「維新の会」について関西以外の友人や研究仲間からよく聞かれるのが、「どうして人気なのか」「本当にそんなにすごいのか」ということである。本書の著者も言っているように、関西以外で維新の会への関心は高くない。それでも国政選挙が近くなったり大阪発の全国ニュースが増えたりすると(最近だと万博の費用や会場の問題)、維新の会のことが頭をよぎるのであろう。そこで先の問いが投げかけられるわけである。
「どうして人気なのか」とは、要するに「誰がなぜ支持しているのか」ということである。そこで、「支持者は若年層や高所得層に限られないらしい」とか「自民党の支持層と大して変わらないそうだ」とか、「 "大阪の代表" として支持されている面はあるようだが」などと、政治学や社会学の実証研究を思い浮かべながら答えることになる。
それに対していつも困るのが、「本当にそんなにすごいのか」への返答である。敵を仕立てて派手に戦って見せたり、「大阪都構想」「万博」「IR」とぶち上げたりしているが、「結局どれほど大阪は変わったのか」という問いである。これに答えるために参照しうる政策研究や財政学の実証研究が、意外にもというべきか、これまで乏しかったのである。
前置きが長くなったが、本書の登場によって評者はこの悩みから解放されることになる。「本当にそんなにすごいのか」という問いに、本書は財政学を武器にして見事に答えてくれる。しかも「どうして人気なのか」に結びつけて説明してくれる。
維新の会は、「行政のムダ」を強調するなど「小さな政府」志向の新自由主義の政党とみられることがある。しかし実際には、維新の会以前も以後も、大阪市の財政規模は「小さ」くなく、むしろ「大きな政府」だという。たしかに維新の会が最近強調する「私立高校の無償化」は「小さな政府」に逆行する。
要するに、維新の会は「大きな政府」の内実を変えたのである。「既得権益」層とみなされた公務員は、「身を切る改革」によって著しく人員が減らされた。「身の丈にあった財政運営」という均衡財政主義によって、新たな借金は抑えられ返済が進められた。他方で、小中学校の教育費の支出水準は上昇した。都心部のインフラ整備への支出も増えたという。
こうしたことが「財政ポピュリズム」というキーワードで読み解かれる。「既存の配分を取り上げ、頭割りに配り直すことで人びとの支持を調達する」ものであるが、そこでこれまでの配分を奪われるのは公務員に限られない。特別支援学校の運営費や社会保障支出など、弱者や少数者のための費用が削られ、その分がマジョリティに歓迎される政策へと回されるのである。
このような「財政ポピュリズム」が「財政の本質的な否定」であるとの指摘は非常に重たい。本来、財政は個人でどうにもできないものを共同の税の負担で賄うものである。それを、マジョリティの個人が利益を実感できるものへと解体することは、たしかに「コスパ」重視の時代にウケる面があるのだろう。維新の会はそこに的確に照準したのである。しかし「回りまわって全体の利益につながってきた」ものが解体されるのであり、本書はそこに警鐘を鳴らし、再建の途を探っている。
「財政ポピュリズムは、必ずしも維新の会の専売特許ではない」とも指摘される。政治や行政への不信が導く財政ポピュリズムは、私たちの社会をどこへ連れて行くのだろうか。こうなると問題は維新の会にとどまらない。
本書はだから維新の会に関心をもつ読者だけでなく、むしろ他人事だと思っている(関西以外の)読者にこそ届いてほしい。維新の会を理解する格好の入門書であると同時に、維新の会の財政学を手がかりにした現代政治論であり現代社会論でもある。