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高木琢也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高木 琢也
名前
愛称 アジアの大砲、ブーやん
カタカナ タカギ タクヤ
ラテン文字 TAKAGI Takuya
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1967-11-12) 1967年11月12日(57歳)
出身地 長崎県南島原市
身長 188cm
体重 85kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
1983-1985 日本の旗 国見高校
1986-1989 日本の旗 大阪商業大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1991 日本の旗 フジタ 15 (3)
1991-1997 日本の旗 マツダ/サンフレッチェ広島 173 (62)
1998-1999 日本の旗 ヴェルディ川崎 40 (11)
2000 日本の旗 コンサドーレ札幌 17 (0)
通算 245 (76)
代表歴2
1992-1997 日本の旗 日本 44 (27)
監督歴
2006-2007 日本の旗 横浜FC
2009 日本の旗 東京ヴェルディ
2010-2012 日本の旗 ロアッソ熊本
2013-2018 日本の旗 V・ファーレン長崎
2019-2020 日本の旗 大宮アルディージャ
2021-2022 日本の旗 SC相模原
1. 国内リーグ戦に限る。2000年12月31日現在。
2. 1997年11月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表大阪商業大学卒業。2023年現在はJリーグV・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める[1]

家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥

選手時代の特徴

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現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ[2]ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった[3]マーク・ヒューズを憧れの選手としていた[3]

選手経歴

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長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった[注釈 1]。 中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏国見高校に異動するという情報を耳にしていた[注釈 2]。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきたとき、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかった。そのため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった[4]

高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。

大学卒業後、当時のマツダサッカー部監督・今西和男からの誘いを断り[5]フジタ(現:湘南ベルマーレ)に入団[5]。しかしチームに合わず[5]、1991年今西からもう一度声を掛けられマツダに入団[5]。早くから攻撃の中心選手として活躍した。またマンチェスター・ユナイテッドFCに短期留学したこともあった。マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。

1993年5月26日の第4節横浜マリノス戦での決勝ゴールが[6] Jリーグ初ゴールとなった[7]。しかしこの年11ゴールは決めたものの、期待されていた程のゴールは挙げられずに終わった[8]

1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、第19節で首位争いをしていた清水エスパルスとの首位攻防戦で2ゴールを決めるなど[9]、優勝を決めた第21節のジュビロ磐田戦では同点を奪うなど[10]、広島の1stステージ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でV川崎の加藤久のスライディングにより負傷した。以後、常に故障に悩まされ続けるも、広島の中心選手として活躍を続ける。1996年9月21日のジェフ市原戦では、サンフレッチェの日本人選手としては初となるハットトリックを決めた[11]。1997年5月3日の京都パープルサンガ戦でのゴールはJリーグ3500点目のゴールとなった[12]

1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーし、開幕戦となったベルマーレ平塚戦で移籍後初ゴールを挙げ、第9節のアビスパ福岡戦ではハットトリックを決めるなど[13]、ファーストステージだけで9ゴールを挙げたが、怪我でセカンドステージのほとんどを欠場し、1シーズン目は22試合9ゴールの成績を残した[7]。しかし、次第に怪我により活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末には日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督に誘われ、コンサドーレ札幌へ移籍。初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。だが、自らはリーグ戦初の年間ノーゴールに終わり[7]、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。

代表経歴

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1992年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、ダイナスティカップ1992では決勝の韓国戦でのゴールを含め[14]、4試合で5ゴールを挙げて得点王に輝き、広島で開催されたアジアカップでは決勝のサウジアラビア戦で決勝ゴールを決め[15]、日本の初優勝に貢献[16]。「アジアの大砲」というキャッチフレーズで[17]、人気選手の一人となった。同年の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも出場したが、2試合ノーゴールに終わり、またイエローカード累積で出場停止となった、北朝鮮戦からは中山雅史に活躍でポジションを奪われ[18]、最終予選最終戦のイラク戦ではベンチ入り、試合には出場しなかった。

1997年には1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の一次予選では、3月25日のマカオ[19]、3月27日のネパール戦と[20]釜本邦茂以来と2人目となる代表2試合連続ハットトリックを達成した[21]。最終予選直前に行われた、JOMO CUP、Jリーグ外国籍選抜との対戦以降は代表に呼ばれていなかったが、最終予選最終節のカザフスタン戦に招集され[注釈 3]、後半途中から出場して1ゴールを挙げた。この試合が代表最後の出場となった。続くプレーオフのイラン戦(ジョホールバルの歓喜)では招集されず、翌年はJリーグで好調であったものの、本大会でも日本代表には選ばれなかった。

指導者経歴

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サッカー解説者として活動する傍ら、2005年には将来のJリーグ参入を目指して高木の故郷である長崎県で結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーを受けた。しかし、解説者としての仕事の都合や、当時はまだS級ライセンス取得中であったことから監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになり、主にサッカー解説のない時に来訪して指導していた。

S級ライセンス取得後、2006年からはJ2の横浜FCのコーチに就任し、指導者としての第一歩を踏み出した。更にチーム始動から1ヶ月程しか経っていない第1節終了後の3月6日には足達勇輔監督が解任されたことに伴い監督に昇格し、チームを指揮することになった。指導経験に乏しく、準備期間も与えられなかった上、先輩に当る三浦知良を選手として起用することへの指導面も含め、難しい立場と思われていた。フロントの決断はサポーターの批判も招き、高木の初指揮となった第2節のホーム開幕戦では横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙の抗議を行なう事態となった。

しかし高木就任後、チームは15戦無敗[注釈 4]。新監督として過去にない好成績を残し、J2加入以来5年間下位に沈んでいたチームを一気に昇格争い出来るチームへ変貌させた。更にイタリア代表の堅固な守備を称したカテナチオをもじって名付けられた「ハマナチオ」は、770分間連続無失点のJリーグ新記録[注釈 5] 及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し、選手・サポーターの信頼を勝ち得た。11月26日、第51節(残り1試合)でのサガン鳥栖戦の勝利と、同節の他チームの結果によってJ1昇格を決定させると共に、指導者として初のタイトル(J2優勝)を獲得。初物づくしの一年となり、高木の手腕はサッカー評論家などの間で高く評価された。

2007年も同チームを指揮、開幕戦では敗れたものの前年王者の浦和レッズを苦しめ、第2節の「横浜ダービー」横浜FM戦で勝利するなど、開幕直後はJ1でも通用するかに見えた。しかし、他クラブとの戦力差は否めず、「ハマナチオ」はあっという間に崩壊、大量失点を繰り返した。新戦力の奥大介久保竜彦も故障で離脱するなどし、大差での最下位(18位)に低迷。三浦淳宏獲得などの補強方針を巡ってフロントとの確執も表面化し、8月27日をもって監督を解任された[注釈 6]

その後はTBSのスーパーサッカー[注釈 7] などでサッカー解説者を務め、2008年、J1に復帰した東京ヴェルディのコーチに就任。2009年からはクラブのJ2降格に伴い退任した柱谷哲二の後を受け、東京Vの監督に就任した。経営難から満足な戦力が整わない中、中盤には6連勝を含む10戦負けなしを記録するなど奮闘したが、クラブの身売り・存続の危機というピッチ外での騒動の影響もあって、徐々に成績は下降。1年でのJ1復帰がなくなったことに加え、第89回天皇杯の初戦でJFL所属のホンダロックSCに敗れたことが引き金となり、7試合を残した10月に途中解任された。

2010年より、ロアッソ熊本の監督に就任。守備に重点に置きながらカウンターを狙うという戦術が功を奏して失点数を大幅に減らすことに成功し、J2昇格後3年目のチームを初めて1桁順位(7位)に押し上げた。しかし翌年11位に後退、更にその次2012年も12位以下が確定したことから、クラブは2012年11月8日、同年シーズンの公式試合が終了次第退任させることを発表した[22]

2013年より、かつてアドバイザーを務めたV・ファーレン長崎の監督に就任。J2初年のチームを6位に導き、J1昇格プレーオフ進出を果たした。2014年は14位に終わったものの、2015年には6位となり2年ぶりにJ1昇格プレーオフへ進出した。2016年は15位に終わったが、2017年には2位となりチームをJ1初昇格に導いた。

2018年シーズンは、J1開幕戦から第6節・FC東京戦まで2分4敗と苦しむが、第7節・清水エスパルス戦で長崎のJ1初白星を記録する[23] と、第11節・ジュビロ磐田戦まで4連勝を達成[24]。J1リーグ前半戦終了となる第17節終了時点で、15位・5勝2分10敗の成績で折り返す[25]。J1リーグ後半戦開始となる第18節・FC東京戦で勝利を挙げるが、第19節・北海道コンサドーレ札幌戦から第25節・湘南ベルマーレ戦まで1分6敗と苦しみ、チームは最下位へ転落。第26節・名古屋グランパス戦で7連勝中の名古屋を4-3で下し勝利する[26] と、続く第27節・ベガルタ仙台戦でも勝利を挙げ、2連勝を達成する[27]。しかし、最下位脱出とはならず、11月10日、第32節・横浜FM戦に敗れたことで自動降格圏である17位以下が確定[28][29]。11月17日、J2リーグの最終節でFC町田ゼルビアの4位が確定したことにより、J1残留の可能性が消滅。1年でのJ2降格が決定した[30]。11月19日、契約満了に伴い、2018シーズン限りで退任することが発表された[31][32][33]。第33節・ガンバ大阪戦で敗れ、長崎は最下位での降格が決定[34]。最終節では清水と対戦し、4-4で引き分け[35]、長崎のJ1初挑戦となった2018年シーズンの勝ち点は30となった。J1リーグの最下位チームとしては、現行の18チーム制になった2005年以来、過去最多を記録した[36][37]

2019年シーズンより、大宮アルディージャで監督を務める[38]。自動昇格圏内の僅差の3位までチームを引き上げたが、J1参入プレーオフ初戦でモンテディオ山形に敗れ、J1昇格を逃した。2020年は開幕4連勝で首位に立ったが、コロナ禍による過密日程やけが人続出もあり次第に成績が下降し最終的には15位と低迷。12月8日、大宮の監督を退任すると発表された[39]

2021年6月1日、解任された三浦文丈の後任として、SC相模原の監督に就任することが発表された[40]。2022年5月20日、解任が発表された[41]

2022年12月、V・ファーレン長崎に復帰し、同社取締役兼CROとなる[1]

エピソード

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  • オフト監督時代の日本代表(オフト・ジャパン)のFWとしては三浦知良(カズ)がマスメディアなどで注目されたが、高木や三浦と共に同時期のFWだった武田修宏の話では「フォワードの軸は高木で、カズは2番手、武田自身は5番手」であったという[42]
  • Jリーグ初期の変動背番号制時代は「10番」を長く背負ってきたが、高木はあまり好きな番号ではなかったという。固定番号制が採用された1997年以降「18番」を選んでいる(初めて日本代表に選ばれたときの番号が18だったことに由来)。ちなみに、そのとき10番を付けたのが、後に横浜FCで高木の下でプレーした久保竜彦である。
  • 高木(国見高校)の高校選手権出場を阻んだ平戸高校のGKは、のちに広島でチームメイトとなった前川和也である[4]
  • 性格は温厚で、前園真聖は体が大きくて温厚な高木を「社長」と呼んでいた。また中山雅史など"ドーハ組"らには「ブーやん」と呼ばれる。苗字が同じ高木ブーと、琢也の「琢」の字が「」に似ていることが由来。高木が横浜FCの監督になった後、このチームで選手を続けていた三浦知良はインタビューなどで「高木監督」と呼んで年下の指揮官に敬意を払ったが[注釈 8]、当時磐田に在籍していた同い年の中山は「ブーやん」のあだ名を変えず、高木を困惑させた。
  • 好きな芸能人は唯一浜田省吾。中学生の頃からファンで、サンフレッチェ広島所属時に郷里が広島の浜省と対面すると、それ以降浜省以外は興味を持たなくなった。
  • 2006年から、地域・家庭・学校が協力して子供を育む長崎県の県民運動「こころねっこ運動」のイメージキャラクターを務めており、テレビCMではお父さん役をこなした。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 フジタ 8 JSL2部 15 3 0 0
1991-92 マツダ 20 JSL1部 22 9 0 0 2 1 24 10
1992 広島 - J - 7 4 0 0 7 4
1993 29 11 0 0 2 0 31 11
1994 42 14 0 0 0 0 42 14
1995 24 5 - 5 4 29 9
1996 30 11 6 1 5 2 41 14
1997 18 26 12 0 0 2 1 28 13
1998 V川崎 22 9 1 0 3 0 26 9
1999 J1 18 2 3 1 0 0 21 3
2000 札幌 J2 17 0 1 0 3 1 21 1
通算 日本 J1 191 64 18 6 17 7 226 77
日本 J2 17 0 1 0 3 1 21 1
日本 JSL1部 22 9 0 0 2 1 24 10
日本 JSL2部 15 3 0 0
総通算 245 76 19 6

その他の公式戦

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 44試合 27得点 (1992年 - 1997年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1992 11 5
1993 13 7
1994 5 2
1995 0 0
1996 10 6
1997 5 7
通算 44 27

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1992年05月31日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  アルゼンチン ●0-1 ハンス・オフト キリンカップ
2. 1992年06月07日 日本の旗愛媛県 愛媛県総合運動公園陸上競技場  ウェールズ ●0-1 キリンカップ
3. 1992年08月22日 中華人民共和国の旗北京  韓国 △0-0 ダイナスティカップ
4. 1992年08月24日 中華人民共和国の旗北京  中華人民共和国 ○2-0 ダイナスティカップ
5. 1992年08月26日 中華人民共和国の旗北京  北朝鮮 ○4-1 ダイナスティカップ
6. 1992年08月29日 中華人民共和国の旗北京  韓国 △2-2(PK4-2) ダイナスティカップ
7. 1992年10月30日 日本の旗広島県 広島県立びんご運動公園陸上競技場  アラブ首長国連邦 △0-0 アジアカップ
8. 1992年11月01日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  北朝鮮 △1-1 アジアカップ
9. 1992年11月03日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  イラン ○1-0 アジアカップ
10. 1992年11月06日 日本の旗広島県 広島県総合グランドメインスタジアム  中華人民共和国 ○3-2 アジアカップ
11. 1992年11月08日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  サウジアラビア ○1-0 アジアカップ
12. 1993年03月07日 日本の旗福岡県 東平尾公園博多の森陸上競技場  ハンガリー ●0-1 キリンカップ
13. 1993年03月14日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  アメリカ合衆国 ○3-1 キリンカップ
14. 1993年04月08日 日本の旗愛知県 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場  タイ ○1-0 ワールドカップ予選
15. 1993年04月11日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  バングラデシュ ○8-0 ワールドカップ予選
16. 1993年04月15日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  スリランカ ○5-0 ワールドカップ予選
17. 1993年04月18日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  アラブ首長国連邦 ○2-0 ワールドカップ予選
18. 1993年04月28日 アラブ首長国連邦の旗ドバイ  タイ ○1-0 ワールドカップ予選
19. 1993年04月30日 アラブ首長国連邦の旗ドバイ  バングラデシュ ○4-1 ワールドカップ予選
20. 1993年05月05日 アラブ首長国連邦の旗ドバイ  スリランカ ○6-0 ワールドカップ予選
21. 1993年05月07日 アラブ首長国連邦の旗アル・アイン  アラブ首長国連邦 △1-1 ワールドカップ予選
22. 1993年10月04日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  コートジボワール ○1-0(延長) アフロ・アジア選手権
23. 1993年10月15日 カタールの旗ドーハ  サウジアラビア △0-0 ワールドカップ予選
24. 1993年10月18日 カタールの旗ドーハ  イラン ●1-2 ワールドカップ予選
25. 1994年07月14日 日本の旗愛知県 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場  ガーナ ○2-1 パウロ・ロベルト・ファルカン アシックスカップ
26. 1994年10月03日 日本の旗広島県 みよし運動公園陸上競技場  アラブ首長国連邦 △1-1 アジア大会
27. 1994年10月05日 日本の旗広島県 広島県総合グランドメインスタジアム  カタール △1-1 アジア大会
28. 1994年10月09日 日本の旗広島県 広島県立びんご運動公園陸上競技場  ミャンマー ○5-0 アジア大会
29. 1994年10月11日 日本の旗広島県 広島県総合グランドメインスタジアム  韓国 ●2-3 アジア大会
30. 1996年02月10日 オーストラリアの旗ウォロンゴン  オーストラリア ○4-1 加茂周 国際親善試合
31. 1996年02月14日 オーストラリアの旗メルボルン  オーストラリア ●0-3 国際親善試合
32. 1996年02月19日 香港の旗香港  ポーランド ○5-0 カールスバーグカップ
33. 1996年02月22日 香港の旗香港  スウェーデン △1-1(PK4-5) カールスバーグカップ
34. 1996年08月25日 日本の旗大阪府 長居陸上競技場  ウルグアイ ○5-3 国際親善試合
35. 1996年09月11日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  ウズベキスタン ○1-0 JFA75周年記念試合
36. 1996年10月13日 日本の旗愛知県 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場  チュニジア ○1-0 プーマカップ
37. 1996年12月06日 アラブ首長国連邦の旗アル・アイン  シリア ○2-1 アジアカップ
38. 1996年12月09日 アラブ首長国連邦の旗アル・アイン  ウズベキスタン ○4-0 アジアカップ
39. 1996年12月15日 アラブ首長国連邦の旗アル・アイン  クウェート ●0-2 アジアカップ
40. 1997年03月15日 タイ王国の旗バンコク  タイ ●1-3 国際親善試合
41. 1997年03月25日 オマーンの旗マスカット  マカオ ○10-0 ワールドカップ予選
42. 1997年03月27日 オマーンの旗マスカット  ネパール ○6-0 ワールドカップ予選
43. 1997年08月13日 日本の旗大阪府 長居陸上競技場  ブラジル ●0-3 国際親善試合
44. 1997年11月08日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  カザフスタン ○5-1 岡田武史 ワールドカップ予選

得点

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# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1992年8月24日 中華人民共和国の旗 中国北京 中華人民共和国の旗 中国 2-0 勝利 ダイナスティカップ1992
2 1992年8月26日 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 4-1 勝利
3
4 1992年8月29日 大韓民国の旗 韓国 2-2
PK4-2
引分
5 1992年11月8日 日本の旗 日本広島市 サウジアラビアの旗 サウジアラビア 1-0 勝利 AFCアジアカップ1992
6 1993年4月11日 日本の旗 日本東京 バングラデシュの旗 バングラデシュ 8-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
7
8 1993年4月15日 スリランカの旗 スリランカ 5-0 勝利
9
10 1993年4月18日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 2-0 勝利
11 1993年4月30日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦ドバイ バングラデシュの旗 バングラデシュ 4-1 勝利
12 1993年5月5日 日本の旗 日本、東京 スリランカの旗 スリランカ 6-0 勝利
13 1994年10月5日 日本の旗 日本、広島市 カタールの旗 カタール 1-1 引分 アジア競技大会
14 1994年10月9日 日本の旗 日本尾道市 ミャンマーの旗 ミャンマー 5-0 勝利
15 1996年2月10日 オーストラリアの旗 オーストラリアウロンゴン オーストラリアの旗 オーストラリア 4-1 勝利 親善試合
16
17 1996年2月19日 香港の旗 イギリス領香港 ポーランドの旗 ポーランド 5-0 勝利 カールスバーグカップ
18
19 1996年8月25日 日本の旗 日本大阪市 ウルグアイの旗 ウルグアイ 5-3 勝利 親善試合
20 1996年12月6日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦アル・アイン シリアの旗 シリア 2-1 勝利 AFCアジアカップ1996
21 1997年3月25日 オマーンの旗 オマーンマスカット ポルトガルの旗 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選
22
23
24 1997年3月27日 ネパールの旗 ネパール 6-0 勝利
25
26
27 1997年11月8日 日本の旗 日本、東京 カザフスタンの旗 カザフスタン 5-1 勝利

指導歴

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 リーグ杯 天皇杯
2006 J2 横浜FC 優勝 93 47 26 15 6 - 3回戦
2007 J1 18位 11 22 3 2 17 予選リーグ -
2009 J2 東京V 9位 60 44 17 9 18 - 2回戦
2010 熊本 7位 54 36 14 12 10 3回戦
2011 11位 51 38 13 12 13 2回戦
2012 14位 55 42 15 10 17 4回戦
2013 長崎 6位 66 42 19 9 14 2回戦
2014 14位 52 42 12 16 14 4回戦
2015 6位 60 42 15 15 12 2回戦
2016 15位 47 42 10 17 15 2回戦
2017 2位 80 42 24 8 10 2回戦
2018 J1 18位 30 34 8 6 20 グループリーグ敗退 3回戦
2019 J2 大宮 3位 75 42 20 15 7 - 3回戦
2020 15位 53 42 14 11 17 - -
2021 相模原 19位 27 26 6 9 11 - 3回戦
2022 J3 15位 7 8 2 1 5 - -
J1通算 - - 56 11 8 37 - -
J2通算 - - 527 205 158 164 - -
J3通算 - - 8 2 1 5 - -
  • 2006年は第2節より監督就任。
  • 2007年は第22節で解任。
  • 2009年は第44節で解任。
  • 2021年は第17節より監督就任。
  • 2022年は第8節で解任。

タイトル

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高校時代

  • 1985年 国体 準優勝・得点王

クラブチーム

代表

指導者

脚注

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注釈

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  1. ^ 野球では左投げ左打ち
  2. ^ 高木の実家の前にある床屋の主人が、小嶺のいとこであったため知ることが出来たとのこと
  3. ^ FWの三浦知良と呂比須ワグナーの2人が出場停止という状況で、中山雅史と共にメンバーへ選出され
  4. ^ 新監督として就任してからのJリーグ新記録となった(現在も更新されていない)。従来の記録はサンフレッチェ広島の小野剛監督の11試合
  5. ^ 従来は1993年清水エスパルスの731分
  6. ^ 横浜FCは高木の後任監督にブラジル人ジュリオ・レアルを据えたが、J1最下位でのJ2降格となった。高木監督解任時点で9試合連続未勝利であったが、その後も、連続未勝利記録は最終節で勝利するまで途切れず、20試合連続未勝利のリーグワースト記録を更新した。
  7. ^ 水沼貴史との週替わりで担当した。
  8. ^ 高木と三浦は同じ1967年生まれであるが、高木は11月生まれで三浦は2月生まれである。つまり高木は三浦より1学年下ということになる。

出典

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  1. ^ a b V・ファーレン長崎 役員体制変更のお知らせ - V・ファーレン長崎 2022年12月7日
  2. ^ 山形 “アジアの大砲”高木琢也氏の長男・利弥が特別指定選手に”. スポーツニッポン新聞社 (2014年7月31日). 2016年9月13日閲覧。
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  4. ^ a b 日刊スポーツ 2004年インターハイ特集 トップアスリートからのメッセージ
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  39. ^ 高木琢也 監督 退任のお知らせ』(プレスリリース)大宮アルディージャ、2020年12月8日https://www.ardija.co.jp/news/detail/17036.html2020年12月10日閲覧 
  40. ^ 高木琢也氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)SC相模原、2021年6月1日https://www.scsagamihara.com/news/post/202106010012021年6月1日閲覧 
  41. ^ 高木琢也監督 解任のお知らせ』(プレスリリース)SC相模原、2022年5月20日https://www.scsagamihara.com/news/post/202205200012022年5月21日閲覧 
  42. ^ 「武田修宏のワールドワイド交遊録(14)」『東京スポーツ』連載、2007年7月24日、5頁。

関連項目

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外部リンク

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