ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー Rainer Werner Fassbinder | |||||||||||||||
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別名義 | フランツ・ヴァルシュ[注 1] | ||||||||||||||
生年月日 | 1945年5月31日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1982年6月10日(37歳没) | ||||||||||||||
出生地 |
連合国軍占領下のドイツ バイエルン自由州 バート・ヴェリスホーフェン | ||||||||||||||
死没地 |
ドイツ連邦共和国 バイエルン自由州 ミュンヘン | ||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家、舞台演出家、俳優、作家 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、テレビ、演劇 | ||||||||||||||
活動期間 | 1966年 - 1982年 | ||||||||||||||
配偶者 |
イングリット・カーフェン (1970年 - 1972年) ユリアーネ・ローレンツ (1978年 - 1982年) | ||||||||||||||
公式サイト | RWFF | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
『マリア・ブラウンの結婚』 『不安は魂を食いつくす』 『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』 『四季を売る男』 | |||||||||||||||
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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー (Rainer Werner Fassbinder, 1945年5月31日 - 1982年6月10日) は、ドイツの映画監督、脚本家、舞台演出家、俳優。ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人として知られる。16年間で44本の映画、14本の戯曲、6本の脚色戯曲、4本のラジオドラマを発表した[2]。
ファスビンダーは1969年から長編映画の製作を開始した(それ以前に短編映画が3本ある)。フランスのジャン=リュック・ゴダールなどヌーヴェルヴァーグの諸作品、またジョン・ヒューストンやラオール・ウォルシュ、ハワード・ホークスといったアメリカのクライムフィルムの影響下に出発し、1971年以降はダグラス・サークのメロドラマに強い影響を受けた[3]。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1945年5月31日[注 2]、バイエルン自由州のバート・ヴェリスホーフェンで医者の父ヘルムート・ファスビンダー[注 3]と翻訳家の母リーゼロッテ[注 4]の家庭に生まれた。1951年、両親が離婚すると母親の手で一人息子として育てられた。ルドルフ・シュタイナー学校を卒業後[4] [注 5]、16歳で高校を中退した後はケルンの父親の元に身を寄せた[4]。
早くから映画への関心を募らせていたが、映画学校で製作を学ぶという志望は叶わず、南ドイツ新聞の資料室の事務助手[8]やバイエルン国立歌劇場でのエキストラなどのアルバイトなどをしながら、1964年から二年間ミュンヘンの私立の俳優養成学校に通った[5][4]。1996年9月に新設された映画大学「ドイツ映画・テレビ大学ベルリン(DFFB)」に入学願書を提出したが、不合格となっている[4][9]。1966年に初めて2本の短編映画を製作し、翌年には初めての35ミリ短編映画『小カオス』を製作した[5][注 6]。また、1967年から俳優として他の監督の作品への出演も始めている[5][11][12]。
演劇時代の幕開け : アクツィオン・テアーターとアンチテアター
[編集]1967年に、演出家兼俳優としてミュンヘンの小劇場(劇団)「アクツィオン・テアーター(行動劇場, Aktion-Theater)」に参加した[13][5][注 7]。初めて単独で演出を担当した舞台は1967年、フェルディナント・ブルックナー[注 8]の1928年の戯曲『犯罪者』[注 9]だった[16][注 10]。「この頃から多くの演劇グループとの交流を始めた。同劇場解散後の1968年5月、ペール・ラーベン[注 11]ら仲間たちと劇団「アンチテアター(反劇場)」を結成[13]。このグループにはファスビンダー映画の常連となるメンバーがすでに顔を揃えている。1968年から1971年の間、ファスビンダーはこれらのグループのほぼ全ての戯曲を執筆し、演出家として上演した。これらは舞台演劇として上演された後、短期間で映画としても再製作された。ファスビンダーは舞台演劇の演出と映画製作を混交させるスタイルを用いた。
1969年からはアンチテアターのメンバーらとともに長編映画の製作も始め、初の長編であるギャング映画『愛は死より冷酷』を製作[18]。続いて同年、自作の戯曲を元に自身が演じる外国人労働者を登場させた映画『出稼ぎ野郎』を発表し、1970年のドイツ映画賞(長編映画賞)を受賞するなど話題となった[19]。1970年から1971年の二年間には『悪の神々』(1970年)や『聖なるパン助に注意』(1971年)など、テレビ映画・テレビ演劇も含めて10本の映像作品を矢継ぎ早に発表した。
ファスビンダーはグループのメンバーを自身の周囲に結束させ、影響力を発揮し始めた。ある種の擬似家族になったグループは、彼の創作への情熱を引きつける避雷針でもあったという。このグループにはファスビンダーの公私に渡るパートナーたちも参加していた。『ホワイティ』撮影後の1970年[20]から1972年までファスビンダーは女優のイングリット・カーフェンと結婚していた。ファスビンダーは歌手でもあったカーフェンのためにシャンソンの歌詞も数曲製作した。その間、男優のエル・ヘディ・ベン・サレムとも関係を持っていた。
国際的名声
[編集]1972年以降、ファスビンダーは自身の映画言語を発展させ、より長大でプロフェッショナルな作品を製作した。女性だけが登場する『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972年)、ダグラス・サーク監督の『天はすべて許し給う』にオマージュを捧げた『不安は魂を食いつくす』(1974年)、テレビ映画『マルタ』(1974年)、初めてゲイを題材に取り上げた 『自由の代償』(1975年)などを立て続けに発表。ベルリン国際映画祭へ出品を重ね、無冠のまま批評家から最高の賛辞を受けた。1974年には『不安は魂を食いつくす』は第28回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞とエキュメニカル審査員賞を、『マルタ』は英国映画協会サザーランド杯を受賞した。これらの作品によって、ヴィム・ヴェンダースやヴェルナー・ヘルツォークとともにニュー・ジャーマン・シネマの担い手として、国内外でその名が知られるようになった。
1974年から1977年の間、ドイツの独立映画作家集団(映画配給会社)Filmverlag der Autoren[注 12]に参加していた。
『ゴミ、都会そして死』を巡る論争
[編集]1972年と1973年にボーフムの劇場で演出を担当。その後、1974年にはフランクフルトの劇場テアター・アム・トゥルム(TAT劇場、Theater am Turm)の監督の一人に就任し[22]、『ジェルミナル』(ゾラ原作、カルズンケによる改作)、『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)を演出した[23](翌年辞任[24])。1974年に自作の戯曲『ゴミ、都会そして死(塵、都会、死) Der Müll, die Stadt und der Tod』[25]の演出を手がけ、舞台演出家としての最高潮を迎えた。しかし、本作の登場人物の一人が不動産で成り上がったユダヤ人であり、明らかに批評家のイグナツ・ブービス[注 13]を連想させるものだったため、ファスビンダーはブービスら批評家から反ユダヤ的という非難を受けた。これにより、同作は1970年代から80年代にかけて議論を呼ぶことになった。1976年にダニエル・シュミットによって『天使の影』として映画化され、ファスビンダーは俳優として出演した。1980年代にはフランクフルト劇場での初回上演の際、ステレオタイプのユダヤ人像に対する抗議デモが発生。デモ隊によって劇場内の舞台が占拠されたため、上演が中止された。この抗議デモ後、ドイツ国内での再上演計画が白紙に戻された。ただし、イスラエルでは特に抗議もなく上演された。
オーバーワーク
[編集]1977年、“ドイツの秋”の語源となった共作映画『秋のドイツ』(1978年公開)の製作にアレクサンダー・クルーゲ監督の呼びかけで参加。ファスビンダーの担当パートに出演したアルミン・マイアーは1974年からファスビンダーと恋愛関係にあったが、大量の睡眠薬を飲んで1978年5月に自殺した[24]。マイアーの死に衝撃を受けたファスビンダーは同年、自身が監督・脚本・撮影・編集・美術を担当し25日間の撮影で『13回の新月のある年に』を撮り上げ[26]、同年のシカゴ国際映画祭でブロンズ・ヒューゴ賞を受賞した。
その後、1979年公開の『マリア・ブラウンの結婚』は第29回ベルリン国際映画祭で絶賛されて主演のハンナ・シグラが銀熊賞 (女優賞)を受賞し、今日ではファスビンダーの代表作として知られる。また、1982年の『ベロニカ・フォスのあこがれ』は第32回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で最優秀賞の金熊賞を受賞した。これらの作品は1981年の『ローラ』と合わせて、第二次世界大戦後のドイツの経済復興期を描いた「西ドイツ三部作(BRD Trilogy)」として知られる[27]。
また、1980年には現代ドイツ文学の傑作とされるアルフレート・デーブリーンの小説(1929年刊)を原作として全14話、約15時間におよぶ西ドイツ初の大規模な連続テレビ映画『ベルリン・アレクサンダー広場』を製作した[28][29]。世界各地の映画祭での特別上映は話題を呼んだが、西ドイツ国内では放送当初から非難の嵐を浴びて再放送もおこなわれず、一度は幻の作品となった[28]。しかし、のちに各地の映画祭やレトロスペクティブを中心にマラソン上映で劇場公開もおこなわれ[要出典]、日本では2000年に劇場初公開されている[30]。
ファスビンダーは1970年代までのドイツ映画史に特筆すべき女性キャラクターを生み出したことでも知られる。ハンナ・シグラが演じたマリア・ブラウン(『マリア・ブラウンの結婚』)やリリー・マルレーン(『リリー・マルレーン』)、バルバラ・スコヴァが演じたローラ(『ローラ』)は映画史に残るキャラクターとしてだけでなく、女優自身の魅力を引き出し、彼女たちの国際的評価への足がかりとなった。
死去
[編集]1982年6月10日、ファスビンダーはジャン・ジュネの小説『ブレストの乱暴者』を映画化した『ケレル』の編集作業中、コカインの過剰摂取により37歳で死去した[注 14]。ファスビンダーの棺はミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地に埋葬された。ファスビンダーの死後、完成した遺作『ケレル』は第39回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、マルセル・カルネに激賞された[要出典]。
ファスビンダーは1978年から死去まで、彼の映画の編集を担当していた女性ユリアーネ・ローレンツと暮らしており、1978年には米国のフロリダ州フォートローダーデールで結婚もしていた。だが、ドイツでは法的に有効な結婚とは認められないため、彼の遺産はファスビンダーの両親が相続することになった。母リーゼロッテ・エーダーは1986年にライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団(RWFF)をミュンヘンに設立し、遺産を移管した[2]。没後10周年の1992年には最初の大規模なファスビンダー回顧展がニューヨークのMoMA、パリのポンピドゥー・センターでおこなわれ[31][2]、本部をベルリンに移転したRWFFをローレンツが引き継いだ[2][注 15]。財団はファスビンダーの芸術的遺産のすべての権利を保有管理している[2]。
監督作品
[編集]- ディス・ナイト This Night (1966年) 短編[注 16]
- 宿なし(都会の放浪者) Der Stadtstreicher (1966年) 短編[注 17]
- 小カオス Das kleine Chaos (1966年) 短編[注 18]
- 愛は死より冷酷(愛は死より冷たい) Liebe ist kälter als der Tod (1969年)[注 19]
- 出稼ぎ野郎 Katzelmacher (1969年)[注 20]
- 悪の神々 Götter der Pest (1970年)[注 21]
- コーヒー店 Das Kaffeehaus (1970年) テレビ映画[注 22]
- 何故R氏は発作的に人を殺したか? Warum läuft Herr R. Amok? (1970年)[注 23]
- アメリカの兵隊 Der Amerikanische Soldat (1970年)[注 24]
- ニクラスハウゼンの旅(ニクラスハウゼンへの旅) Die Niklashauser Fart (1970年) テレビ映画[注 25]
- リオ・ダス・モルテス Rio das Mortes (1971年) テレビ映画[注 26]
- インゴルシュタットの工兵隊 Pioniere in Ingolstadt (1971年) テレビ映画[注 27][注 28]
- ホワイティ Whity (1971年)[注 29]
- 聖なるパン助に注意 Warnung vor einer heiligen Nutte (1971年)[注 30]
- 四季を売る男(季節を売る男) Händler der vier Jahreszeiten (1971年)[注 31]
- ペトラ・フォン・カントの苦い涙 Die bitteren Tränen der Petra Von Kant (1972年)
- ブレーメンの自由 Bremer Freiheit (1972年) テレビ映画[注 32]
- 八時間は一日にあらず Acht Stunden sind kein Tag (1972年 - 1973年) テレビシリーズ[注 33]
- 獣道 Wildwechsel (1973年) テレビ映画[注 34]
- あやつり糸の世界 Welt am Draht (1973年) テレビシリーズ[注 35]
- ノーラ Nora Helmer (1974年) テレビ映画[注 36]
- 不安は魂を食いつくす(不安と魂) Angst essen Seele auf (1974年)
- マルタ Martha (1974年) テレビ映画[注 37]
- エフィ・ブリースト Fontane Effi Briest (1974年)[注 38]
- 自由の代償 (自由の暴力)Faustrecht der Freiheit (1975年)
- 電線にとまった鳥のように Wie ein Vogel auf dem Draht (1975年) テレビ映画[注 39]
- キュスタース小母さんの昇天 Mutter Küsters Fahrt zum Himmel (1975年)[注 40]
- 不安が不安 Angst vor der Angst (1975年) テレビ映画
- 少しの愛だけでも Ich will doch nur, dass ihr mich liebt (1976年) テレビ映画
- 悪魔のやから Satansbraten (1976年)
- シナのルーレット Chinesisches Roulette (1976年)[注 41]
- ニューヨークの女 Frauen in New York (1977年) テレビ映画[注 42]
- 哀れなボルヴィーザー Bolwieser (1977年) テレビ映画[注 43]
- 秋のドイツ Deutschland Im Herbst (1978年) オムニバス[注 44]
- デスペア 光明への旅 Despair - Eine Reise Ins Licht (1978年)[注 45]
- 13回の新月のある年に In einem Jahr mit 13 Monden (1978年)[注 46]
- マリア・ブラウンの結婚 Die Ehe der Maria Braun (1979年) ※西ドイツ三部作
- 第三世代 Die dritte Generation (1979年)
- ベルリン・アレクサンダー広場 Berlin Alexanderplatz (1980年) テレビシリーズ[注 47]
- リリー・マルレーン Lili Marleen (1981年) [注 48]
- シアター・イン・トランス Theater in Trance (1981年) ドキュメンタリー[注 49]
- ローラ Lola (1981年)[注 50] ※西ドイツ三部作
- ベロニカ・フォスのあこがれ Die Sehnsucht der Veronika Voss (1982年) ※西ドイツ三部作
- ケレル Querelle (1982年)
評価
[編集]- 「ファスビンダーは、70年代に映画を志した若い監督たちの道標でした。私達にとって彼は、当時、10年前にゴダールが持っていたのと同じくらいの影響力がありました。いずれにしろドイツ映画の新しい波は、それまで動きのなかった映画界に活気を与えたのです。『不安と魂』は、私にとってファスビンダーの最も重要な作品です。この作品の飾り気のない人間的なリアリズムは、私が僭越ながらも自分の映像スタイルと呼ぶものに、多大な影響を与えました。」──アキ・カウリスマキ[83]
- 「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、『ゴダール映画の全作品が互いに関係しあう作り方』に刺激されたと述べている。確かにファスビンダーの遺した40数本の映像作品は、一人の作家がどれだけ多様に自身のテーマを追求できるかの究極的事例だ。」──渋谷哲也[84]
- 「ファスビンダーはもっぱら自己のエゴ、自分の恐怖や希望を作品の採石場として利用しているが、このような映画監督はドイツには存在しないし、彼以外であればウディ・アレン、イングマール・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニぐらいである。素材としての自己とのけたたましい戦闘こそ、天才という申し分ない名声と同時に精神病患者の汚名をも彼にもたらしたのだ。」──ヴォルフガング・リマー[85]
- 「ファスビンダーを見ることは、現代映画の成り立ちとありようを根本的に分析するための、絶好の機会でもある。現代映画の諸問題がすでにファスビンダーにおいて端的に表れている。芸術性と娯楽性といった問題を越えた、リアリズムと空想のはざま、楽観主義と悲観主義のはざま、B級趣味とゴージャスのはざま、ハリウッドメロドラマとヌーヴェルヴァーグのはざま、ジェンダーとセクシャリティ、政治性とニヒリズムのはざまetc. etc. といったふうに、現代映画に横たわる問題の根源が、早くもファスビンダーにおいて一揃いで混在している。だから、私たちはファスビンダーを見るとき、現今の新作以上にとまどいと生々しさを抱かざるをえないのである。」──荻野洋一[86]
- 「だが〔ファスビンダーは〕そうした厄介なテーマを提示しつつも、観客を飽きさせない娯楽映画の方法論を守り続けた。彼は戦後ドイツにおいて映画産業の外部で映画活動に徹しながらプロの映画作法を身につけ、元来対抗文化であった「新しいドイツ映画」をメインストリームに押し上げた貴重な存在なのである。」──『13回の新月のある年に』『第三世代』公式サイト[87]
- 「ファスビンダーの作品は、第2次大戦後の西ドイツを舞台に、驚異的な高度経済成長に恵まれながらも、社会の周縁に生きることになった人々の姿を通して、社会の矛盾や人間性の本質に肉迫していく。『自由の代償』や『シナのルーレット』『ケレル』ではゲイ、『ペトラ・フォン・カントの涙』ではレズビアン、そして、『13回の新月の夜に』ではトランスジェンダーが登場する。セクシャルマイノリティだけではなく、『出稼ぎ野郎』『不安と魂』では外国人労働者など、マイノリティに対する視点が顕著で、そうした主題をドラマとしてうまくとらえている。」──北条貴志[88]
- 「彼〔ファスビンダー〕の影響は、ファスビンダーが19歳の時に書いた戯曲をもとに撮った『焼け石に水』を撮ったフランソワ・オゾン、 が〔まず〕念頭に浮かぶが、フランソワ・トリュフォーやダニエル・シュミット、『ピンク・フラミンゴ』のジョン・ウォーターズ[注 51]や『エデンより彼方に』のトッド・ヘインズなども彼の影響を受けたと告白している。スーザン・ソンタグが絶賛し、アムステルダム大学のトーマス・エルセッサー[注 52]はファスビンダーを中心に、映画における「メロドラマ」というジャンルを確立し、日本においても四方田犬彦などが精力的に作品を紹介している。」──早稲田大学 山本浩司研究室[91]
備考
[編集]- フランソワ・オゾン監督の映画『焼け石に水』(2000年)は、ファスビンダーが19歳で書いた戯曲(未発表)を映画化したもの[92]。
- フランソワ・オゾン監督の映画『苦い涙(Peter Von Kant)』(2022年)は、ファスビンダーの戯曲『ペトラ・フォン・カントの苦い涙(Die bitteren Tränen der Petra Von Kant)』をリメイクしたもの[93]。
- 6歳年長の映画監督ルドルフ・トーメは2015年来日時のインタビューでファスビンダーについて、「ええ、彼は私の映画をとても評価してくれて、『紅い太陽〔Rote Sonne〕』は大好きだと言っていました[注 53]。自分は彼が虚栄心が強かったり目立ちたがりだったとは思いません。彼は他の〔ニュー・ジャーマン・シネマの〕人々とは違っていました。」とその印象を述べている[95]。
文献案内
[編集]- 日本へのファスビンダーの熱心な紹介者として明石政紀、渋谷哲也などがいる。
- 日本語で読めるファスビンダーを論じるまとまった書籍としては、2005年刊行の渋谷哲也・平沢剛編集の『ファスビンダー』現代思潮新社(エートル叢書)が基本書である[注 54]。参考文献欄参照。
- ファスビンダー自身の文章を集めた著作集の日本語訳として『映画は頭を解放する』(勁草書房)がある[注 55]。巻末に訳者明石政紀による「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画、演劇、略歴」(pp. 171-225)を収載。「フィルモグラフィー/解説」「演劇リスト」「略歴」の三節からなり、「フィルモグラフィー/解説」はスタッフ・撮影時期・撮影場所などを網羅した詳細なものである。参考文献欄を参照。
- 日本語で読める単行本として、古いものだが、ヴォルフガング・リマー『R・W・ファスビンダー : ニュー・ジャーマン・シネマの旗手』(欧日協会)がある[注 56]。第一部「傷口を抉る者はまだ死んではいない」は9本のエッセーからなり、演劇人としてのファスビンダーにも多く触れている。第二部「インタビュー : 理性的なものには興味がない」(pp. 99-174)は計9時間に及ぶファスビンダーへのロング・インタビュー[98]。第三部「R・W・ファスビンダー全作品」(pp. 175-283)は、演劇を含む詳細なリストに加え、ファスビンダーへのインタビュー記事やドイツでの関連出版物のリストを含む[注 57]。参考文献欄参照。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ Franz Walsch. 主として映画の編集を担当した際のクレジットに用いられた。名のFranzはドイツの作家アルフレート・デーブリーンの小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公の名前から、姓のWalschはアメリカの映画監督ラオール・ウォルシュの姓をドイツ語風に綴ったものだと明石政紀は述べている[1]。
- ^ 1946年生まれとする典拠もあるが[4]、これは本人の生年詐称による誤りという[5]。ファスビンダー財団も1945年生まれとして年齢を計算している[2]。
- ^ Helmuth Fassbinder. ファスビンダーの父ヘルムートとの思い出の一端はW・リマーらのインタビューで語られている[6] 。
- ^ Liselotte Eder(1922年 - 1993年)。Liselotte Pempeitとして1922年に生まれ、1945年にファスビンダー監督の父ヘルムートと結婚してLiselotte Fassbinder、1951年に離婚、1959年の再婚によりリーゼロッテ・エーダーとなる。ファスビンダーの多くの映画・演劇に関わり、女優としても出演。死後は息子の著作権を保全・管理するライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団を設立した[2]。翻訳者としては英語・仏語を扱い、トルーマン・カポーティの初期作品のドイツ語訳などがある。
- ^ 公立の小学校を放校になり、ミュンヘンのレオポルト通りのシュタイナー学校に転校したとファスビンダーは語っている[7]。
- ^ ファスビンダーはインタビューで、映画を作り始めたのは誰の影響かと問われて、「ぼく自身です。ぼくは、『行動劇場〔アクツィオン・テアーター〕』に入団する前に、すでに二本短篇映画を製作していた。もともと映画のほうに興味があったわけです。」と答えている[10]。
- ^ 俳優養成学校からアクツィオン・テアーターを経てアンチテアターに至る時期のことをファスビンダーは、のちに多くの自作で主演として起用する女優ハンナ・シグラに関する文章「ハナ・シグラ : スターにあらずわれわれ皆と同じ弱い人間(興味をそそるある女優についてのまとまりのない考え)」(1981年初出)の中で詳しく回想している[14]。
- ^ Ferdinand Bruckner(1891年 - 1958年)。本名はTheodor Tagger。オーストリア・ドイツの作家、劇作家、演劇監督[15]。
- ^ "Die Verbrecher". Schauspiel in drei Akten. S. Fischer Verlag, Berlin 1928.
- ^ のち1970年にアンチテアターによる新演出でも上演(於 エッセン市立劇場)されている[17]。
- ^ Peer Raben(1940年 - 2007年)。本名は Wilhelm Rabenbauer。プロデューサー、舞台演出家、俳優。のちに映画音楽の作曲家として活躍。アクツィオン・テアーターの共同設立者の一人。ファスビンダーの最初の長編『愛は死より冷酷』から遺作『ケレル』まで多数の作品の音楽も担当している。2003年、「ベルリナーレ・カメラ」受賞。ファスビンダー作品の音楽のアンソロジーとしてサウンドトラック盤 "The Film Music From Rainer Werner Fassbinder Films" (1997) がある。
- ^ 映画作家13名によって1971年に設立されたドイツのインディペンデントな映画配給会社。ファスビンダーは1974年の改組の際に参加した。直訳は「作者たちの映画出版社」。丸山匠はW・リマー(1983)の「訳者あとがき」で、「『映画人配給』と訳語をつけましたFilmverlag der Autoren(映画人出版社)は、映画人がフリーな活動を求めて自主的に設立した組織であり、確かに映画台本の出版も手がけていますが、主たる活動が映画配給であるためにあえて意訳しました。この組織がニュー・ジャーマン・シネマの拠点となっているだけに、特にお断りしておきます。」と述べている[21]。
- ^ Ignatz Bubis(1927年 - 1999年)。不動産投機で成功した。晩年には在ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長。
- ^ 自殺だったとの説もあるが、確たる証拠はないとされる[要出典]。
- ^ ユリアーネ・ローレンツによるRWFFの引き継ぎを前年の1991年とする典拠もある(e.g. 独語版Liselotte Eder項)。
- ^ 8ミリ・カラー。1966年10月に撮影された最初の短編映画(プリントは現存せず)[32]。
- ^ 16ミリ・白黒・10分。この『宿なし』と『小カオス』の短編映画2本は、両作で主演したクリストフ・ローザー(Christoph Roser(ルクセンブルク語版))の出資で製作された[32]。
- ^ 35ミリ・白黒・9分(元は12分という)。撮影はミハエル・フェングラー。「初めての35ミリ映画で、後のファスビンダーのギャング物の先駆けをなす」と明石政紀は註している[32]。
- ^ 撮影はディートリヒ・ローマン。「ファスビンダーの長編第1作目であると同時にアンチテアーター〔Antiteater-X-Film〕の最初の映画である」と明石政紀は註している[18]。ジャン=マリー・ストローブが野外撮影で協力しており[33]、献辞に「ランツベルク通りの通行は、ジャン=マリー・シュトラウブの尽力による」とある[34]。第19回ベルリン国際映画祭で初上映された[35]。
- ^ 外国人労働者(ファスビンダー自身が演ずる)が登場し、最初の長編『愛は死より冷酷』よりも大きな反響を呼び「公的にはデビュー作的映画」になったと明石政紀は註している[19]。献辞に「マリールイーゼ・フライサーに」とある[34]。1970年のドイツ映画賞(長編映画賞、脚本賞)を受賞。原作は前年1968年初演の自作の同題戯曲で[36]、「外人野郎」(岩淵達治 訳)として『現代世界演劇17 : 最新劇』(白水社、1972年)に日本語訳を収載[37]。なお、日本では1971年、『出かせぎ』の邦題で公開されたという[3]。
- ^ ハリー・ベールが演じる「フランツ・ヴァルシュ」が登場する[38]。
- ^ テレビ演劇。前年の1969年にアンチテアターがブレーメン州立劇場でおこなった公演(ペール・ラーベンと共同演出[36])をスタジオで再演したもの[39]。脚本はカルロ・ゴルドーニの戯曲をファスビンダーが脚色したもので、原作『珈琲店 La bottega del caffè』(1750年)には複数の日本語訳がある(「カルロ・ゴルドーニ」の項目を参照せよ)。
- ^ ミハエル・フェングラーとの共同監督作品で、同年の第20回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された。「脚本はなく、フェングラーとファスビンダーのガイドラインに基づき、俳優たちが即興で喋っている」と明石政紀は註している[40]。また、明石は「ベルリン映画祭で初公開され大受けしたフェングラーの『R氏』」「ファスビンダー/フェングラーの共作とされながらも実はフェングラーの映画だった『何故R氏は発作的に人を殺したか?』(..)(この映画はもうファスビンダーの自作目録から外したほうがいいんじゃないかと思う)」と記している[41]。製作の経緯についてドイツ語版Wikipediaの記述も参照せよ。1971年のドイツ映画賞(最優秀監督賞)受賞。第20回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品。
- ^ 先行する『愛は死より冷酷』『悪の神々』とともにファスビンダーのギャング映画三部作[42][43]。「三作のなかでは一番「ギャング映画」らしい容貌を持った映画であり、主人公リッキーの出立ちもそれなりにギャングっぽい。」と明石政紀は註している[43]。
- ^ ミハエル・フェングラーとの共同監督作品。「15世紀の〔ハンス・ベームの〕古事に基づいてるが、中世もロココも三銃士も背広もジーパンもミニスカートもごっちゃに出てきて、時代は意図的にぐちゃぐちゃにされる。途中にはアモン・デュールIIの演奏を聴きながらラリっているアンチテアーターの面々の「実写」が挟み込まれたり、ブラックパンサーに関する引用も行われたりする。(..) この映画は68年革命とその状況についての寓話である。」と明石政紀は註している[44]。
- ^ 明石政紀は「同僚監督のフォルカー・シュレーンドルフに捧げられている。映画では、シュレーンドルフの原案にあったふたりの女ともだち〔の性別〕が、男に変更され、ここはいかにもファスビンダーらしく、南洋の島に行くという夢は、南米に宝探しに行くという夢に変わり、さまざまな障害にぶつかるところは同じで、最後に突然パトロンが登場して、この夢を実現することができるのだが、」と記している[45]。
- ^ 「ファスビンダーが高く評価していたマリールイーゼ・フライサーの戯曲に基づく」と明石政紀は註している[46]。同題のフライサーの2作目の戯曲 "Pioniere in Ingolstadt" は1928年にドレスデンで初演、翌1929年3月末のベルトルト・ブレヒトが関わったベルリンでの上演が大きな非難と反響を呼んだ[47]。
- ^ 原作者マリールイーゼ・フライサーの作品とファスビンダーの関わりについて、三上雅子は「自分の小劇場公演での上演台本を探していたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、偶然手にした戯曲『工兵〔インゴルシュタットの工兵たち〕』に「これこそ我らが求めていた芝居」(das Stück)を見い出したのである。彼は『工兵』をコラージュ風に改作した戯曲『例えばインゴルシュタット』を上演〔1967年[36]〕、続いて1970年にはヴッパータールの劇場が40年間一度も舞台に上らなかった〔戯曲第1作〕『煉獄〔インゴルシュタットの煉獄〕』の上演許可を求めてくる。フライサー・ルネサンスが始まったのだ。/ フライサーを現代に蘇らせたのは、戦後派世代の若き劇作家、わけても先のファスビンダー、フランツ・クサーヴァー・クレッツ、マルティン・シュペルら、「新民衆劇」、或いは「批判的民衆劇」と総称される新しい演劇傾向を代表する作家達であった。(..) 若き作家たちはフライサーを母と呼び、フライサーは彼らを「みんなわが息子」と名付けた。」「『工兵』のファスビンダー改作は作者の事前了解なしに行われた」と述べている[48]。
- ^ ファスビンダー唯一の西部劇であり「アンチ・ウェスタン室内劇」と明石政紀は評している[49]。「ラオール・ウォルシュの『南部の反逆者』に触発されたものと言われる。撮影も初めてミュンヘンを離れ、マカロニ・ウェスタンのロケ地として名高いスペインのアルメリアで行われた」と明石政紀は註している[39]。カメラマンとしてミヒャエル・バルハウスが初めて参加したファスビンダー作品[50]。第21回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品。
- ^ 「ファスビンダーの転機を示す映画であり、かつ実質上アンチテアーター〔Antiteater-X-Film〕の最後の映画となった」と明石政紀は註している[51]。第32回ベネツィア国際映画祭(1971年)で初上映[52]。
- ^ 「ダグラス・サークの影響により、ファスビンダーが作風の転換を試みた重要作」[29]。1971年の「アンチテアーター」の解散後、同年中にファスビンダーが当時 妻だったイングリット・カーフェン、友人のダニエル・シュミットらと設立した映画プロダクション「タンゴ・フィルム(Tango-Film)」[53]の第一作[3]。日本では1972年、『季節を売る男』の邦題で上映されたという[3]。
- ^ 「テレビ演劇。このファスビンダーの戯曲は実在した毒殺犯ゲーシェ・ゴットフリート〔Gesche Gottfried〕の話に基づいている。(..) 以前のテレビ演劇『珈琲店 Das Kaffeehaus』とは違い、ここでは映像効果が多用されている。」と明石政紀は註している[54]。ファスビンダーの原作戯曲は、論創社「ドイツ現代戯曲選30」[55]の第25巻『ブレーメンの自由 : ゲーシェ・ゴットフリート夫人 ある市民悲劇』[56]として日本語訳あり。舞台での初演は映画の前年の1971年(ブレーメン州立劇場)[36]、その後100以上の演出で上演されているという[57]。
- ^ 「西部ドイツ放送のために撮られたテレビ・シリーズ五部作。タイトル (..) の八時間とは労働時間のこと。」と明石政紀は註している[58]。
- ^ 「F・X・クレッツ〔フランツ・クサーヴァー・クレッツ〕の戯曲に基づくこの映画は、最初にテレビ放映されたときに性器の大写しに対し一部の視聴者から抗議が出たり、原作者が自分の意図に反した映画化であると発言したり、それを巡る物議の方でより知られてしまったきらいがある。(..) 結局、原作者クレッツがカットを要求したシーンが削られることになってしまった。」と明石政紀は註している[59]。
- ^ 「ファスビンダー唯一のSF映画にして二部構成の大作」[29]。 原作は米国のSF作家ダニエル・F・ガロイの小説 "Simulacron-3"(1964年)[60]。『模造世界』(2000年)の邦題で創元SF文庫に日本語訳あり[61]。
- ^ 「かのイプセンの戯曲〔『人形の家』〕に基づきファスビンダーが脚色した台本に基づくテレビ演劇」と明石政紀は註している[62]。
- ^ 116分。ストーリーがコーネル・ウールリッチの短編小説「For the Rest of Her Life(邦題: 命あるかぎり)」に近似しており、同作を1968年に雑誌に翻訳掲載していたハイネ出版社から指摘を受けた製作元の西部ドイツ放送(WDR)はすでに撮影が完了していた1974年4月に版権契約を急遽締結した[63][64]。そのため当初1974年3月だった放送予定日が同年5月28日の放送にずれ込んだ[65]。ファスビンダー自身はオリジナルな創作のつもりであったと語っている[66]。
- ^ 141分。初めて興行的な成功を収めた作品とされる[67]。第24回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で初上映[68]。原作はテオドール・フォンターネの詩的リアリズム小説『エフィ・ブリースト』(1894年 - 1895年刊)。「だが、映画の原題は『エフィ・ブリースト〔Effi Briest〕』ではなく、『フォンターネのエフィ・ブリースト(Fontane Effi Briest)』。つまり、これは主人公エフィ・ブリーストに関する映画ではなく、フォンターネの『エフィ・ブリースト』という小説に関する映画なのである。」と明石政紀は註している[69]。原作小説の日本語訳は、『罪なき罪 : エフィ・ブリースト』上下(岩波文庫、1941年)[70]がある。ファスビンダー以前に3度映画化されている[71]。
- ^ 「『不安と魂』で主演したブリギッテ・ミーラのテレビ・ショウ」と明石政紀は註している[72]。
- ^ アメリカ版ではエンディングが別バージョンになっているという[73]。
- ^ 「これは技巧的に凝った映画である。通常は一つのカットに対し、一つのアングルを必ず決めていたと言われるファスビンダーだが。ここでは撮影監督のミヒャエル・バルハウスと共に様々なアングルから撮り、そこから取捨選択していったと言われる。」と明石政紀は註している[74]。
- ^ 「テレビ演劇。1936年にクレア・ブース〔Clare Boothe Luce〕が書いたブロードウェイのヒット作〔“The Women“〕に基づく」と明石政紀は註している[75]。
- ^ 原作は「オスカー・マリア・グラーフ(Oskar Maria Graf)の小説 "Bolwieser"(1913年)。「二部に分かれたテレビ版と二時間弱の劇場版がつくられた」と明石政紀は註している[76]。
- ^ 1977年のドイツ赤軍によるハンス=マルティン・シュライヤー誘拐殺害事件を契機にテロリズムが吹き荒れる時代相を、呼び掛け人のアレクサンダー・クルーゲ監督以下、ファスビンダー、アルフ・ブルステリン、マクシミリアン・マインカ、エドガー・ライツ、カーチャ・ルーペ、ハンス・ペーター・クロース、フォルカー・シュレンドルフ、ベルンハルト・ジンケル、全9名の映画監督と複数のカメラマンで描いた作品[77][78]。ファスビンダーは冒頭部のエピソードを担当している[79]。一連のテロ事件はこの映画にちなんで「ドイツの秋」と呼ばれるようになったという。
- ^ 原作はウラジーミル・ナボコフの小説『絶望』、脚本はトム・ストッパードが担当[80]。1978年のドイツ映画賞(最優秀監督賞)受賞。
- ^ 題名は「新月を13回むかえる年には破滅者が続出する」との俗信に由来する[81]。
- ^ 原作はアルフレート・デーブリーンの同題の長編小説(1929年刊)。全14話(計14時間58分)の長編テレビシリーズ[29]。
- ^ ダグラス・サークの映画『悲しみは空の彼方に』へのオマージュになっている。
- ^ 「ケルンで行われた演劇祭「テアーター・デル・ヴェルト」の記録映画」と明石政紀は註している[82]。
- ^ ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の古典『嘆きの天使』(1930年)を1950年代のドイツに置き換えた作品[60]。
- ^ ジョン・ウォーターズは、ファスビンダー財団の諮問委員会のメンバーを務めている[89]。
- ^ Thomas Elsaesser(1943年 - 2019年)。ドイツの映画史家、アムステルダム大学教授。日本語ではトマス・エルセサーとも表記。エルセッサーのメロドラマ映画論については、野沢公子の簡便な解説がある[90]。
- ^ 実際、ファスビンダーは1981年に映画評論家に答えたアンケートにおいて、「最も重要な映画」にルドルフ・トーメの『Made in German and USA(メイド・イン・ジャーマン&USA)』(1974年)を、「最も美しい映画」に『Detektive(探偵)』(1968年)と『Rote Sonne(紅い太陽)』(1970年)を数え入れている[94]。
- ^ 荒井泰による書評論文「舞台という無慈悲の場所で」[96]がある。荒井のファスビンダー映画論にもなっている。
- ^ 翻訳の底本は、Rainer Werner Fassbinder; Herausgegeben von Michael Töteberg, Filme befreien den Kopf: Essays und Arbeitsnotizen, Fischer, 1984. である。
- ^ 翻訳の底本は Wolfgang Limmer, Rainer Werner Fassbinder, Filmemacher, Rowholt, 1981. の第2版[97]。日本語版の巻頭には佐藤忠男のファスビンダー論「愛の成就の可能性」(pp. 9-36)を追加している。
- ^ ファスビンダー没後にドイツで出版された文献についても「訳者あとがき」に一部が紹介されている[99]。
出典
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参考文献
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関連文献
[編集]- “ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー”. 武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー 映像作品データベース. 武蔵野美術大学イメージライブラリー. 2023年2月22日閲覧。
DVD・Blu-ray(日本語字幕付)
[編集]関連項目
[編集]- ハンナ・シグラ - 女優。ファスビンダーの演劇・映画に数多く出演。
- イングリット・カーフェン - 女優。ファスビンダーの演劇・映画に数多く出演。1970年から1972年まで妻。
- ミヒャエル・バルハウス - 撮影監督。
- ニュー・ジャーマン・シネマ - 1960年代後半から始まったドイツ映画の新潮流。
外部リンク
[編集]- ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー - allcinema
- ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー - KINENOTE
- Rainer Werner Fassbinder - IMDb
- Rainer Werner Fassbinder Foundation (ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団)