西村熊雄「サンフランシスコ平和条約について」『霞関会会報』1979年5月号。引用は記事を再掲載した西村熊雄『サンフランシスコ平和条約日米安保条約』中公文庫、1999年、235頁に寄った)

 この証言では、①はシーボルトと変わらない。だが、②最終決断の時期は1970年の回想より曖昧なものとなっている。(ただし、発端は9月5日とされている)。

 以上、4名(補足的な説明の福永を含め5名)、6つの回想を引用した。各回想は、①日本語演説への変更に誰が最も影響を与えたのかについて、吉田・福永がアチソン国務長官説を、シーボルトと西村(1970・1979年)がシーボルト説を、白洲(1966・1975年)が白洲説をとっている。また西村が二つの証言で、白洲が日本語演説提案をしていたこと、かつ1970年の回想ではそれが退けられた、という説明をしている点も興味深い点である。

 次に②の判断のタイミングについては、吉田・福永と西村(1979年)では曖昧にされているが、白洲(1966・1975年)が9月5日説を、シーボルト、西村(1970年)が演説直前の9月7日説をとっている。

 このように確認すると、事務レベルで講和会議に参加したシーボルトと西村(特に1970年)の回想に共通項が多いことが見て取れる。吉田・福永は①でアチソン国務長官説をとるが、アメリカ側が促したという点ではシーボルト及び西村の回想と共通性を見いだすことも可能である。そして白洲の回想はその他の回想から浮き上がっている。

 

3.回想の信憑性の評価

 受諾演説に関する6つの回想は、その内容に大なり小なり齟齬があることが判明した。これらの回想は、どの回想がより信憑性があると考えるべきであろうか。その制作過程や内容、作業への関わりなどを踏まえて、各回想の史料的な信憑性について検討してみたい。

 まず、一連の回想を当事者性という観点から検討すると、講和会議の実務を担ったシーボルトと西村(特に1970年の回想)が最も信頼しうると考えられる。さらに、その典拠という点でもシーボルトと西村(1970年)に軍配が上がる。他がいわゆる回想であるのに対して、前者はその緒言において、自らの日記を基礎として回想録を執筆したとあり、西村は先述のとおり会議中作成していた備忘録を参照した旨を記載しているからである。つまり、①日本語演説の実現に最も影響を与えたのはシーボルトであり、②その変更は7日になされたと考えるのがより妥当と思われる。

 そして両者の回想によれば、日本語演説が採用された最大の理由は吉田自身の英語力への懸念にあったと想像される。これを明言するシーボルトの回想に比べて、西村の回想は曖昧な書き方となっているが、西村(1970年)の「ディグニティのほかわが方の趣旨を議場に徹底さすためにもよかろう」という記述や、西村(1979年)の「なかなか申し上げにくいところだったがめいめい思いきって申しあげた」という奥歯にものの挟まったような言葉と照らすと、これを裏書きしていると推察してもよかろう。

 もちろん、両者の回想には若干の相違点も存在する。シーボルトは吉田に直接ホテルで懸念を伝えたと述べているが、西村の回想に該当する記述はない。また「平和条約の締結に関する調書」の本文や、日本側の外交文書集である『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効』を参照しても、吉田・シーボルト接触しうるホテルでの日米会談やパーティーの機会は9月7日の吉田の日程の中に見受けられない。会議中吉田が起居していたのはスコット邸という私邸であったことも、シーボルトの回想の誤りを示唆する。恐らく、この点は回想録執筆の時点で西村と錯覚するなど、何らかの記憶違いがあったと思われる。

 日記を含むシーボルトの関係文書は米国海軍大学校で公開されているようだが、あいにく本エントリー作成に際して確認はできなかった*3。調書の記述の根拠である西村の備忘録も原本自体の所在が不明のため、その内容を確認できないという問題が残る。ただナイーブな推測ではあるが、西村(1970年)の回想が外務省内の執務参考用に作られた文書であることを考慮すると、あえて嘘を書いたとも考えがたいとは言えるだろう。

 シーボルトと西村の回想と比べた場合、吉田・福永の回想の評価はどうなるだろうか。まず後日の回想ということに加えて、吉田自身が記憶違いの可能性などを認めている点も弱点となる。また福永は国会議員のオブザーバーであり、演説案作成の作業の最前線にいたわけではない点にも留意すべきであろう(上記引用では省略したが、続く日本語原稿の作成作業に関する回想も西村のものと大きく齟齬がある)。

 彼らがアチソン説を取っているのは、恐らく両者、またはいずれかがアチソンと記憶違いをしたのではないだろうか。また、仮に吉田がそう記憶して回想していたならば、補足を書く福永はその立場上、それを訂正しうる状況にはなかったであろうと推測されよう。

 

 次に、白洲の回想である。西村の回想にもしばしば登場していることから窺えるように、講和会議全権団顧問だった白洲は、福永に比べれば西村ら実務的な動きにも関与していた。しかし白洲の回想は既に論点として取り上げた①日本語演説の主唱者かという点、②どのタイミングで修正が俎上にのぼったか以外にも、疑問を抱かしめる部分がある。

 具体的には、1966年の回想に登場する「小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、全部日本語で書いてもらった」「それに書いたのは、沖縄かえせということ」といった記述である。

 この「小畑さん」は全権団随員で、当時、達意の英文を書くということで吉田に篤く信頼されていた外務事務官・小畑薫良(当時の所属は大臣秘書官室兼官房文書課)を指す。しかし、小畑は原稿の英文翻訳こそ一任されていたものの、演説原稿の内容自体については作成権限を有する立場になかった。このような役割分担は、西村(1970年)の原稿案作成の様子を見ても、「平和条約の締結に関する調書」の他の小畑の登場箇所を見てもこれは理解できる。白洲の言うとおり、「日本語で書いてもら」う(書かせる)べき相手は他でなければおかしいのである。演説作成作業の中心にいなかった白洲がそれがどのように作られたか、把握していなかった様子が察せられる。

 また、「それに書いたのは、沖縄かえせということ」という回想も疑問符が付く。西村(1970年)によれば、演説草稿の作成作業は講和会議の約一ヶ月前の8月9日に始まり、8月末まで続いている*4。そして、8月9日に作成した演説の骨組みの時点で、西村は将来のための国民感情の披瀝として、千島と信託統治地域(奄美・沖縄等)を記載していた*5。これは同調書の付録として採録されている複数の演説草稿でも確認できる。例えば最終版に最も近い8月30日作成の原稿案には、次のようにある。

4.しかしながら、いかなる平和条約といえども、日本が完敗した国である事実を解消するものではない。自然、そのうちには、日本国民にとって苦痛であり、あるいは、次の世代の日本人に対して「すまぬ」と感ずる点がある。それらのうち1、2の事項にについて、ここに、日本国民の感情を連合国代表の前に、述べることは、同胞に対する私の責務である。

 その1は、領土の処分の問題である。

 日本は、この平和条約によって、領土の四割五分を喪失する。明治以来新たに日本の領域となつた諸地域は、割譲とか、合邦とか、交換とか、いすれもその当時正当な方法で取得され万邦によつて承認されたものである。いずれも、決して「奪取」したものでもなく、「盗取」したものでもなく、「略取」したものでもない。ある民族を「奴隷状態」においたこともない。これは、日本の歴史のために、明かにしておかなければならない。

 父祖伝来の国土に対する愛着は、いずれの民族にもひとしく存じ、利害の打算をこえたものである。(中略)

 奄美大島のその他の南西諸島については、その住民が現在この瞬間においても心底から祖国と一緒にありたいと叫んでいる事実をかくすことはできない。私は、この心からの叫びが、平和条約の実施に当つて、必ず好意的に考慮されることを希望し、確信いたすものである。(後略)

(前掲「平和条約の締結に関する調書VII」、229-230頁)

 一方、実際に9月7日に講話会議席上でなされた演説の関連箇所は下記のとおりである。

 この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。

 第一、領土の処分の問題であります。奄美大島琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

(前掲「平和条約の締結に関する調書VII」、118頁)

 並べるとその表現がより直裁なものとなっている。とはいえ、その趣旨自体は草案の自体でも存在しているし、少なくとも白洲が回想したように、沖縄返還に関する記述がないという状態とは乖離があることは窺えよう。

 1966年の白洲回想の前年の1965年8月には、佐藤栄作が日本の総理大臣として初めて米国施政権下の沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとつて『戦後』が終っていない」と述べて、沖縄問題への関心が本土でも高まっていた時期であった。後に白洲は当時創刊間もない『諸君!』の1969年9月号に掲載されたエッセイ「プリンシプルのない日本」でも、沖縄返還交渉に努力する佐藤政権を支持する姿勢を見せ、沖縄住民の苦難に対して同情を寄せている*6。白洲はサンフランシスコで演説原稿に意見を述べる立場にあったのは事実であるので、最終原稿のような表現に落ち着くまで、沖縄関係の記述に何か意見を出した可能性は考えられる。その記憶が誇張されたのかもしれないし、はたまた、1960年代半ばの沖縄に対する同時代的関心が、白洲の回想に反映された(事実と異なった回想に至った)可能性もありうるかもしれない。

 

4.1951年の白洲談話の解釈

 ここまで、日本語演説は誰の影響によって、どのような形で実現されたのか、誰の回想が信じられるのかを検討し、白洲の回想は極めて問題があることを確認してきた。

 以上の作業から、白洲は調子のよいホラ吹きだったと結論することも可能である。しかし、確かに白洲は何もしなかったわけではなかった。既に触れたが、西村の回想ではシーボルトが決定的な役割を果たしたことに言及しつつ、白洲もまた日本語での演説を吉田に提案していたことに触れている。これをどう解釈すべきだろうか。

 実は白洲は既に言及した二つの回想の他にも、講話会議に関する談話を残している。1951年9月末の『週刊朝日』に掲載された「講和会議に随行して」という会議直後の談話である。関係部分を以下に引用しよう。

総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはつきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。

白洲次郎「講和会議に随行して」『週刊朝日』1951年9月30日号、引用は白洲次郎『プリンシプルのない日本』ワイアンドエフ、2001年、36頁に再掲載されたものに寄った)

 自らがそれを実現させたと言ってはばからない1966年、1975年の回想に比べて、1951年の談話は日本語演説となった経緯を明らかにしていない。白洲は当時から吉田側近であることを内外に知られており、同時代であっても省庁などに対する歯に衣着せぬ発言を様々な雑誌に残している。そんな白洲が官僚の無為無策を糺した自らの功績をあえてぼかしたであろうか。

 白洲の代表的伝記である『風の男 白洲次郎』を執筆した青柳恵介は、受諾演説に関するくだりの中で1966年の回想を引いて白洲主唱説を述べた上でこの1951年の談話を引用し、「『なぜ日本語で演説したかという理由』云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう」と推測している*7。しかし先ほど述べたような白洲の個性を考えると、必ずしもこのような推測は説得的ではないように思われる。

 またその他の理由として、占領下のプレスコードに抵触する可能性を考慮したという推理もあり得るかもしれない。しかし、白洲自身の行為をそういったもの(米国批判)に抵触せず行うことも可能であったと考えられる以上、これもまた可能性が高いとは思われないだろう。

 だが、他の回想と並べて1951年の白洲談話を読むとき、この日本語演説実現の経過を明らかにしない談話は、西村(1970年)の証言を裏付けるものと考えることもできるように思われる。

 再度の引用となるが、西村は9月7日、日本語での演説をシーボルトから要請された事に関して、「米代表部からディグニティのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白州顧問も総理にそうしたがよろしいと今朝手紙で申しあげたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ『そう白州くんにいいたまえ』とのことであつた」と、白洲が日本語での演説を提案したにも関わらず、吉田がそれを一蹴したことに言及している。

 しかし白洲の提案を拒絶した吉田は、その後にシーボルトからの要請という説明を受けると、前言を翻して日本語で演説を行うことを了承した。つまり白洲にとっては、一度拒絶された日本語での演説が、結局実際のものとなったという状況であった。白洲からすれば、「こまかいことは知らないが」と、いささか他人事のような発言をせざるを得ない心情だったのではないだろうか。

 つまり、講和会議直後の時点で白洲は、日本語での受諾演説について、自分が実現に貢献していないことを理解していたのではないだろうか。それが後年なぜ己の役割の誇張に至ったのか。先ほどの自分が沖縄返還要求を書き込ませた、という回想と共に、その理由は検証しがたい。とはいえ、この回想は「オトボケ」というより、純粋にその後の回想と矛盾を生じていると考える方が自然ではないだろうか。

 

5.むすび、そして西村熊雄のジェラシー?

 白洲次郎という人物の評価の変転は激しい。白洲は当時から吉田側近で、英国仕込みの優れた英語使いであるという評判の一方、吉田の「宮廷政治」の一員として専横を極めていると悪評もまた多くあげられる存在であった。そして吉田の退陣と共に政界周辺から退くと、白洲をめぐる論評は姿を消した。

 しかし没後、白洲次郎は突如ダンディズムの化身として平成日本に復活する。その過程を振りかえるに、前述の青柳恵介による伝記『風の男 白洲次郎』の役割は軽視すべきでないであろう。

 そもそも同書は1987年、2年前に没した白洲次郎という特異な人物を懐かしむ知人たちが発起人となり、妻白洲正子によって選ばれた青柳を著者として没後5年の1990年に私家本で刊行された伝記だった。青柳の専門は国文学であり、生前の白洲との接触はさほどなく、かつ戦後史のことは十分知らないと自覚するほどだった。しかし白洲夫妻の魅力を伝えたいという気持ちを青柳自身も抱いていたことから、発起人らの支援を受けつつ伝記の執筆を引き受けたという。果たして同書は好評を博し、1997年には商業出版で刊行されることとなった。『風の男 白洲次郎』は2024年の今も文庫版として版を重ねている*8

 『風の男 白洲次郎』を開くと、実に魅力的な白洲という人物が立ち上がってくる。金持ちの家の生まれで長身の美男子、英語に堪能なイギリス仕込みの紳士で、おしゃれでシャイ、様々な趣味を持って自分なりのプリンシプルを曲げず、男らしく占領軍にも物怖じせず、政財界から文士まで広く尊敬される男。しかしその魅力的な人物を描く中で、青柳は白洲の回想や周囲の語るエピソード等を無批判に作中に取り込んだ。今回取り上げた日本語での受諾演説のくだりもまたそうである。

 にもかかわらず、いやだからこそ、青柳の作り上げた「風の男」は日本人の心を捉えた。1990年代後半より、白洲次郎を扱う雑誌特集やムック本が刊行され、白洲を中心人物に据えた映画、ドラマ、劇が次々と生み出された。そして2024年にはNHKのドキュメンタリー『映像の世紀 バタフライエフェクト』も青柳の白洲次郎像を無批判に採用するに至ったというわけである。まさしくバタフライエフェクトがここに起きたという他ない*9

 しかし、この日本語演説にまつわる回想を考えても、青柳の作り上げた白洲次郎は必ずしも適当な形で像を結んでいないように思われる。「戦後政治史の中の白洲次郎」という、白洲の人間的魅力を伝えながらも、同時に白洲を歴史上に適切に位置付けた研究がなされることを今後期待したいところである。

 

 さて、終わりに今回の作業を通じて気づいた事に少々触れておきたい。『週刊新潮』という比較的よく読まれる媒体に白洲の回想「『占領秘話』を知り過ぎた男の回想」が掲載されてから4年後、西村が1979年に書いた「サンフランシスコ平和条約について」を読むとそれ以前の回想に比べ、若干のニュアンスを感じなくもないことに気づかされる。1979年の次の箇所を再度引用したい。

(日本語での演説は)白洲顧問も賛成で、その趣旨を手紙にかいて総理の室のドアの下から入れておかれた―総理はホテルでなく市内のスコット邸に起居しておられた―という話を聞いている。真偽は白洲さんに伺わなくちゃ解らん。

 西村は1970年の「平和条約の締結に関する調書VII」では、白洲が吉田に日本語演説の提案を手紙で行ったことを事実として書いていた。しかし1975年の白洲の回想を間に挟むこの回想では、そういった提案を白洲が本当に吉田にしたのか、真偽は白洲にしかわからないと冷めた様子で書いているようにも読むのは穿ち過ぎだろうか。

 西村熊雄という人物は外務省における吉田の股肱の臣であった。条約局長としてアメリカとの講和交渉、講和会議への出席とその後の平和条約、安保条約の国会審議を手がけ、講和が成立するとフランス大使に任命された西村を当時の報道ではいずれも「吉田人事」「吉田系」とラベリングしている。またフランス大使時代には、外遊でパリを訪れた、退陣間際の吉田を感激の涙で迎えたというゴシップもある*10。講和交渉の中で、今見ると理不尽と感じられるほど吉田の叱責を浴びせられていたにも関わらず、西村が吉田に対して抱く敬愛の情は「平和条約の締結に関する調書」やそれ以外に公刊された著作の随所から感じられる。

 その西村は、かつて吉田第一の側近と評され、当時の外務省を含む官僚機構の対応を悪し様に罵り、講和交渉さえも後年自らの功績のように豪語した白洲にいかなる感情を抱いていたのであろうか。「真偽は白洲さんに伺わなくちゃ解らん」という言葉に、私は好奇心を抱かずにおれない。西村は翌1980年11月12日に没し、白洲次郎は1985年11月28日に没した。今や真意は知るよしもない。

*1:https://x.com/komiya_aoyama/status/1860627627389956299

*2:会議当時の福永の様子については、外務省条約局法規課「平和条約の締結に関する調書VII」外務省編『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書 第四冊(VII)』外務省、2002年、169頁を参照。

*3:https://www.usna.edu/Library/sca/man-findingaids/view.php?f=MS_207

*4:前掲「平和条約の締結に関する調書VII」、39-47頁。

*5:前掲「平和条約の締結に関する調書VII」、39-40頁。

*6: 白洲次郎「プリンシプルのない日本」『プリンシプルのない日本』ワイアンドエフ、2001年、215-217頁。なおこのエッセイ中でも1966年のラインをなぞった回想が触れられている。

*7:青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社、1997年、178頁。

*8:「あとがき」青柳恵介『風の男 白洲次郎』232-234頁、白洲正子「いまなぜ『白洲次郎』なのか」『『KAWADE夢ムック文藝別冊 白洲次郎 日本で一番カッコイイ男』、河出書房新社、2002年、98-99頁。

*9:なお、『映像の世紀 バタフライエフェクト』に関して言えば、史料のチェリーピッキングが多くあることも無視できない。前述のアチソン説をとる吉田や福永の『回想十年』の発言を適宜引用しながら、白洲をメインに描きたいがために白洲説を公然と採用するような手法は、30年前の「映像の世紀」を繰り返し見た世代としては甚だ残念と感じざるを得なかった。

*10:田村住夫「老朽に悩む若手外交官」『人物往来』1956年1月号、76頁。