小橋一太
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小橋 一太 こばし いちた | |
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昭和4年(1929年) | |
生年月日 | 1870年10月25日 |
出生地 | 熊本藩 |
没年月日 | 1939年10月2日(68歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科 卒業 |
前職 | 内務官僚 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (政友本党→) 立憲民政党 |
第38代文部大臣 | |
内閣 | 濱口内閣 |
在任期間 | 1929年7月2日 - 同年11月29日 |
小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日(明治3年10月1日) - 1939年(昭和14年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。族籍は熊本県士族[1]。
人物
[編集]熊本県士族・小橋元雄の長男[1]。旧制第五高等学校卒業。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業[1]。内務省の各局長を歴任。1918年(大正7年)、原内閣で内務次官に就任。1920年(大正9年)、立憲政友会より衆議院議員に当選(以後、3期連続当選)。1924年(大正13年)、清浦内閣で内閣書記官長に就任。
政友本党に参加し、政務調査会長・幹事長を歴任。1927年(昭和2年)、立憲民政党の結成に関わる。1929年(昭和4年)、濱口内閣で文部大臣に就任。
越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)で辞任(裁判では無罪となる[2])。1937年(昭和12年)、第16代東京市市長に選出される。1939年(昭和14年)4月、東京市長退任。10月2日 死去。墓所は多磨霊園(16-1-2-2)
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
墓所
[編集]多磨霊園 昭和16年(1941年)11月29日に君碑が建立された。
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録 第11版 上』コ55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月25日閲覧。
- ^ 1931年8月11日付神戸新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ^ 『官報』第3831号「叙任及辞令」1939年10月10日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」大正10年2月14日
- ^ 『官報』第3828号「叙任及辞令」1939年10月6日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
外部リンク
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公職 | ||
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先代 水野錬太郎 |
内務次官 第22代:1918年 - 1922年 |
次代 川村竹治 |
先代 樺山資英 |
内閣書記官長 清浦内閣:1924年 |
次代 江木翼 |
先代 勝田主計 |
文部大臣 濱口内閣:1929年 |
次代 田中隆三 |
先代 牛塚虎太郎 |
東京市長 第16代:1937年 - 1939年 |
次代 頼母木桂吉 |