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三淵震三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みぶち しんざぶろう

三淵震三郎
生誕 1911年4月11日
福島県
洗礼 キリスト教カトリック
死没 (1969-03-20) 1969年3月20日(57歳没)
神奈川県
国籍 日本
出身校 早稲田大学
職業 保険事業家
配偶者 たい(反町茂作の子)
三淵忠彦(のち初代最高裁判所長官)
親戚 三淵嘉子石渡慎五郎石渡敏一白仁武反町茂作浜口檐近藤廉平(兄弟の婚族)、堀維孝(親の婚族)
家族 三淵乾太郎、三淵多摩、萱野章次郎、他
補足
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三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1969年3月20日)は、日本の保険事業家三淵忠彦の三男。

略歴

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1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。

1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業[1]。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。

1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任[2]。のち、常務を務めた。

妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。

自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。

1969年3月20日、心不全により神奈川県の自宅で死去。葬儀は雪の下教会で行われた[3]

家族

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系図

関連項目

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脚注

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注釈
  1. ^ 当時の長崎府知事は公卿澤宣嘉長崎裁判所総督兼九州鎮撫使参謀は薩摩藩藩士の野村盛秀であった。
  2. ^ 長修とともに切腹を命じられたと見られる。
  3. ^ 敏一息子の嫁に日本郵船社長の白仁武の子がいた。
出典
  1. ^ 人事興信所 「全日本紳士録 昭和34年版」。1959年
  2. ^ ダイヤモンド社 1942.
  3. ^ 「Insurance」。1969年。
  4. ^ 司法の新制度確立に尽力した会津人三淵忠彦あいづ人物伝、会津若松市
  5. ^ 牧野登『紙碑・東京の中の会津』(歴史調査研究所、1980年)p.137
  6. ^ a b c 教材「ろくをさばく」考(1)筆者・三淵忠彦を中心に佐野比呂己、北海道教育大学紀要 (教育科学編) 第五十九巻 第一号 平成二十年八月
  7. ^ 『人事興信録 6版』(人事興信所、1921年)ほ6頁
  8. ^ 『私の会った明治の名法曹物語』小林俊三 日本評論社 1974、p272
  9. ^ 白鳥尭助サンパウロ人文科学研究所
  10. ^ 大衆人事録 昭和3年版「三淵忠彦」

参考文献

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