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映画「戦場のメリークリスマス」製作秘話

1. 東映の高杉修部長から大島渚監督が弁護士を探しているという電話があったのは1981年10月のことだった。その当時私は34歳で、7年間勤めたローガン・岡本・高島法律事務所を辞めて1981年3月から桝田江尻法律事務所で働き始めたところだった。東映はローガン・岡本・高島法律事務所のクライアントで、私はいくつかの案件をアソシエイトとして手伝ったことがあった。ローガン・岡本・高島法律事務所は東京裁判でA級戦犯の弁護をした米国人のローガン氏が創立した事務所で、多くの外国のクライアントを持っていた。映画関係では20世紀フォックスやワーナー・ブラザースがクライアントだった。

  高杉さんは私が桝田江尻法律事務所に移ってからも、仕事を依頼してくれたが、その経緯はよく覚えていない。私がローガン・岡本・高島法律事務所から持って出ることを許可されたクライアントは数社でその中には東映は入っていなかった。多分小さな仕事は私の方が頼みやすいと高杉さんが考えたのかもしれない。大島渚監督の話も、大きな法律事務所の有名弁護士に頼むより若手弁護士の方が使いやすいと考えたのだろう。

2. 「戦場のメリークリスマス」という映画の件で大島プロダクションの事務局長という肩書の大島瑛子さんと会ったのは1981年10月30日だった。その当時桝田江尻法律事務所は虎ノ門三井ビルの8階にあったので、事務所の見晴らしのいい小さい会議室で会ったのだと思う。瑛子さんはテンションの高いところが兄の大島渚監督に似ていて、落ち着きがなかった。クライアントとしては敬遠したくなるタイプだが、私とは波長があったようだ。その時の話は、まだ具体的な仕事は始められないが、動き出したらお願いするということだった。瑛子さんによれば、エグゼキュティブ・プロデューサーが海外で資金集めをしていて、製作資金が集まればすぐにでも契約書を作りたい。キャストについては、デビッド・ボウイを主役に考えていて、国際的な合作映画になるということだった。この主役については、最初はロバート・レッドフォードで考えていたが、瑛子さんが実際にレッドフォードに会ってみると、落ち着いてしまっていて、危険なところがなく、この役には合わないと感じたとのこと。

  私はその時までに、何件か映画の仕事はしたことはあったが、主として配給契約に関わる仕事で、映画製作契約は見たことがなかった。更に合作になると、何が問題になるかもわからなかった。個人が主体となって動いているプロジェクトは、得てして頓挫するもので、大島監督の件も実現の可能性は薄いのではないかと思っていた。

3. 次に連絡があったのは、半年以上経過した1982年6月17日のことで、エグゼキュティブ・プロデューサーのテリー・グリンウッドが来日するので会議に参加して欲しいとのことだった。同時に大島プロダクションから分厚い書類の束が届いた。書類は製作資金と配給収入の分配に関するものが多く、複雑だった。その中にニュージーランドのブロードバンクから投資家に宛てたFilm Production Proposalというものがあり、わかりやすかった。それによると、Merry Christmas, Mr. Lawrenceという映画に対する投資はニュージーランドにおける最高のフィルムプロジェクトのひとつで、脚本、プロデューサー、ディレクター、配給およびキャストはいずれもレベルが高いとのこと。映画はニュージーランドおよびクックアイランドで撮影され、デビッド・ボウイは日本軍の捕虜になるニュージーランドの兵士に扮する。プロデューサーは、テリー・グリンウッド、ジェフリー・ネザーコットおよびジェレミー・トーマスで世界的に有名な大島渚が監督する。映画は完成後テリー・グリンウッドのグリンウッドフィルムズリミテッドに売却され、投資家は配給収入の分配が受けられることになる。

  ブロードバンクはニュージーランドの投資銀行で、一般投資家から映画に対する投資を受け付けてそれを映画製作の資金にする。「戦場のメリークリスマス」はニュージーランドと日本の合作になり、それぞれ50パーセントずつの資金を提供する。ニュージーランドの投資銀行が合作の相手方になったのは、ニュージーランドにおける税制が映画製作に有利だからとのこと。ブロードバンクの文書にもあるように、撮影がニュージーランドの国内またはニュージーランド領で行われることが条件で、原作の舞台はジャワであるが、収容所などの撮影は南太平洋のニュージーランド自治領クック諸島のラロトンガ島で行われた。

4. もらった書類の束の中に一つだけ日本語のものがあった。それは、ヘラルド映画のロンドン駐在員だった吉崎道代さんが書いたもので、その中に次の文章があった。

  「ニュージーランド側がUS$300万出すために、ペーパートリックとして日本側もUS$300万出すという形を取るためにちょっと込み入った内容の契約となるわけです。」

  この映画の総製作予算は600万ドルだったが、その内実際に現金が出て行くのは、ニュージーランド側300万ドル、日本側200万ドルで100万ドル足りない。日本側からの出資を300万ドルにするために考えられたのが大島監督らに支払う報酬、脚本代等を支払いと同時に映画製作資金の投資に振り替えるというもので、合わせて100万ドルを捻出している。600万ドルの製作資金はニュージーランドのジョイントベンチャー(日本で言えば組合)であるMr. Lawrence Productions Limited(MLP)に集められる。日本からの送金は直接ではなく、タックスヘイブン(租税回避地)として知られるジャージーの会社を通して行われる。この仕組をみてわかることは、国際的な映画製作で大事なのはいかにして租税を回避し集めた資金を最大限有効に活用してリターンを大きくするかということなのだ。国際合作のスキームを作るには税務と金融に詳しい弁護士が必要で、本件ではニュージーランドのブロードバンクの弁護士とプロデューサーであるジェレミー・トーマスのロンドンの弁護士が時間をかけて複雑なスキームを作り上げていたようである。

5. その当時日本の映画界はこのような複雑な映画製作に関与したことはなく、私の知る限り、今日に至るまで「戦場のメリークリスマス」に比肩できる本格的な国際合作は日本では行われたことはない。私は、映画の弁護士ではなかったし、金融や税務にも疎かったが、送られてきた書類だけを教材としたにわか勉強で会議に臨まざるを得なかった。会議は6月19日(土)の朝10時から新橋駅前ビル1号館3階の日本ヘラルド映画の会議室で行われた。会議には、テリー・グリンウッドとジェレミー・トーマス、大島渚監督、ヘラルドエースの原正人社長、その他大島瑛子さんや大島プロの臼井さんなども参加していたと思う。ジェレミー・トーマスは大島監督が見出したプロデューサーで、私よりも2歳若かった。後に彼は「ラストエンペラー」のプロデューサーになり、一流のプロデューサーの仲間入りをした。原正人さんは、この映画のエグゼキュティブ・プロデューサーで、ヘラルドグループを代表して日本サイドの資金集め、銀行との交渉などにあたっていた。原さんとは後に黒澤明監督の「乱」で一緒に仕事をすることになる。

6. 私の手元には「お忙しいところ無理なスケジュールのお願いで申し訳ございません。よろしくお願いいたします。」と書かれた原さんの名刺がある。何かの書類と一緒に送られてきたものだろう。大島プロダクションから送られてきた書類の中に入っていたのかも知れない。確かに無理なスケジュールで、この時既に撮影スタッフはラロトンガ島に入って準備を始めており、後で知ることになったが、撮影開始の期限も決められていた。ニュージーランドやロンドンの弁護士は書類作りを進めており、日本の弁護士も早く参加させてもらえればよかったのに、と思った。

  元来日本の映画界には弁護士を使って契約を作るという習慣がなく、本件も弁護士なしでやれると思っていたのかも知れない。確かに国内の当事者だけであれば「善意をもって協議する」などと書いておけば話し合いで何とかなる。そもそも契約書など無しに進められている映画製作は今日でも多いのではないかと思う。しかし、外国からの投資によって映画製作を行おうとする場合には、こうはいかない。例えば、大島プロダクション(正式には株式会社大島渚プロダクション)が一方当事者である契約を作成する場合、外国の相手方は日本の弁護士の意見書(オピニオンレター)を要求する。意見書の内容としては、株式会社大島渚プロダクションは日本法上有効に存続する法人で契約上要求される行為をする能力があり、その代表者である大島渚は株式会社大島渚プロダクションを拘束する契約を締結する権限を有するなどというものである。国内の取引であれば登記簿謄本などを提出すれば解決する問題であるが、外国人には通用しない。もちろん意見書を書くだけが弁護士の仕事ではなく、私には山程の仕事が待っていた。

7. 映画製作に必要な二つの柱は金と権利である。金については上記のように日本側とニュージーランド側から合計600万ドルが投資されることになっていたが、その内容は複雑だった。日本側の300万ドル(実際は200万ドル)は、1ドル225円で計算していたので、4億5千万円に相当した。「戦場のメリークリスマス」は、テレビ朝日(全国朝日放送株式会社)がテレビ放映し、松竹が劇場上映することになっていたので、大島プロダクションを含む3社が日本側の投資家となる。この3社間の契約が必要であった。権利についてみると、大島監督は以前原作者であるサー・ローレンス・ヴァン・デル・ポストとの間に原作(The Seed and The Sower)の映画化に関する契約を締結していた。この契約を修正する必要があった。この原作に基づき大島監督が脚本を書き、ポール・マイヤスバーグがそれに手を加えていたが、その著作権を大島プロダクションに譲渡し、大島プロダクションからMLPに対して著作権に基づくライセンスをする必要があった。日本サイドが関係する仕事に限っても多くの問題が残っていた。

8. この映画の製作は、安全で確実な投資を保証するための仕組みを考えていた。そのひとつは完成保証会社の利用で、完成保証とは、完成保証会社が資金提供者に対し、製作者及び完成保証会社が予め承認したスケジュール、予算および脚本などの具体的条件に従った映像コンテンツの完成および引渡しを保証する仕組みであると言われている。本件ではFilm Finances Limitedが完成保証会社になり、予算オーバーの場合にはその分を補填し、映画完成のために必要であれば監督さえも交代できるという権限を有していた。保証料は映画製作予算の6%であった。もうひとつの仕組みが、信託会社の利用で、The National Film Trustee Company Limited (NFTC) が選任された。NFTCの役割は売掛金の回収と配当の支払いだった。すなわち、映画が完成した後テリー・グリンウッドの会社が全世界に販売する。その代金債権をグリンウッドフィルムズリミテッドはNFTCに信託譲渡し、NFTCがすべての権限を持って回収にあたる。回収された売上金は、そこから費用を控除した後、投資家や配当にあずかる他の映画製作関係者(監督、プロデューサー、スター等)に分配される。NFTCは英国政府が出資している会社だとのことで、このような第三者が介在することで投資家のリスクが減少する。映画製作契約では、製作会社の純利益(Producer’s Net Receipts)に対するパーセンテージを配分することがあるが、実際には製作会社が費用を水増しして利益が生じないようにすることが多いと言う。NFTCは監査もするので、そのような心配もなくなるのかも知れない。

9. 6月19、20日とテリー・グリンウッドやジェレミー・トーマスを交えての会議を行い、その後私がロンドンに行くまでの2週間余り連日のように会議があった。大島監督は会議の席でも酒臭いことが多く、苦しそうに会議室のテーブルに突っ伏している姿を思い出す。私の事務所で会議をした時、立派な彫り物のある高そうな傘が傘立てに忘れられていたが、大島監督のものだった。後で大島プロの人が取りに来た。

  私は、日本サイドでは主に大島瑛子さんや原さんと話をし、外国とはテレックスや電話で交信していたが、たくさんの契約を締結することが必要であったため、関係弁護士がロンドンに集まって一気に契約書を作ることになった。ロンドンにはジェレミー・トーマスの弁護士であるサイモン・オルスワングがいて、そこに私とニュージーランドのポール・キャランが参加することになった。私は、大島監督と原さんからそれぞれ委任状をもらって、彼らに代わってサインができるようにした。ところが、私がロンドンに出発する直前にオルスワングからキャランへのテレックスの写しが届いた。キャランがロンドンに来られないという通知を受けたオルスワングが抗議をしているというものだった。オルスワングのテレックスによると、キャランが来られない理由はブロードバンクからの委任状が入手できないということのようだった。オルスワングは、それでもキャランにロンドンに来るように強い調子で要請し、キャランが来られなければ製作を延期せざるを得ないと言った。オルスワングによれば、撮影の開始は8月20日より遅くすることはできないとのことで、それは、日本の主要な俳優の一人が9月16日までしか使えないからだとのこと。日本からの投資の一部はこの俳優が出演することを条件にしているとのことだった。このような事情について私は全く知らなかった。結局この問題はキャランが予定どおり来ることになって解消された。

10.私は7月7日午後10時30分成田発のJAL423便でロンドンに向かった。この頃はまだロンドン直行便はなかったようで、アンカレッジ経由だった。ロンドンのヒースロー空港では吉崎さんが迎えに来てくれていて、オルスワングが予約してくれたホテル(The Churchill)に連れて行ってくれた。それから10日間このホテルからオルスワングの事務所に毎日通うことになった。

  少し遅れてポール・キャランも来て同じホテルに泊まることになった。キャランの事務所は弁護士数200人以上のニュージーランド有数の法律事務所で、彼は私より若かったが映画の契約の専門家だった。キャランと私はホテルのカフェテリアで待ち合わせて朝食を食べ、静かな住宅街の瀟洒な邸宅風の建物の中にあるオルスワングの事務所に通った。サイモン・オルスワングは頭髪の薄い細身の中年男で、数人の若い弁護士を使っていた。当時の記録を見ると朝9時から夜9時位まで仕事をしていたようだが、契約書の数が多くいつまでたっても終わらなかった。最終的には41種類の契約書ができた。映画専門の弁護士であるオルスワングにとってもこの件は予想外に手こずったようだ。私も最初は5,6日で帰れると思っていたのがどんどん予定を延ばさなければならなくなった。そんな状況であったにもかかわらず、突然オルスワングが、「自分は明日からエーゲ海のクルーズに行く、ヨットには電話がないので連絡は取れない」と言い残して消えてしまった。それでも、若手の優秀な弁護士がいたので、さしたる支障は生じなかった。

11.第7項に大島監督が以前原作者サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポストと原作の映画化に関する契約を締結していたと書いたが、私はロンドン滞在中に原作者の弁護士であるリチャード・トーマスと会ってこの契約の改定について話し合った。映画化に関する契約は、サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポスト、原作の出版社であるThe Hogarth Press Ltd. 及び大島プロダクションの3者が当事者で、1979年8月24日に調印されていた。もちろんこの契約には私は関与していない。この契約のひとつの問題点は、映画の撮影が契約調印の日から3年以内に開始されるものとされていて、この期日を徒過すると映画化権は自動的に消滅することだった。他にもいろいろと修正点があり、4ページしかなかった最初の契約書が改定版では20ページになった。基本的な条件については私が関与する以前に大島プロダクションと原作者との間で合意されていたので、私の役割は契約の細部を詰めるということだった。リチャード・トーマスとどのようなことを話し合ったかはよく覚えていないが、彼は以前田宮二郎の弁護士として「イエロー・ドッグ」(田宮が製作した日英合作映画)の契約交渉をしたとのこと。彼は田宮のことを気に入っていたようで、その時のことを懐かしそうに話していた。田宮はこの映画が公開された翌年(1978年)に猟銃自殺した。映画化権の契約の話に戻ると、映画の撮影開始が1982年8月23日以前とする点については変更がなかったが、大島プロダクションは一定の金額を原作者に支払うことによってこの期限を1983年2月23日まで延期できることになった。リチャード・トーマスと会ったのはこの時だけだったが、その後も原作者への配分金の支払いなどについて連絡を取り合った。

12.ロンドンで作成した41種類の契約書の中に製作会社であるニュージーランドのMLPとジャージーのWoodline Limitedとの間の契約がある。これは、WoodlineがMLPに対して映画製作に必要なサービスを提供する契約で、サービスには監督、プロデューサー、俳優等の人的役務が含まれていた。この契約でカバーされている俳優はデビッド・ボウイのみで、それは多分彼が監督やプロデューサーと同じく利益の配分を受ける立場にあったからだと思う。監督、プロデューサーや主要な俳優のように映画製作に創造的に関わる個人を映画業界ではabove the lineと呼んでいる。これらの人間にかかる費用は、撮影開始以前に予算化されている必要があり、昔は予算表の最初のページに他の予算項目と線で画して記載されていたためabove the lineと称することになったという。ボウイの待遇はトップスターに相応しいもので、ギャラは後に知ることになった坂本龍一やビートたけしの数倍で、他にもいろいろな特典があった。旅費についてはパートナーのCorine Schwabと2人分のニューヨーク又はスイスからニュージーランドまでのファーストクラス航空券、生活費(食費、ホテル代等)として毎週2000合衆国ドル(Corine Schwabについてはreasonable living expenses)が支払われ、更にショーファー兼ボディーガードにも週500合衆国ドルの日当及び生活費が支払われることになっていた。

13.私は7月17日に帰国したが、すぐに製作資金関係の仕事で忙殺された。上記のように映画の製作予算は600万ドル(後に630万ドルに増額された)であるが、実際はニュージーランド側300万ドル、日本側200万ドルで、日本側はテレビ朝日、松竹と大島プロダクションが出資する。1ドル225円で計算した4億5千万円は、テレビ朝日2億円、大島プロダクション1億円及び松竹1億5千万円(日本国内の映画配給権の前渡金)で分担されることになっていた。しかしながら、これらの資金は撮影開始前から使えるようになっているわけではなく、例えば契約時、クランクイン時、クランクアップ時、映画完成時などの段階に分けて支払われることになっていた。しかし、実際に多くの資金が必要になるのは撮影開始以前の段階で、大島プロダクションの持ち出しの形で映画の準備が進められていた。海外及び国内の出資者との契約が一応まとまったところで、実際に使える金を提供してくれるのは銀行である。本件においては、日本の銀行とニュージーランドの銀行がそれぞれの国の出資者のためにレターオブクレジット(L/C)を開設し、MLP及び大島プロダクションがすぐに資金を利用できるようにした。日本においては住友銀行、ニュージーランドにおいてはThe National Bank of New Zealand LimitedがL/Cを開設したが、そのためにはいろいろな条件をクリアする必要があった。日本においては、住友銀行はテレビ朝日、松竹及び大島プロダクションとの間の契約が成立していることを必要としていたが、テレビ朝日及び松竹は、海外の当事者との契約が成立していることを契約締結の条件として要求してきた。日本サイドのL/Cが開設できるようになっても、ニュージーランド側のL/Cの開設が同時に行われないといけないので、その調整が必要であった。ニュージーランド側のL/C開設は遅れに遅れて、坂本龍一が東京を発ってラロトンガに向かう8月21日に間に合わず、臨時にブロードバンクから大島プロダクションへ彼のギャラ分を送ってもらうことになった。9月2日になってニュージーランド側のL/Cがやっと開設された。その間、私は一刻も早く資金が必要だという大島瑛子さんの要求をニュージーランド側に伝えるためにテレックスを送り電話をかけていた。同時に、オルスワングの事務所やリチャード・トーマスと連絡を取りながら完成保証の書類やNFTCの信託証書などの作成に関わっていた。

14.その後も契約はなかなか完成せず、現像所の手紙(映画が完成したことを確認するのは現像所なので、どのような資材が納品されればいいかをあらかじめ決めておく必要がある)の文言を確定するためにキャランやオルスワングとテレックスのやり取りをしていた。そうこうするうちに撮影は終わってしまい、ラッシュの試写があるということで10月28日にアオイスタジオへ行った。ラッシュプリントとはネガから補正なし(棒焼き)で起こされたフィルムのことで、その試写が麻布十番のアオイスタジオ6階で行われた。午後4時からということで行ってみると俳優も来ており、安岡力也がすごく大きな人だという印象が残っている。ラッシュフィルムには音楽が入っておらず、普通の映画とは感じが違うが、十分楽しかった。後で観た完成版と比べるといろいろ違っているようで、ビートきよしが出た場面がカットされたとウィキペディアには書いてあったが、それは気が付かなかった。私が覚えているカットされた場面は、ロレンス(トム・コンティ)の回想場面で、1942年2月15日のシンガポール陥落の直前に英国陸軍中佐だったロレンスが現地の白人の女性と恋に落ちるという話であった。記憶ではかなり長いロマンチックな場面であったと思うが、全部カットされた。そしてこの時の話は収容所の牢屋で隣り合わせになったセリアズ(デビッド・ボウイ)にロレンスが思い出話として話すことで置き換えられている。そのカットされた女優はニュージーランド一の人気女優だと後で聞いたが、そのような事情にとらわれていては良い映画はできないのだろう。

15.1983年になっても契約の仕事が連綿と続いていたが、1月20日に試写会があるとのことで招待された。夜7時から渋谷の東急文化会館8階のゴールデンホールでスナックが提供され、8時から6階の東急名画座で上映された。私は妻と2人で出席し、大島監督と澤地久枝さん(作家)と4人で写っている写真がある。大島監督は上機嫌だった。この時ブロードバンクのクリス・カーカムとNFTCのピーター・コールも招待されていて、コールとは次の日に会議をしている。コールは大島プロダクション、テレビ朝日及び松竹の間の契約の内容について知りたがっていたので、その要旨をまとめて送ると約束した。大島プロダクションは、全部の契約書の英訳文を送るように求められていたが、翻訳に金がかかることを理由に拒否していた。現像所の手紙については、フィルムなどの資材がダビングが遅れていることなどから届かず、2月21日になってやっと発行された。この手紙についても文言が後に修正された。レコーデッド・ピクチャー・カンパニー(これはプロデューサーであるジェレミー・トーマスの会社)とNFTCとの間の信託証書は5月13日に完成し、映画配給ができる仕組がなんとか整った。この間日本では映画公開に向けての気運が高まっていて、カンヌ映画祭に出品されることもあって、多くのメディアが扱っていた。「戦場のメリークリスマス」記念イベントと称して東京・千石の三百人劇場で3月19日から5月15日まで「大島渚の全貌」が開催された。これは大島渚の映画・テレビの全作品を一挙に上映するというもので、私も何回か観に行った。昭和39年にTBSテレビで放送された「アジアの曙」全13話を朝10時から夜9時50分まで通しで上映するというので弁当を持って観に行った。なかなか面白かった。4月13日には来日した原作者サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポストを歓迎して午後6時半から東京会館12階のカトレアルームでパーティーが開かれた。

16.私はカンヌ映画祭への出品手続には関与していなかったが、4月15日にオルスワングの事務所の弁護士マーク・デボローから突然テレックスが来た。それによると、フランスで長編映画を上映するためにはフランス国立映画センター(CNC)に登録しなければいけないとのこと。カンヌ映画祭での上映はフランス国内での上映になるため登録が必要になる。登録に必要な書類の中に映画の脚本についての権利が脚本の著作者から製作会社へ譲渡されており、著作者は映画が上映されることについて異議なないという「著作者の証明書」と呼ばれているものがある。デボローが要求している書類は、脚本の著作者である大島渚がその権利を大島プロダクションに譲渡し、更に大島プロダクションが権利をWoodline Limitedに譲渡したことを証する書面であった。大島プロダクションの代表者は大島渚だったので、いずれの書類も大島渚がサインすることになる。書類はフランス語で作成される必要があり、デボローのテレックスはフランス語のテキストとその英訳文を示し、フランス語の文章を白紙にタイプしそれに大島渚の署名をもらって至急クーリエで送ってくれとのことだった。私は、事情はよくわからなかったが、大島渚がこの書類にサインすることによりこれまでに作成した契約書が損なわれないことの確認を取った上で書類を送った。「戦場のメリークリスマス」は5月11日にカンヌで上映された。「戦場のメリークリスマス」はパルム・ドールの有力候補で日本サイドは大人数でカンヌに行き、このために作った THE OSHIMA GANGというロゴが入ったお揃いのTシャツを着て浜辺を闊歩したとのことである。私もこのTシャツをもらって、カンヌには行けなかったが、事務所旅行に着ていった。結果は予想に反してパルム・ドールは今村昌平の「楢山節考」が受賞し、ひとりでカンヌに行っていたプロデューサーがトロフィーを受け取ったとのこと。

17.「戦場のメリークリスマス」は、松竹富士映画の配給により、松竹セントラル、渋谷パンテオン及び新宿ミラノの3館で1983年5月28日から上映されることになった。これに先立ち、昭和58年度優秀映画製作奨励金交付作品の申請書を作成した。また、著作権法に基づき文化庁に映画の著作権登録をした。大島プロダクションがNFTCに支払う配分金につき日本の所得税の軽減を求めるための租税条約に関する届出書も提出した。映画の興行は順調なようで、テレビ朝日の社長名で、1984年2月23日午後6時30分から8時30分までホテルオークラ別館2階・桃山でパーティーを開くとの招待状が来た。この案内によれば「戦場のメリークリスマス」は、内外で話題を集め多大な成功を収めることができ、「毎日映画コンクール」で日本映画大賞を受賞したのを始め各種映画コンクールでそれぞれ高い評価を受けたとのこと。そこで、「本映画のためにひとかたならぬご尽力をいただきました皆様にお集まりいただき」お祝いと感謝の宴を持ちたいとのことであった。このようなめでたい出来事の影では事件もあった。ラロトンガでの撮影に照明スタッフとして参加していた加藤勉氏が島で行方不明になったとのこと。私は経緯については分からないが、加藤氏の奥様が大島渚及び大島プロダクションを訴えた損害賠償請求事件につき協力を要請された。訴訟を担当したのは別な弁護士である。私の仕事はニュージーランドの二つの会社につき日本の登記簿謄本に相当する書類を取得することであった。被告側の主張は、大島渚や大島プロダクションはラロトンガにおける撮影については法的な責任はなく、責任は製作会社であるMLP及びその下請けのニュージーランドの会社にあるというものであった。私がこの書類を取得したのは1984年2月のことであったが、ファイルを見るとその1年後に登記関係書類の和訳文を作り、レコーデッド・ピクチャー・カンパニーとMLPとの間の契約書の写しとその和訳文を担当弁護士に渡しているので、訴訟は1年以上は続いていたことになる。その後どうなったかはファイルには記録がない。

18.「戦場のメリークリスマス」に関する私のファイルは、1986年8月15日付の大島瑛子さんへのメモの写しで終わっている。最初に瑛子さんと会った時から5年近くが経っていた。最後の2年間の仕事はほとんど金に関するもので、NFTCという専門の会社を介していても、いろいろな問題が発生し悩まされた。そのひとつはNFTCが大島プロダクションに対して配分金を支払う際に、英国の国税庁が30パーセントの源泉税をかけてくるということだった。これについては、日本から英国への支払いと同様に租税条約で解決できると考えていたが、理解できない理由で長いこと30パーセントは支払われて来なかった。NFTCの対応も悪く、何回催促しても返事が来なかった。しびれを切らして、こちらから英国の法律事務所を通じて直接に交渉すると言ったところ、最初に問題が発生してから14ヶ月経って源泉税は不要という結論になった。後半の仕事は税金がらみのものが多く、瑛子さんとよく話をし、大島プロダクションの税理士の薬師先生にお世話になった。大島監督とはあまり会う機会はなかった。ファイルの中に1986年3月15日付の瑛子さんからの次のような手紙を発見した。

  「いつもお世話になりましてありがとうございます。

  大島渚が先生お元気?よろしくお伝えしてくれと言っております。

  どうぞお元気で。」

  (完)