ドラゴンズの歌
「流行歌 ドラゴンズの歌」 | |
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伊藤久男、コロムビア合唱団(A面) /安西愛子(B面) の シングル | |
初出アルバム『昇竜魂 〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜』 | |
A面 | 流行歌 ドラゴンズの歌 |
B面 | 流行歌 私のドラゴンズ |
リリース | |
規格 | SPレコード |
ジャンル | 球団歌, 応援歌 |
時間 | |
レーベル | 日本コロムビア(A790) |
作詞・作曲 |
A面‥作詞:小島清[注 1]、補作:サトウハチロー、作曲:古関裕而 B面‥作詞:田中順二、補作:藤浦洸、作曲:古関裕而 |
「ドラゴンズの歌」(ドラゴンズのうた)は、日本野球機構(NPB)のセントラル・リーグに属する中日ドラゴンズの旧球団歌である。作詞・小島清[注 1]、補作・サトウハチロー、作曲・古関裕而[3]。
球団歌としては、1950年(昭和25年)から1977年(昭和52年)まで使用された[4]。本項では、制定時のSPレコードでB面に収録された愛唱歌「私のドラゴンズ」(わたしのドラゴンズ)についても解説する。
概要
[編集]中日ドラゴンズの前身に当たり、日本職業野球連盟に所属していた新愛知新聞社傘下の名古屋軍は1936年(昭和11年)の球団発足当初から「名古屋軍応援歌」を作成していた[5]。そのため、この「名古屋軍応援歌」を初代の球団歌と定義する場合「ドラゴンズの歌」は2代目と言うことになるが[6]、同楽曲に関連する資料が失われているためオーナー企業の中日新聞社を含め「1942年(昭和17年)に中日新聞社の前身2社(新愛知と名古屋新聞)が合併し、1948年(昭和23年)に球団名を“ドラゴンズ”に定めて以降の初代」として、この「ドラゴンズの歌」の方が「初代球団歌」ないし「球団初の応援歌」として扱われることがほとんどである[7][8]。
同じく古関裕而が作曲した「阪神タイガースの歌」が「六甲おろし」、また3代目「巨人軍の歌」が「闘魂こめて」と歌い出しの部分を取った別名で呼ばれるのに準じて「ドラゴンズの歌」も「青雲たかく」[9][10]、或いは「あおぐも」の別名で呼ばれることがある[11]。
制定当時の楽譜は散逸しており、2020年(令和2年)につのだ☆ひろがイベントで歌唱した際はCD音源を基に採譜を行っている[7]。発表当時のレコードは球団事務所、ナゴヤドームのいずれも所蔵していないが[8]、2010年代以降は古関裕而作品を取り上げた各種のアルバムで頻繁に収録されるようになったのを始め、国立国会図書館の「歴史的音源」でもB面曲「私のドラゴンズ」と共に配信されている[1][2]。日本コロムビアの管理楽曲であり、演奏に際しては専属開放申請が必要である。
作成経緯
[編集]1949年(昭和24年)秋に勃発した2リーグ分裂を受けてセントラル・リーグに属することになった中日ではリーグ初年を迎えるにあたって球団歌を作成することになり、同年1月25日付の中部日本新聞(以下「中日新聞」[注 2])1面に名古屋鉄道と連名で「ドラゴンズの歌」の歌詞を懸賞公募する旨の社告を掲載した[12][注 3]。この社告では他に中日新聞の僚紙であった夕刊紙『名古屋タイムズ』が「女性向き」愛唱歌として「私のドラゴンズ」を中日・名鉄の「ドラゴンズの歌」と並行して懸賞公募する旨と、少年ファンクラブ「リトル・ドラゴンズ」の会員募集要項が掲載されている[12]。この時点で既にコロムビアからのレコード発売で古関裕而が作曲を担当する旨を予告しており[注 4]、歌唱者は「藤山一郎または伊藤久男」の予定とされていた[注 5]。
審査結果は2月20日付の中日新聞1面に掲載され、応募総数は2953篇で名古屋市内からの応募作が入選[注 1]、他に佳作として2篇が選定された。発表記事では審査委員として入選した歌詞の補作を行ったサトウについて「センチメントも加味した傑作で大のドラゴンズ・ファン」と紹介されていたが、19年後の1969年(昭和44年)には中日と同じセントラル・リーグのアトムズが選定した「アトムズマーチ」を手掛けている。歌唱者は前月の社告で候補に挙がっていた2名のうち、戦前に古関が作曲した巨人の初代球団歌「野球の王者」を歌唱した伊藤が起用された。また、B面曲で名古屋タイムズ社が選定した「私のドラゴンズ」(作詞:田中順二、補作:藤浦洸)も古関の作曲で、安西愛子が歌唱している。
「ドラゴンズの歌」が制定された1950年は2リーグ制元年と言うこともあり、中日以外にセントラル・リーグでは広島が初代「我れらのカープ」、パシフィック・リーグでは毎日が「わがオリオンズ」、東急が「東急フライヤーズの唄」、西鉄クリッパースが「西鉄野球団歌」、阪急が2代目の「阪急ブレーブスの歌」をそれぞれ制定した。このうち「東急フライヤーズの唄」は「ドラゴンズの歌」と同じく古関の作曲で、「西鉄野球団歌」はサトウが作詞している[注 6]。
その後
[編集]球団OBの権藤博は入団当時の1961年(昭和36年)頃に練習場や球場内で演奏されていた記憶があると述べる一方、1970年(昭和45年)入団の谷沢健一は聴いたことがないとしている[8]。この間、1963年(昭和38年)には巨人が3代目球団歌「闘魂こめて」を制定しており、1リーグ時代から改題を経て継続使用している阪神と合わせてセントラル・リーグ6球団のうち半数の3球団[3]、NPB全体では東急の後身に当たる東映を含めた4球団が古関の作曲による球団歌を使用する状況であった。
演奏実態消失
[編集]「ドラゴンズの歌」の演奏実態が消失した直接の契機は、中日が巨人のV9時代に終止符を打ち20年ぶりにリーグ優勝した1974年(昭和49年)にCBCラジオの企画から誕生した山本正之作詞・作曲の応援歌で、球団OBの板東英二が歌唱した「燃えよドラゴンズ!」が爆発的なヒットとなったこととされている[7][8][13][14]。山本は2024年(令和6年)に中日スポーツのインタビューで「燃えよドラゴンズ!」が公式球団歌を凌駕する人気を獲得したことについて「球団歌を差し置いてなんて全く考えていませんでした。球団歌の作曲者は古関裕而先生。大好きで心から尊敬している先生なんです。古関先生と同じ中日ドラゴンズの歌に携われたことが今もものすごく幸せです」とコメントしているが[15]、開幕戦で演奏される公式の球団歌は1978年(昭和53年)に「勝利の叫び」へと代替わりし「ドラゴンズの歌」はその役目を終えることになった[6]。
また、同時に「女性向き」愛唱歌として作られたB面曲「私のドラゴンズ」は発売後に名古屋タイムズ社と親会社の中日新聞社が経営方針を巡って長く対立したなどの事情で早期に演奏されなくなった[16]。その影響からか後述の『昇竜魂』を始めとする各種のコンピレーション・アルバムでも「私のドラゴンズ」は収録が見送られており、前述の国立国会図書館「歴史的音源」以外に試聴方法がない状態となっている。名古屋タイムズは2008年(平成20年)10月31日発行分を最後に休刊(事実上廃刊)し、発行元の名古屋タイムズ社は2009年(平成21年)を以て法人を解散した。
再評価
[編集]同じ作曲者の「六甲おろし」や「闘魂こめて」とは対照的に長らく忘れ去られた状態の「ドラゴンズの歌」であったが、2007年(平成19年)にキングレコードが球団創立70周年を記念して発売したアルバム『昇竜魂 〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜』(KICS-1241〜1242)のディスク2でトラック1にコロムビアから原盤を借り受ける形で初めて収録され[17]、30年ぶりに日の目を見ることになった。2009年(平成21年)には古関の生誕100周年記念企画としてコロムビアが発売した7枚組『国民的作曲家 古関裕而全集』(COZP-375〜381)のディスク6でトラック8に収録され[18]、以降は古関作品を取り上げた各種のアルバムで頻繁に収録されるようになっている。
2015年(平成27年)には球団歌が開幕戦しか演奏機会の無かった「勝利の叫び」から「昇竜 -いざゆけ ドラゴンズ-」へ代替わりしたが、副題の部分は2代前の「ドラゴンズの歌」の一節から引用されている[4]。
2020年(令和2年)に福島民報社が企画したベスト・アルバム『あなたが選んだ古関メロディーベスト30』(COCP-41121〜41122)の人気投票では「ドラゴンズの歌」が14位にランクインし、いずれも現役の球団歌である阪神の「六甲おろし」(6位)には及ばなかったものの巨人の「闘魂こめて」(21位)を抑える健闘を見せた[19]。
参考文献
[編集]- 中日新聞社史編さん委員会『中日新聞三十年史 創業85年の記録』(中日新聞社、1972年) NCID BN02853826
- 菊池清麿『日本プロ野球歌謡史』(彩流社、2021年) ISBN 978-4-7791-2789-2
出典、脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c 入選発表記事およびレコード盤による。古関裕而記念館の作品リストやコトバンク、東京新聞の2020年11月7日付記事、菊池(2021), p226の「小島情」は誤記。経済学者の小島清(名古屋市出身)や歌人で作詞家として活動した経歴もある小島清(父親が現在の刈谷市出身)はいずれも愛知県と地縁のある人物だが、発表時の住所が一致しないため同姓同名の別人と見られる。
- ^ 「中部日本新聞」からの正式な改題は1965年1月1日付。
- ^ この時期に名古屋鉄道は中日新聞社と隔年で球団運営を行っており、1951年から53年の間は球団名を「名古屋ドラゴンズ」としていたが1954年に撤退し元の「中日ドラゴンズ」へ復帰した。表題や歌詞に「中日」や「名古屋」の語句は含まれていないため、この間も改題や歌詞の変更は行われていない。
- ^ 古関は夫人が豊橋市出身の縁もありこの時期に中日新聞社関係の仕事が多く、前年に名古屋まつりのテーマ曲として同社が選定した「名古屋かっぽれ」、また「ドラゴンズの歌」の半年後には同社が愛知県と合同で選定した県民歌「われらが愛知」を作曲している。
- ^ 藤山は前年に巨人の2代目球団歌「ジャイアンツ・ソング」、また「ドラゴンズの歌」と同年に毎日の「わがオリオンズ」を歌唱しており、後にサトウハチローとのコンビで作曲家として「西鉄ライオンズの歌」や「阪急ブレーブス応援歌」を手掛けている。
- ^ 西鉄クリッパースは翌年にセントラル・リーグの西日本パイレーツと合併して西鉄ライオンズとなったが、後継の「西鉄ライオンズの歌」もサトウが作詞した。また、1962年(昭和37年)には「阪急ブレーブス応援歌」を作詞しており、前述の通り2曲とも藤山一郎が作曲している。
出典
[編集]- ^ a b NDLJP:3568421(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b NDLJP:3568422(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 斎藤秀隆 (2009年6月29日). “古関裕而『うた物語』(21)「甲子園球場で大会歌を作曲」”. 福島民友 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b “ドラ党マツケン新応援歌できた! ホーム勝利でファン全員と”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2015年3月1日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ “【プロ野球】応援歌の元祖は中日だった?”. mimi-yori (アンサンヒーロー). (2020年4月2日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b 鶴田真也 (2024年3月30日). “「♪投げよ剛球 打てよ堅棒〜」88年前、中日の前身『名古屋軍』に幻の球団公式歌が存在した【企画・NAGOYA発】”. 中日スポーツ (中日新聞社) 2024年5月9日閲覧。
- ^ a b c “力強い歌声、ドラゴンズの初代球団歌を披露 古関裕而さん作曲<2020“よい仕事おこし”フェア>”. 東京新聞 (中日新聞東京本社). (2020年11月7日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b c d “ドラゴンズ初代応援歌は古関裕而さん作曲だった 1950年発売、幻の一曲…『エール』で再び脚光”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2020年11月9日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ 「ドラゴンズの歌」『デジタル大辞泉プラス』 。コトバンクより2022年2月19日閲覧。
- ^ 大石始 (2020年11月23日). “朝ドラ『エール』古関裕而が「オリンピック・マーチ」に取り入れた「日本的」な“超有名曲”とは”. Sports Graphic Number. 文藝春秋. 2022年2月19日閲覧。
- ^ 菊池(2021), p227
- ^ a b 中日新聞社史編さん委員会(1972), p27
- ^ 古関裕而と野球(福島市古関裕而記念館)
- ^ “中日ドラゴンズは古関裕而が作曲した応援歌を捨てていた”. NEWSポストセブン (小学館). (2020年4月6日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ 鶴田真也 (2024年3月30日). “「板東英二の歌声が一番だ、と感じて、歌唱は彼にお任せを」『燃えよドラゴンズ!』50周年 “生みの親”山本正之さんインタビュー後編【企画・NAGOYA発】”. 中日スポーツ (中日新聞社) 2024年5月9日閲覧。
- ^ 日本コロムビア発売のLP盤「懐かしのSP盤黄金時代」収録曲解説より。
- ^ 昇竜魂 〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜
- ^ 国民的作曲家 古関裕而全集 〜長崎の鐘・君の名は・栄冠は君に輝く〜
- ^ あなたが選んだ古関メロディーベスト30
外部リンク
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