生物の分類および存在の基本的な単位。種をどう定義するかは生物学にとっての根本的な課題であるが,分類学者,遺伝学者,生態学者それぞれの立場によってさまざまな考え方があり,現在のところひと言で種を定義することは不可能である。しかし厳密な定義をさておけば,実在としての種はかなり明確なものであり,実際の取扱いにおいては大きな混乱はない。ここでは主として分類学の立場から種について説明する。日常語で種類という場合には生物学的な分類の階級を考慮したものではないため,亜種や変種,ときには属や科などを指すこともある。
種概念の変遷
生物の種の認識は人間の歴史とともにはじまったといえる。有用,有害な生物を近似のものから区別することは必要な生活の知恵だったからである。アリストテレスは種をよく似た個体の集りで,それ以上細かく分けられないようなグループと定義し,エイドスeidosという語で表した。そして種の集りを属とし,個々の種について記載するときには,属の部分で共通の特徴を,種では個別の特徴を述べるようにした。その後中世までには,薬になる生物のリストなども作られていたが,17世紀の末になって,イギリスのレイJ.Rayがはじめてヨーロッパ産の動植物について,分類の単位としての種speciesの概念を定着させた。生物の分類はさらに下って18世紀のC.vonリンネによって確立されたが,彼の場合も,一つ一つの種について長いラテン語による記載を与えていた。ただ,よく似た種の集りである属genusの名前に,種の長い記載のうちから特徴的な1語を選んで欄外にそれを示す方法をとったので,属名とその1語(これを種小名epithet,specific nameという)を組み合わせた種名の表記法(のちに二命名法binominal nomenclatureといわれるようになった)がしだいに使われるようになった。これにより種名の表記法が簡潔となり,おりからの探検の時代とあいまって,世界中の生物相の研究が促進されることになった。世界中の生物を一律に列挙する作業はリンネに始まるが,このときから,分類の基準としての種がなんであるかが問題となってきた。リンネの場合は,主として形態的な表現形質によって種差を識別しているが,このような種を後にリンネ種というようになった。リンネは種は不変のものと考えたとされているが,晩年には雑種に興味をもつなど,種の可変性の問題にも関心を寄せていた。
19世紀に入ってからは,生物学の各分野で知見が増え,形態だけで識別されていた種差の本質がなんであるかが問題にされるようになった。19世紀末になって,ジョルダンA.Jordanはヒメナズナを栽培して変異を調べ,ただ一つのリンネ種から200以上ものタイプが分離されてくることを明らかにした。ジョルダンはこのタイプこそ生物分類の基礎単位であると考え,後にこれはロッツィJ.D.Lotsyによってジョルダン種と呼ばれるようになった。ジョルダン種は現在いう純系に似たものであるが,これらの研究によって種に対する問題意識は深められたといえる。
20世紀に入ってからは,種を生物学の立場で理解しようという試みが行われるようになった。チューレソンG.W.Turessonは生態種ecospeciesの変異型として生態型ecotypeやエケードecadの概念を提出し,ダンセールB.H.Danserは集団における交配と変異を基準としてコンミスクウムcommiscuumとコンビビウムconviviumを階級として区別しようと試みた。これは後にギルモアG.S.L.Gilmourらによってガモデームgamodemeの概念に整理されたものと似ている。このようにして,分類学の基本単位である種が実体としてどういうものであるかが,遺伝学や生態学の方法の発展に合わせて追究されてきたが,種の実体については今でも分からないことが多い。現在,もっとも広く認められている生物学的な種の定義は,〈生殖的に他の集団から隔離され,その内部で互いに交雑可能な集団〉というものであるが,これとても交雑可能性については実証が不可能で,実際上は形質の経験的な識別によって種の判別が行われている状態である。
種の研究は生物学にとっても最も重要な主題の一つであり,多方面から解析されているが,生物の歴史性は種の多様性に最も如実に表現されており,200万の種があれば,それらの種の成立の過程にはそれと同じだけの数の種分化が行われていたことになり,種の進化の法則性を見いだすのはたいへん困難な作業である。
種の命名
種を基本的な単位として,分類群の階級は上下に連続する。種より下の階級に亜種subspecies,変種variety,品種formなどがあり,種より上には,系series,節section,属genus,族(連)tribeなどを設ける。種名は,その種が属している属名(名詞)に,種の性質を示す種小名(形容詞)をつけて,2語で表現する。動物学では,亜種の特徴を示す語を加えて3語で表現する三命名法trinominalを採用しており,亜種より下の階級については命名規約上の先取権などは認めていない。植物の場合は変種や品種についても命名規約で細かく定められているが,種以下の階級の学名については,階級を示した語の省略形と,その階級での特徴を示す語を種名に加えた三命名法をとることになっている。しかし,階級の定め方については客観的な基準は存在しないので,研究者によって取扱いの異なることはしばしばみられることである。
命名の基準が客観化されないのは,種の生物学的な実体がはっきりしないためであり,種を規定するのがどのような遺伝情報であり,どのような機作によって種は生活環境に適応しているのかなどの問題については,ごく一部の種についてごく一部の断面が明らかにされているのみである。
種と個体
種は個体の集りであり,個体はなんらかの形で集団として生活しているので,現実には一定の遺伝子プールをもった個体の集団が種を構成しているといえる。それらの集団を構成する個体のもつ表現形質が同一の類型を示すので,その形質を手がかりにして種が識別できるということである。しかし,まったく同じ形質をもった個体は二つとありえないので,種を構成する個体には多かれ少なかれ変異が認められることになる。種によっては,変異に波のみられるものがあり,それらが認識可能である場合,種内分類群を識別する。種内にみられる変異には,個体の生活環のうちで終わってしまう個体変異もあるが,遺伝子上の変動がみられる変異もある。この変異が集団のうちに蓄積されていき,ごくわずかでも適応的な性質を示すものであったら,急速に集団内で広がって新しい型を生じることになる。遺伝的な変異は突然変異を出発点としてはじまるが,安定している遺伝子群になんらかの変異が生じる場合,生活条件にとってマイナスとなることが圧倒的に多い。しかし,ごくまれに有用な変異が生じた場合には,それが新しい型の出発点となり,適応的な種をつくり出すことになると考えられる。
鑑別的に認識するのは一定の構造をもった個体としての種であるが,生物は個体として生存するのと同時に,種としての実体をもった生活をしている。一定のまとまりをもった同種個体の集団は種個体群と呼ばれるが,種個体群は生物群集の一員として固有の生態的地位を占め,他の地域個体群と種々の生態的関係を結んでいる。また動物の種個体群のあいだでは,さまざまな社会行動によって個体群の維持がはかられている。
種分化
種の研究にはいろいろの側面に応じて多様な解析法がある。ただ,実在している種はすべて生活している実体であり,つねに進化し続けているものであるから,種の研究は静的に種の範囲を記述するものではなく,種分化の解析が目的になるべきものであり,そこでは種の構造的側面がいつでも機能的側面から眺められる必要がある。そのようにして明らかにされていく個々の種の実体を総合して,生物学における種とは何かが解明される。つねに分化しているものとしてみれば,種の階級と,その上位,あるいは下位の階級との差は連続的であり,截然とした区別の得られるものでないのはいうまでもないことである。
たとえばゲンノショウコは独立の種としてGeranium thunbergii Sieb.et Zucc.と名付けられたが,ヒマラヤからタイ国北部にかけて分布しているG.nepalense Sweetとひじょうによく似ているため,両者を種の階級で区別することは不可能である。しかし,ヒマラヤ型と日本型は植物体全体の大きさや植物体のいろいろの部分にある腺毛の有無などに違いがみられ,分布域によってそれらの形質の差が比較的はっきりしているので,亜種の階級で区別されるようになった。両者は共通の種が,地域的に独立に分化をはじめたものと解釈されている。しかし,これは表現形質の差で認識されているだけで,実際両者にどのような差がみられるかについては,それ以上には解明されていない。
種がどれくらいの時間で変化していくかについても,グループによってさまざまのようである。日本の植物相をつくっている植物の多くは第三紀のころにすでにあったもののようであるが,一方,高山,海浜,特殊岩石地帯などで特殊化している種のうちには比較的短期間に変化しているものもあるらしい。条件さえ熟せば,種分化は相当速く進行するもののようである。ただし,生物相の変遷は種の移動によって起こることが多いので,生物相が置き換わる時間と種の寿命とは全然別のものであることに注意しなければならない。
自然環境に変化が生じると,種が生存する基盤を失い,絶滅していく。現在地球上から絶滅していく種は急速に増加しており,20世紀末には現生種の約20%が地球上から姿を消すだろうという試算もある。将来の地球人口を支えていくためには,今後ますます生物資源の有効な活用が望まれるのであるが,そのようなときに資源となる可能性を秘めた生物の種が,研究もされないまま次々に姿を消していくのは憂うべきことである。
執筆者:岩槻 邦男