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浅野光晟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
浅野 光晟
時代 江戸時代前期
生誕 元和3年8月12日1617年9月11日
死没 元禄6年4月23日1693年5月27日
改名 市松、岩松(幼名)、光晟
戒名 玄徳院殿仁岳良寛大居士
墓所 広島県広島市の神田山墓地
官位 従五位下侍従従四位下左少将紀伊守安芸守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長晟正清院
兄弟 長治光晟
蒲生忠郷蒲生忠知崇法院加藤忠広正室)[1]
正室自昌院
綱晟、市、亀、長尚長照、久
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浅野 光晟(あさの みつあきら)は、安芸国広島藩の第2代藩主。浅野家17代当主。

生涯

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元和3年(1617年)8月12日、初代主・浅野長晟(当時は紀州藩主)の次男として和歌山で生まれる[2]寛永4年(1627年)8月26日、元服し、さらに家康の外孫であることから松平姓を許されて松平安芸守を名乗った。また、従五位下に任官した。寛永9年(1632年)10月29日、父の死去により跡を継ぐ。このとき、庶兄の浅野長治に5万石を分与して、支藩である備後三次藩を立藩した。寛永11年(1634年)9月16日、従四位下・侍従に昇進する。寛文5年12月27日(1666年)、左少将に任官する。

その後は徳川将軍家との関係を深めると共に、検地や税制改革、西国街道の整備や運輸整備などの藩政改革を実施して、藩政の確立に努めた。特に「広島町中御掟法」などは、後の広島市のもとになった藩法でもある。他にも職制改革を行なっている。

寛文12年(1672年)4月18日、長男の綱晟に家督を譲って隠居する。延宝元年(1673年)9月18日、通称を紀伊守に改める。元禄6年(1693年)4月23日に死去した。享年77。

墓所は広島県広島市の神田山墓地。

系譜

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脚注

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  1. ^ 母の正清院は蒲生秀行と死別後に浅野長晟と再婚しているため、秀行との間の3人の子は光晟の異父兄姉にあたる。
  2. ^ 浅野光晟」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%85%89%E6%99%9Fコトバンクより2022年2月5日閲覧