滎陽郡
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滎陽郡(けいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋代にかけて、現在の河南省中部に設置された。
概要
[編集]266年(泰始2年)、滎陽郡が立てられた。滎陽郡は司州に属し、郡治は滎陽県に置かれた。
晋のとき、滎陽郡は滎陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封の8県を管轄した[1]。
南朝宋のとき、滎陽郡は京・密・滎陽・巻・陽武・苑陵・中牟・開封・成皋の9県を管轄した[2]。
423年(泰常8年)、北魏が滎陽郡を奪った。495年(太和19年)、虎牢に東中府が置かれ、滎陽郡は東中府に属した。
東魏のとき、滎陽郡は北豫州に属し、滎陽・成皋・京・密・巻の5県を管轄した[3]。
581年(開皇元年)、隋により滎州は鄭州と改称され、成皋郡は鄭州に属した。583年(開皇3年)、郡制が廃止されると、成皋郡は廃止されて、鄭州に編入された。596年(開皇16年)、鄭州は管州と改称された。605年(大業元年)、鄭州の称にもどされた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鄭州は滎陽郡と改称された。滎陽郡は管城・汜水・滎沢・原武・陽武・圃田・浚儀・酸棗・新鄭・滎陽・開封の11県を管轄した[4]。
621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、滎陽郡は鄭州と改められた[5]。