謝鐸
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謝 鐸(しゃ たく、1435年 - 1510年)は、明代の学者・官僚。字は鳴治、号は方石。本貫は台州府太平県。
生涯
[編集]謝世衍と高氏のあいだの子として生まれた。1464年(天順8年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に任じられた。1465年(成化元年)、翰林院編修に進んだ。1467年(成化3年)、『英宗実録』の編纂に参加した。謝鐸の性格は孤高で、学問につとめて古代を慕い、経学の実用を研究した。
1473年(成化9年)、謝鐸は『通鑑綱目』を校勘した。1475年(成化11年)、翰林院侍講に進み[1]、経書の講義にあたった。1478年(成化14年)、両親を相次いで失い、辞職して喪に服した。喪が明けても、謝鐸は親を養うことができなかったといって、官への復帰に応じなかった。
1488年(弘治元年)、謝鐸は侍講のまま『憲宗実録』の編纂事業に召集された。1490年(弘治3年)、南京国子祭酒に抜擢された。1491年(弘治4年)1月、師儒を選ぶことなど六事を言上した。5月、病のため致仕した[2]。1499年(弘治12年)8月、礼部右侍郎に抜擢され、国子祭酒の事務を管掌した[3]。たびたび辞職を願い出たが、許可されなかった。1503年(弘治16年)、『歴代通鑑纂要』の編纂に参加した。1508年(正徳3年)11月、致仕した[4]。
1510年(正徳5年)11月壬午、謝鐸は死去した[5]。享年は76。礼部尚書の位を追贈された。諡は文粛といった。著書に『国子監続志』11巻・『祭礼儀注』2巻・『名臣事略』20巻・『尊郷録』10巻・『赤城新志』23巻[6]・『伊洛淵源続録』6巻[7]・『奏議』4巻・『赤城論諫録』10巻[8]・『桃渓浄稿』45巻・『桃渓詩稿』36巻・『偲山集』7巻[9]があった。