大法官
イギリス 大法官 Lord Chancellor | |
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担当機関 | 司法省 |
任命 | 国王チャールズ3世(首相の助言により) |
創設 | 1068年[1](連合王国大法官としては1707年5月) |
初代 | ハーファスト[1] |
大法官(だいほうかん、英語: Lord Chancellor)は、イングランド・イギリスの官職である。中世に創設され、イギリスに現存する官職の中で最も古い官職と言われる。
中世以来国璽の管理にあたり、その権限を通じて様々な行政上の職務を管理下に置く大臣職となった。内閣に首相が登場してくるまで主要閣僚の地位を占めており[2]、国務大官としては戴冠式の際にのみ任命される「大家令」に次ぐ地位にある。15世紀半ば頃から議会の上院(貴族院)議長も兼ねるようになった[3]。
貴族院は2009年まで最高裁判所でもあったため司法機能も有したが、貴族院議長の役割は2005年の憲法改革法により削除された(代わって貴族院議長職が新設された)。現在の大法官はイギリスの内閣における司法省を所管する閣僚職という役割に限定されている[4]。
臣下の宮中席次においてはカンタベリー大主教に次ぐ第二位であり、首相よりも上位者である[2]。
歴史
[編集]起源
[編集]その由来はエドワード懺悔王の11世紀中頃に遡ると言われている[3]。605年に創設されたとする異説もあり、イギリスに現存する最も古い官職である[2]。
始めの頃は国王の書記長だったため文字を書ける聖職者が多く任命されていた[3][5]。聖職者が兼務する場合には宮廷の礼拝堂を併せて管轄したとされる。また「Lord Chancellor」という呼称は「cancelli」(=「囲い格子」)に由来し、宮廷の礼拝堂の衝立の後方に大法官の執務の間が設置されていたからであるという説がある。
権限の拡大
[編集]12世紀初めまでに王政庁の重要職となり、国璽の管理と国璽を必要とする法令等の作成・発給などの行政事務を行った。また国政に関する国王の助言役でもあった[3]。これらの役割を通じて幅広い行政上の役割を管理するようになり、首相が登場するまでは内閣の主要閣僚の役割を果たしていく[2]。
プランタジネット朝以後、国王の行動範囲が拡大されて国王の滞在地とともに移動してきた王政庁の中で大法官の職務を維持することは次第と困難になり、やがて13世紀には王政庁の文書局部門とともに独立して、ロンドンのウェストミンスターに大法官府と呼ばれる常設官庁として設置されるに至った。この時代には職務柄故に王の宰相としての職務を行うようになる一方で、大法官府自体は単なる事務官庁と化してしまい、大法官本来の職務の重要性は低下するようになった[3]。
大法官の国璽の管理に対して、私的な印章である王璽を管理する王璽尚書があり、上記の大法官府の分離独立に伴い重要性が増した王璽が多用され、保管責任者である王璽尚書は政府高官になった[6]。また、王璽とは別に王の身近な印章である御璽(シグネット)を管理する役職に国王秘書官があり、政府の批判・監視を主張した議会の統制を嫌い寵臣政治に傾いたリチャード2世は宮廷財務室と国王秘書官室を活用、後者に属する国王秘書官は御璽で発行された王の意思表示である御璽令状作成に当たった。後にこの役職は国王秘書長官へと発達していった[7]。
14世紀に入ると、コモン・ローによって救済を得られなかった者から国王に対してなされた直接の請願・訴えを処理する大法官裁判所が併置され大法官が裁判長になり、衡平法裁判所(Court of equity)としての役割を果たす[3]。一方で大法官は財務府の一員でもあったが、職務は代理任せになり財務大臣に発展していった[3]。更に15世紀半ばにイングランド議会が上下両院に分かれると、上院(貴族院)議長を兼務するようになった[3]。
テューダー朝期には政治的発言力が増し、特にトマス・ウルジーは絶大な権勢を誇った[3]。しかしこの頃から、コモン・ローに精通した法律家が大法官になるケースが増えていき(その第一号はトマス・モアだといわれている)、1625年以後は聖職者の大法官は姿を消す[3]。また、モア以降は大法官が議会と国王の仲介者とみなされるようになる[2]。国璽尚書が大法官代理を務める例もあり、1558年にエリザベス1世により国璽尚書に任命されたニコラス・ベーコンは、女王と対立して蟄居させられた大法官ニコラス・ヒースに代わり議会運営を担当した[8]。ベーコンの息子フランシス・ベーコンは1617年に父と同じく国璽尚書に就任、翌1618年には大法官にもなった[9]。
こうして大法官は立法・行政・司法において権限を拡大させていき、イギリス憲政史においても「国王と議会および裁判所を仲介するイギリス憲法に固有の職責」として肯定的に解釈されてきた[10]。
権限の縮小
[編集]だが、一方で巨大となった大法官の権限削減の動きが現れる。まず、財政部門が切り離されて「財務府」が独立した。財務府からは王室の財政を司る「大蔵府」が分離・成立し、1721年からはその長である第一大蔵卿が首相として内閣を率いて国政の最高責任者としての地位を大法官から奪った。更に1873年の「裁判所法」制定に伴う司法改革によって、大法官府を縮小され、高等法院と上院に権限が分割され、上院が最終上級裁判所(最高裁判所)を形成し、上院議長である大法官がその長官を兼務して、治安判事以下の司法官の人事権者となった。国璽管理事務は閣僚の王璽尚書が扱うことになった。
21世紀初頭の改革
[編集]伝統的なイギリス法での考えでは、カンタベリー大主教(第一位)の次である第二位の序列にあり、イギリスの俗人としては最高の地位にある大法官が、より下位の序列にある首相によって任免されると言う矛盾した状態にある。そのうえ、大法官が最高裁判所を率いて裁判官の人事を決定するのは三権分立原則に反しているとも言え、「権力分立の歩く矛盾」と呼ばれた(貴族院では大法官も審理に加わる資格はあるが、通常審理参加を放棄する旨を表明する事となっていた)。この結果、ブレア内閣によって上院改革と平行して大法官制度の改革が行われた。
まず2003年6月12日に大法官府が廃止され、代わって憲法事項省が設置され[11]、大法官は「憲法事項大臣」の称号を帯びるようになった。憲法事項省は、大法官府が取り扱っていた登記などの民事事務を引き継ぐと共に、新たな所轄事項として憲法の成文化なども扱っている。なお、憲法事項省・憲法事項大臣は、2007年5月9日より司法省・司法大臣と改称している。
ついで2005年に「2005年憲法改革法」が成立し、上院議員の選挙で選ぶ貴族院議長と連合王国最高裁判所が設置され、大法官は立法権及び司法権における地位と権限を失った[11]。初代上院議長は2006年7月4日にヘイマン女男爵が選出され、連合王国最高裁判所は2010年10月1日に上院の常任上訴貴族(Lords of Appeal in Ordinary)12名を初代裁判官として発足した。
ブレア内閣による改革後も、必ず貴族が就任する閣僚の一つという慣習はしばらくの間守られてきた[12]。しかし2007年6月のブラウン内閣発足に際し、ジャック・ストローが庶民院(下院)議員としては史上初めて大法官に任ぜられた。その後キャメロン内閣以降の内閣で任命された大法官も全員が下院議員であり、「下院議員は上院本会議では発言できない」との慣習により、上院本会議から大法官が姿を消した状態が続いている。なお、枢密院の機関である王立委員会(Royal Commission) は、大法官が主宰し上院議場で開催される慣例になっていたが、ブラウン内閣以降は上院本会議に倣い欠席を通例とし、貴族院議長が主宰を代行している。
今日では大法官は枢密院と内閣の閣僚の一員として首相の任免権に服する事になっている。大臣としての大法官は主に民事案件と憲法成文化を司る司法省を統轄し、刑事案件を取り扱う法務長官率いる法務長官府と共に法律事務を行っている。
大法官は臣下の宮中席次においては首相よりも上位の席次であり、カンタベリー大主教に次ぐ第二位の立場にある[2]。
歴代大法官
[編集]イングランド大法官・国璽尚書 (1068–1707)
[編集]11世紀
[編集]- ハーファースト (在職1068年-1070年)
- セント・オズモンド (在職1070年-1078年) - セー伯爵およびソールズベリー司教
- モーリス (在職1078年-1085年頃) - ル・マン助祭長
- ジェラルド (在職1085年頃-1092年) - Preceptor of Rouen のちにヨーク大司教
- ロバート・ブロエット (在職1092年-1093年)
- ウィリアム・ジファード (在職1093年–1101年)
12世紀
[編集]- ロジャー・オブ・ソールズベリー (在職1101年–1102年)
- ウォルドリック (在職1102年–1107年)
- ラナルフ (在職1107年–1123年)
- ジェフリー・ルーファス (在職1123年–1133年)
- ロバート・ド・シゲロー (在職1133年–1135年[注釈 1])
- ロジャー・ル・ポーア (在職1135年–1139年)
- フィリップ・ド・ハーコート (在職1139年–1140年) - リンカーン首席司祭
- ロバート・オブ・ジェント (在職1140年–1141年) - ヨーク首席司祭
- ウィリアム・フィッツギルバート (在職1141年-1142年)
- ロバート・オブ・ジェント (在職1142年–1154年) - ヨーク首席司祭
- トマス・ベケット (在職1155年-1162年) - カンタベリー大司教
- ジェフリー・リデル (在職1162年–1173年) - カンタベリー大助祭
- ラルフ・ド・ウォーンヴィル (在職1173年–1181年) - ヨーク会計(Treasurer of York)
- ジェフリー (在職1181年–1189年)
- ウィリアム・ロングチャンプ (在職1189年–1197年) - エリー司教
- ユースタス (在職1197年–1199年[注釈 2]) -
13世紀
[編集]- ヒューバート・ウォルター (在職1199年–1205年) - カンタベリー大司教
- ウォルター・ド・グレイ (在職1205年–1214年) - リッチフィールド司教、ウスター司教、ヨーク大司教
- リチャード・マーシュ (在職1214年–1226年) - 1217年からダラム司教
- ラルフ・ネヴィル (在職1226年–1240年) - チチェスター司教
- リチャード・ル・グラース (在職1240年-1242年) - イヴシャム大修道院院長
- ラルフ・ネヴィル (在職1242年-1244年) - チチェスター司教
- シルベスター・ド・エヴァードン (在職1244年-1246年) - チェスター大助祭
- ジョン・マンセル (在職1246年–1247年) - ビバリー大聖堂主席司祭
- サー・ジョン・レキシントン (在職1247年–1248年)
- ジョン・マンセル (在職1248年–1249年)
- サー・ジョン・レキシントン (在職1249年–1250年)
- ウィリアム・オブ・キルケニー (在職1250年–1255年)
- ヘンリー・ウィンガム (在職1255年–1260年) - 1259/1260年からロンドン司教
- ニコラス・オブ・エリー (在職1260年–1261年) - エリー大助祭
- ウォルター・ド・マートン (在職1261年-1263年) - バース大助祭
- ニコラス・オブ・エリー (在職1263年) - エリー大助祭
- ジョン・チスハル (在職1263年-1264年) - ロンドン大助祭
- トマス・カンティループ (在職1264年-1265年) - スタッフォード大助祭
- ラルフ・サンドウィッチ (在職1265年[注釈 1])
- ウォルター・ジファード (在職1265年–1266年) バース及びウェルズ司教
- ゴドフリー・ジファード (在職1266年–1268年) ウェルズ大助祭
- ジョン・チスハル (在職1268年–1269年) セント・ポールズ首席司祭
- リチャード・ミドルトン (在職1269年–1272年) - ノーサンバーランド大助祭
- ウォルター・ド・マートン (在職1272年–1274年) - バース大助祭
- ロバート・バーネル (在職1274年–1292年) - バース司教
- トマス・ベク (在職1279年[注釈 1]) - ドーセット大助祭
- ジョン・ラントン (在職1292年-1302年) - リンカーン大聖堂参事会会員(Canon of Lincoln)
14世紀
[編集]- ウィリアム・グリーンフィールド (在職1302年-1305年) - チチェスター首席司祭
- ウィリアム・ハミルトン (在職1305年–1307年) - ヨーク首席司祭
- ラルフ・バルドック (在職1307年) - ロンドン司教
- ジョン・ラントン (在職1307年-1310年) - チチェスター司教
- ウォルター・レイノルズ (在職1310年–1314年) - ウスター司教
- ジョン・サンデール (在職1314年-1318年) - リンカーン大聖堂参事会会員(Canon of Lincoln)
- ジョン・ホーサム (在職1318年-1320年) - エリー司教
- ジョン・サーモン (在職1320年-1323年) - ノーリッチ司教
- ロバート・バルドック (在職1323年-1326年) - ミドルセックス大助祭
- William Ayermin (在職1326年-1327年) - ノーリッチ司教
- ジョン・ホーサム (在職1327年-1328年) - エリー司教
- ヘンリー・バーガーシュ (在職1328年-1330年) - リンカーン司教
- ジョン・ド・ストラトフォード (在職1330年-1334年) - ウィンチェスター司教
- リチャード・バリー (在職1334年-1335年) - ダラム司教
- ジョン・ド・ストラトフォード (在職1335年-1337年) - カンタベリー大司教
- ロバート・ド・ストラトフォード (在職1337年-1338年) - チチェスター司教
- リチャード・ビントワース (在職1338年-1339年) - ロンドン司教
- ジョン・ド・ストラトフォード (在職1340年) - カンタベリー大司教
- ロバート・ド・ストラトフォード (在職1340年) - チチェスター司教
- サー・ロバート・バウチャー (在職1340年–1341年)
- サー・ロバート・パーニング (在職1341年–1343年)
- サー・ロバート・サンディントン (在職1343年–1345年)
- ジョン・ド・アフォード (在職1345年–1349年) - リンカーン首席司祭
- ジョン・ソアーズビー (在職1349年–1356年) - ウスター司教
- ウィリアム・エディントン (在職1356年–1363年) - ウィンチェスター司教
- シモン・ランガム (在職1363年-1367年) - エリー司教
- ウィリアム・オブ・ワイカム (在職1367年-1371年) ウィンチェスター司教
- サー・ロバート・ソープ (在職1371年–1372年)
- サー・ジョン・ナイヴィット (在職1372年–1377年)
- アダム・ホートン (在職1377年-1378年) - セント・デイヴィズ司教
- ボルトンの初代スクロープ男爵リチャード・スクロープ (在職1378年–1380年)
- シモン・サドバリー (在職1380年–1381年) - カンタベリー大司教
- ヒュー・セグレイヴ (在職1381年[注釈 1])
- ウィリアム・コートネイ[要リンク修正] (在職1381年) ロンドン司教
- ボルトンの初代スクロープ男爵リチャード・スクロープ (在職1381年–1382年)
- ロバート・ブレイブルック (在職1382年-1383年) - ロンドン司教
- 初代ド・ラ・ポール男爵マイケル・ド・ラ・ポール (在職1383年–1386年) - 後にサフォーク伯爵に叙される。
- トマス・アランデル (在職1386年–1389年) - エリー司教
- ウィリアム・オブ・ウィカム (在職1389年–1391年) - ウィンチェスター司教
- トマス・アランデル (在職1391年-1396年) - ヨーク大司教
- エドムンド・スタッフォード (在職1396年-1399年) - エクセター司教
- トマス・アランデル (在職1399年) - カンタベリー大司教
15世紀
[編集]- ジョン・スカーレ (在職1399年-1401年) - リンカーン大助祭
- エドムンド・スタッフォード (在職1401年–1403年) - エクセター司教
- ヘンリー・ボーフォート (在職1403年–1405年) - リンカーン司教
- トマス・ラングレー (在職1405年-1407年) - ヨーク首席司祭
- トマス・アランデル (在職1407年-1410年) - カンタベリー大司教
- トマス・ボーフォート (在職1410年–1412年)
- トマス・アランデル (在職1412年-1413年) - カンタベリー大司教
- ヘンリー・ボーフォート (在職1413年–1417年) - ウィンチェスター司教
- トマス・ラングレー (在職1417年–1424年) - ダラム司教
- ヘンリー・ボーフォート (在職1424年-1426年) - ウィンチェスター司教
- ジョン・ケンプ (在職1426年-1432年) - ヨーク大司教
- ジョン・スタッフォード (在職1432年-1450年) - バース司教。後にカンタベリー大司教
- ジョン・ケンプ (在職1450年-1454年) - ヨーク大司教
- 第5代ソールズベリー伯爵リチャード・ネヴィル (在職1454年–1455年)
- トマス・バウチャー (在職1455年-1456年) - カンタベリー大司教
- ウィリアム・ウェインフレット (在職1456年-1460年) - ウィンチェスター司教
- ジョージ・ネヴィル (在職1460年-1467年) - エクセター司教
- ロバート・スティリントン (在職1467年-1470年) - バース司教
- ジョージ・ネヴィル (在職1470年–1471年) - ヨーク大司教
- ロバート・スティリントン (在職1471年-1473年) - バース司教
- ローレンス・ボース (在職1473年-1474年) ダラム司教
- ジョン・オールコック (在職1475年) - ロチェスター司教
- トマス・ロザーアン (在職1475年-1483年) - リンカーン司教
- ジョン・ラッセル (在職1483年-1485年) - リンカーン司教
- トマス・ロザーアン (在職1485年) - ヨーク大司教
- ジョン・ラッセル (在職1485年-1486年) - ウスター司教
- ジョン・モートン (在職1486年-1500年) - カンタベリー大司教
1500年–1654年
[編集]議会の国璽の委員 1643年–1660年
[編集]名前[13] |
---|
委員会制(1643年11月-1646年10月) |
委員会制(1646年-1648年) |
委員会制(1648年-1649年) |
委員会制(1649年-1654年) |
委員会制(1654年-1656年) |
委員会制(1656年-1659年) |
委員会制(1659年1月-1659年6月) |
委員会制(1659年6月-1660年) |
委員会制(1660年) |
1660年王政復古から1707年合同法まで
[編集]肖像 | 名前 | 在任期間 | 国王 (在位) |
---|---|---|---|
初代クラレンドン伯爵[注釈 14] エドワード・ハイド |
1658年1月13日 -1667年8月30日 |
チャールズ2世 (1660–1685) | |
初代準男爵 サー・オーランド・ブリッジマン |
1667年8月31日 -1672年11月17日[注釈 1] | ||
初代シャフツベリ伯爵 アンソニー・アシュリー=クーパー |
1672年11月17日 -1673年11月9日 | ||
初代ノッティンガム伯爵[注釈 15] ヘンエッジ・フィンチ |
1673年11月9日 -1682年12月18日[注釈 16] | ||
初代ギルフォード男爵[注釈 17] フランシス・ノース |
1682年12月20日 -1685年9月5日[注釈 1] | ||
ジェイムズ2世 (1685–1688) | |||
初代ジェフリーズ男爵 ジョージ・ジェフリーズ |
1685年9月28日 -1688年12月[注釈 1] | ||
委員会制(1689年-1690年) サー・ジョン・メイナード サー・アンソニー・ケック サー・ウィリアム・ローリンソン |
メアリー2世 (1689–1694) & ウィリアム3世 (1689–1702) | ||
委員会制(1690年5月14日-1693年3月22日) サー・ジョン・トレヴァー サー・ウィリアム・ローリンソン サー・ジョージ・ハッチンズ | |||
初代サマーズ男爵[注釈 18] サー・ジョン・サマーズ |
1693年3月23日 -1700年4月27日[注釈 19] | ||
委員会制(1700年4月27日-1700年5月31日) サー・ジョン・ホルト サー・ジョージ・トレビー サー・エドワード・ワード | |||
サー・ネーサン・ライト | 1700年5月31日 -1705年10月11日[注釈 1] | ||
アン (1702–1714) | |||
初代クーパー男爵[注釈 20] ウィリアム・クーパー |
1705年10月11日 -1707年5月4日[注釈 1] |
イギリス大法官・国璽尚書 (1707年–現在)
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 国璽尚書
- ^ 1198年まで国璽尚書
- ^ 1504年まで国璽尚書
- ^ 在職中の1538年にウォルデンのオードリー男爵に叙される
- ^ 在職中の1548年にリッチ男爵に叙される
- ^ 在職中の1603年にエレズミア男爵、1616年にバックリー子爵に叙される
- ^ 1603年7月19日までは国璽尚書
- ^ 在職中の1618年にヴェルーラム男爵、1621年にセントオルバン子爵に叙される
- ^ 1618年までは国璽尚書
- ^ 在職中の1628年にコヴェントリー男爵に叙される
- ^ 1649年から亡命宮廷
- ^ 1646年7月に死去
- ^ ボリングブルック伯爵の後任
- ^ 在職中の1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙される
- ^ 在職中の1681年5月12日にノッティンガム伯爵に叙される
- ^ 1675年までは国璽尚書
- ^ 在職中の1683年にギルフォード男爵に叙される
- ^ 在職中の1697年にサマーズ男爵に叙された
- ^ 1697年まで国璽尚書
- ^ 在職中の1706年にクーパー男爵に叙される
- ^ 1713年までは国璽尚書
- ^ 1721年にマクルズフィールド伯爵に叙される[15]
- ^ 就任時の爵位はハードウィック男爵。在職中の1754年にハードウィック伯爵に叙される
- ^ 1760年にヘンリー男爵に叙され、1764年にノーティントン伯爵に叙される[16]
- ^ 1761年までは国璽尚書
- ^ プリンス・オブ・ウェールズが1811年2月5日から摂政皇太子
- ^ 在任中の1771年にアプスリー男爵に叙され、1775年にバサースト伯爵位を継承
- ^ 1799年にエルドン男爵、1821年にエルドン伯爵に叙される[17]
- ^ 1867年からケアンズ男爵。在職中の1878年にケインズ伯爵に叙される[18]
- ^ 1872年からセルボーン男爵。在職中の1882年にセルボーン伯爵に叙される[19]
- ^ 1885年からハルズベリー男爵、1898年にハルズベリー伯爵に叙される[20]
- ^ 1906年にロレバーン男爵、1911年にロレバーン伯爵に叙される[21]
- ^ Baron Birkenhead from 1919年からバーケンヘッド男爵、在職中の1921年にバーケンヘッド子爵、1922年にバーケンヘッド伯爵に叙される[22]
- ^ 1929年からサンキー男爵、在職中の1932年にサンキー子爵に叙される[23]
- ^ 1945年からジョウィット男爵、在職中の1947年にジョウィット子爵に叙される[24]
出典
[編集]- ^ a b wikipedia英語版「List of Lord Chancellors and Lord Keepers」に基づく。
- ^ a b c d e f 高野敏樹 2010, p. 85.
- ^ a b c d e f g h i j 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 135.
- ^ 高野敏樹 2010, p. 84-85.
- ^ 青山吉信 1991, p. 224.
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 604.
- ^ 青山吉信 1991, p. 381,401.
- ^ 石井美樹子 & 2009年, p. 230,245,373.
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 49.
- ^ 高野敏樹 2010, p. 86.
- ^ a b 高野敏樹 2010, p. 84.
- ^ ブレア内閣での大法官はライアグのアーバイン男爵(1997年5月 – 2003年6月)、ついでソーントンのファルコナー男爵(2003年6月 – 2007年6月)であった。
- ^ Cook and Wroughton, English Historical Facts, 1603–1688, PP 8–9
- ^ Geoffrey Treasure, ‘Cowper, William, first Earl Cowper (1665–1723)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, September 2004; online edn, January 2009 accessed 27 March 2009
- ^ "No. 5986". The London Gazette (英語). 29 August 1721. p. 1.
- ^ "No. 10418". The London Gazette (英語). 15 May 1764. p. 4.
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- ^ "No. 28514". The London Gazette (英語). 18 July 1911. p. 5349.
- ^ "No. 32776". The London Gazette (英語). 12 December 1922. p. 8793.
- ^ "No. 33795". The London Gazette (英語). 2 February 1932. p. 703.
- ^ "No. 37860". The London Gazette (英語). 21 January 1947. p. 411.
参考文献
[編集]- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lord High Chancellor". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 3.
- 青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史~中世-』山川出版社、1991年。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
- 石井美樹子『エリザベス 華麗なる孤独』中央公論新社、2009年。
- 高野敏樹『イギリスにおける「憲法改革」と最高裁判所の創設 イギリスの憲法伝統とヨーロッパ法体系の相克』(PDF)上智短期大学、2010年 。