松平忠雅
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松平忠雅 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 天和3年9月24日(1683年11月12日) |
死没 | 延享3年6月20日(1746年8月6日) |
改名 | 斎宮、忠雅 |
別名 | 左膳(通称) |
戒名 | 大梁院殿仁嶽紹裕大居士 |
墓所 | 東京都台東区の天眼寺 |
官位 | 従五位下下総守、従四位下左近衛少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重 |
藩 | 出羽山形藩主→備後福山藩主→伊勢桑名藩主 |
氏族 | 奥平松平家 |
父母 |
父:松平清照、母:安西氏 養父:松平忠弘 |
兄弟 | 忠雅、浅姫、牧野成春正室、大沢基隆正室 |
妻 |
正室:毛利綱広の娘・類 側室:永林院、松平定重の娘 |
子 | 蜂須賀宗純、忠刻、井伊直存、忠張、清性院、松平武元正室、津也、真田幸詮正室、光相院ら |
松平 忠雅(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国山形藩2代藩主、備後国福山藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。官位は従四位下・左近衛少将。親藩奥平松平家3代。
経歴
[編集]天和3年(1683年)9月24日、松平清照の長男として誕生。病弱であった清照に代わって入嗣した叔母婿の忠尚を差し置き、忠雅が祖父・忠弘の養嗣子として元禄5年(1692年)に家督を継いだ。
元禄13年(1700年)、山形より福山へ移封する。10年後の宝永7年(1710年)には伊勢桑名藩へ移封する。山形・福山各藩の治世はいずれも短期間のため、記録がほとんど残っていないが、桑名の地では忠雅以降、7代が113年に亘って治めた。この間、桑名藩政の改革や藩校進脩館の基礎を築くなど、評価は高い。
延享3年(1746年)6月20日に死去した。享年64(満62歳没)。跡を三男・忠刻が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 類 ー 毛利綱広の娘
側室
子女
- 蜂須賀宗純[1](次男)
- 松平忠刻(三男)生母は永林院(側室)
- 井伊直存[2](四男)生母は永林院(側室)
- 松平忠張(六男)生母は類(正室)
- 清性院 ー 松平頼渡正室
- 松平武元正室
- 津也、円珠院 ー 松平正甫婚約者、早世
- 真田幸詮正室
- 光相院 ー 毛利政苗正室