iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.
iBet uBet web content aggregator. Adding the entire web to your favor.



Link to original content: http://ja.wikipedia.org/wiki/トルク族
トルク族 - Wikipedia コンテンツにスキップ

トルク族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トルク族(トルクぞく、ロシア語: Торк[1][2]) は、10世紀から13世紀にかけて、黒海北部のステップ地帯にいたテュルク系遊牧民の1部族である[3]

歴史

[編集]

トルク族はレートピシ(ルーシの年代記)に記される部族の1つである。古くは985年、トルク族の傭兵キエフ大公ウラジーミルによる、ブルガール族ハザール族に対する遠征に参加している。その後東方のポロヴェツ族に圧迫されたトルク族は、11世紀の初めに遊牧生活を営みながらドニエプル川流域へと移動し、結果ルーシ領と接することとなった。それに対し、キエフ大公フセヴォロド1055年にルーシ領(ペレヤスラヴリ公国領)の防衛のためにトルク族を攻めた。続く1060年にはイジャスラフスヴャトスラフフセヴォロドフセスラフらの連合軍がトルク族を攻め、ドン川周辺へと追いやっている。ただし12世紀になると、トルク族は再びドン川周辺から到来し、ルーシ領と接している。1116年、トルク族とペチェネグ族は2日間にわたってポロヴェツ族と戦い、ウラジーミル・モノマフ(当時ペレヤスラヴリ公)の元へと逃れてきた。しかし1121年に、モノマフが遊牧民ベレンデイ族をルーシから追放すると、ルーシ領に残存していたトルク族とペチェネグ族は自ら去った[4]

一方、トルク族の一部は11世紀からローシ川沿岸(ポロシエ)の地も占拠しており、これらのトルク族はルーシの公に従属し、都市トルチェスクを中心として半定住化した。また、ドニエプル川左岸には別のトルク族の集団が定住しており、かれらはペレヤスラヴリ公国による支配を承認していた。12世紀の史料によれば、かれらは都市バルチ(現ウクライナ・バルィシィウカ(ru))付近の地に居住していた。これらポロシエやペレヤスラヴリ公国に定住したトルク族は、ペチェネグ族、ベレンデイ族らの他のルーシに従属する遊牧民の部族と併せて、チョールヌィ・クロブキという名称で呼ばれた。トルク族を含むチョールヌィ・クロブキは、ポロヴェツ族の侵入に対抗しきれずにルーシに庇護を求め、かつ1つに集団化したものである[5]。かれらは騎馬傭兵部隊となり[6]、ポロヴェツ族の侵入に対する国境(ルーシ諸公国の国境)の守備軍や、キエフ大公の遠征軍に参加した。さらに別の一部のトルク族にはドナウ川を越え、東ローマ帝国民となったものがある。

モンゴルのルーシ侵攻に際し、1240年にポロシエは破壊にさらされた[7]。残ったトルク族の居住区は、スラヴ系住人の居住区と同化した。ステップ地帯に住んでいたトルク族は、後のウクライナ人の一部に含まれたとされている[8]

地名

[編集]

トルク族の名は、現ウクライナの地名として数多く残されている。河川としてはトルチ川(uk)、行政区としてはトルキ(uk)、トレツィ(uk)、トルキウ(uk)等である。

出典

[編集]
  1. ^ 田中陽兒『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p96等
  2. ^ 中村喜和訳『モノマフ公の庭訓』// 『ロシア中世物語集』p116
  3. ^ 中村喜和訳『ロシア中世物語集』p358
  4. ^ 中澤敦夫, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(2) : 『キエフ年代記集成』(1118~1146年)」『富山大学人文学部紀要』第62巻、富山大学人文学部、2015年2月、287頁、CRID 1390290699783145728doi:10.15099/00000305hdl:10110/13459ISSN 03865975 
  5. ^ 田中陽兒『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p163
  6. ^ 田中陽兒『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p56
  7. ^ 田中陽兒『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p145
  8. ^ Гумилёв Л. Н. От Руси до России. — М.: Айрис-пресс, 2011. — С. 250.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]