紀元前337年
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紀元前337年(きげんぜん337ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ロングスとパエトゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元417年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前337年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- コリントスでの全ギリシア人 会議で、マケドニア王ピリッポス2世は、小アジアのギリシャ人諸都市をペルシアの支配から解放するため、コリントス同盟の結成を公表する。表向きの理由は、ペリントス市がピリッポスに反乱した時に、アルタクセルクセス3世が支援したことの賠償を、ペルシア王アルサスがピリッポス2世に支払うことを拒否したからであった(スパルタを除く)。全てのギリシア人都市と島が同盟を支えることを誓い、ピリッポスを盟主として認める。ピリッポスは全てのギリシア人国家からの代表議会を設立し、行動の審議権と決定権が与えられた。しかし実際の權力は同盟軍指揮官であるピリッポスが握っていた。
- オリュンピアスは、夫のピリッポス2世がクレオパトラ(後にエウリュディケと改名)という少女と結婚した後、ないがしろにされるようになる。2人の息子のアレクサンドロスはピリッポスの行動により、実質的には勘当された。ピリッポス2世はプトレマイオス1世を、他の彼の息子の学友と一緒に追放した。
共和政ローマ
[編集]誕生
[編集]→「Category:紀元前337年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前337年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典