孝懿仁皇后
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孝懿仁皇后 | |
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清朝皇后 | |
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在位 |
康熙28年7月9日 - 7月10日 (1689年8月23日 - 8月24日) |
別称 | 孝懿温誠端仁憲穆和恪慈恵奉天佐聖仁皇后 |
死去 |
康熙28年7月10日 (1689年8月24日) 順天府、紫禁城承乾宮 |
埋葬 | 景陵 |
配偶者 | 康熙帝 |
氏族 | トゥンギャ(佟佳)氏 |
父親 | 佟国維 |
母親 | ヘシェリ(赫舎里)氏 |
孝懿仁皇后(こういじんこうごう、満州語:ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
ᠸᡠᠵᡠᠷᡠᠩᡤᠠ
ᡤᠣᠰᡞᠨ
ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ、転写:hiyoošungga fujurungga gosin hūwangheo)は、清の康熙帝の3番目の皇后。姓はトゥンギャ(佟佳)氏(Tunggiya hala)。
経歴
[編集]康熙帝の生母の孝康章皇后の弟の佟国維の娘。母は正妻のヘシェリ氏[1]。妹は康熙帝の愨恵皇貴妃。
康熙16年(1677年)、貴妃となった。康熙20年(1681年)、皇貴妃に進んだ。女子を1人産んだが、夭折した。康熙28年(1689年)7月8日、流産[2]で重体となり、9日に皇后に立てられたが、10日に崩じた。「孝懿」と諡された。その後、夫の諡を重ねて「孝懿温誠端仁憲穆和恪慈恵奉天佐聖仁皇后」と加諡された。
弟にロンコド(隆科多)がおり、皇位継承争いでは雍正帝の擁立に貢献したが、後に誅殺された。
子女
[編集]- 皇八女(1683年7月13日 - 8月6日)− 夭逝した。名前も位号も与えられておらず、墓もなかった。火葬の後、遺灰を空地に散らした。
伝記資料
[編集]- 『清聖祖実録』
- 『清史稿』巻214 列伝一
- 『内務府奏報皇貴妃生女折』
- 『内務府奏報不満月公主病死折』