コーシャ・フェレンツ
コーシャ・フェレンツ | |
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コーシャ・フェレンツ、2015年撮影。 | |
生誕 |
1937年11月21日 ハンガリー王国 ニーレジハーザ |
死没 |
2018年12月12日 (81歳没) ハンガリー ブダペスト |
職業 | 映画監督、脚本家 |
活動期間 | 1961年 - 1988年 |
コーシャ・フェレンツ(Kósa Ferenc [ˈkoːʃɒ ˌfɛrɛnt͡s]、1937年11月21日 - 2018年12月12日)は、ハンガリーの映画監督、脚本家[1]。1989年以降のハンガリー民主化運動に深く関わり、民主化後には国会議員を1990年から[2]16年間務めており、政治家でもある[3]。
経歴
[編集]コーシャは、ハンガリー北東部のニーレジハーザに生まれた[3]。青年期にハンガリー動乱を経験した[2][4]。
1958年、コーシャはブダペストで5年制の国立演劇映画芸術大学に入学し(卒業資格は修士相当)、在学中の1961年に『あるふだんの日に関するエチュード (Etűd egy hétköznapról)』で監督デビューし、以降、バラージュ・ベーラ・スタジオ[5]の一員として映画製作に従事した[3]。
卒業制作として取り組んだ『一万の太陽 (Tízezer nap)』[6]は、1965年に完成したが、ハンガリー動乱を登場人物が「革命」と呼んでいるシーンを変更することを拒んだため、一般公開が認められず、結果として卒業できない状態が続いた[2][7]。
ところが、コーシャは突然文部省映画総局に呼び出され、この作品が、1967年に開催された第20回カンヌ国際映画祭に招待されたので、すぐカンヌに行くように告げられ[8][7]、そこで監督賞を獲得して、国際的な評価を得た[9]。帰国後コーシャは2年遅れで無事学位記を受け取ることができた[10]。卒業後はハンガリーを代表する映画監督として精力的に映画を発表し続けた[2]。
コーシャ は、1961年から1988年にかけて、社会主義体制下で13本の映画を監督した。その間、シャーラ・シャンドールとの協力関係を築き、コーシャの監督作品の多くでシャーラが脚本に参加して撮影監督も務め[4]、また、シャーラが監督して第21回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された『Feldobott kö』には、コーシャが脚本に参加した[11]。
1987年の映画『もうひとりの人 (A másik ember)』も、ハンガリー動乱を肯定的に描いたとして国内上映禁止となったが、国際的な映画祭では注目された[2]。
1989年以降、コーシャはヨーロッパ・ピクニック計画やハンガリー民主化運動に著名な文化人として深く関わり、民主化後の1990年には国会議員となった[2]。1990年代以降は、本格的な映画は手がけなかったが、短編映画や、テレビ・ドキュメンタリー番組などに関わり続けた[2]。
2006年には、ハンガリーの芸術勲章であるコシュート賞を贈られた[2]。
日本との関わり
[編集]コーシャは、カンヌ国際映画祭への参加をきっかけに、日本人の舞台女優だった糸見偲と知り合い、結婚した[12]。このため早くから日本の文化への関心をもっていた[12]。
1974年の映画『豪雪 (Hószakadás)』[13]は、『楢山節考』を下敷きにしたものであった[2]。
国会議員となった1990年以降は日本との文化交流事業に取り組み、日本の文化をハンガリーに紹介するなどした功績が認められ、1996年には勲二等瑞宝章、2000年には旭日章を日本政府から贈られた[2]。
1998年には、岐阜県の白川郷や正眼寺などでハイビジョン撮影によるテレビ・ドキュメンタリー番組を制作し[3]、ハンガリーのテレビで放映した[2]。
2012年から2013年にかけて、写真作品の展覧会「コーシャ・フェレ ンツの世界-多元時空」が日本各地で開催された[2][14]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 1961年:あるふだんの日に関するエチュード[3] - Etűd egy hétköznapról(監督)
- 1962年:ある湖の歴史についてのノート[3] - Jegyzetek egy tó történetéhez…(監督、脚本)
- 1962年:光り[3] - Fény (監督)
- 1967年:一万の太陽[2] - Tízezer nap(監督、脚本)
- 1967年:詩人ヨージェフ・アティッラの少年期[15] (Öngyilkosság)(監督、脚本)
- 1968年:Feldobott kő(脚本)
- 1970年:審判[2](別名:判決[12])- Ítélet(監督、脚本)
- 1970年:Pro Patria(脚本)
- 1972年:Nincs idő(脚本、監督)
- 1974年:豪雪[2](別名:ドカ雪[12]、雪が降る[3]) - Hószakadás(脚本、監督)
- 1977年:Küldetés - Balczó András-portré(監督、リポーター)
- 1981年:A mérkőzés(監督、脚本)
- 1982年:ゲルニカ[2](別名:ゲルニカへの道[16]) - Guernica(脚本、監督)
- 1986年:Az utolsó szó jogán(監督、脚本)
- 1987年:もうひとりの人[2] - A másik ember(監督、脚本)
- 1998年:Taigan - A túlsó part(監督、脚本)
- 1998年:Sirakava(監督、脚本)
脚注
[編集]- ^ “Meghalt Kósa Ferenc”. 24HU. 12 December 2018閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “PROFILE(プロフィール)” (PDF). 中部学院大学. p. 2. 2020年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “コーシャ・フェレンツ氏講演会 「ヨーロッパ・ピクニック計画」とはなんだったのか ―体制転換後20年の現在から考えること―”. DESK:東京大学 ドイツ・ヨーロッパ研究センター. 2020年2月27日閲覧。
- ^ a b 盛田常夫. “追悼:コーシャ・フェレンツ” (PDF). 盛田常夫. 2020年2月27日閲覧。
- ^ 国立演劇映画芸術大学の大学院的な位置付けで、若手の新人監督たちが自由に実験映画が制作できた。映画制作自体には検閲は無かったが、完成作品を一般上映するには文部省映画総局の許可が必要だった。
- ^ ハンガリー語のタイトルの „Tízezer nap” [ˈtiːzɛzer ˌnɒp] はハンガリー語では „tízezer” が「一万」で、„nap” は「(日数の)日」と「(天体の)太陽」の両方の意味がある。このタイトルは主人公の「1万日(=30年)」の歴史と「バラトン湖に反射する無数の太陽のきらめき」の両方の意味が掛けてある。
- ^ a b “Megkérdeztük Kósa Ferencet”. 2020年6月9日閲覧。
- ^ コーシャによれば、最後まで誰が彼の作品をカンヌ国際映画祭に送ったのかはわからないままだったという。政府内の誰かかも知れないし、彼を応援する映画人の誰かかも知れないと考えている。後にコーシャが知ったことでは、フランス政府は公式にハンガリー政府に彼の作品を参加させるように要請してきていて、もしハンガリー政府がそれを認めない場合は、今後ハンガリー映画はカンヌ国際映画祭に参加するに及ばずと通告してきていたとのことだった。
- ^ “Festival de Cannes: Ten Thousand Days”. festival-cannes.com. 2009年3月8日閲覧。
- ^ 当時のハンガリーの制度では演劇映画芸術大学で映画監督学科を卒業しない限り国家資格である「映画監督」は名乗れず、映画制作会社で監督の仕事に従事することもできなかった。
- ^ Feldobott kö - IMDb
- ^ a b c d 盛田常夫 (2017年12月12日). “三つの誕生会(下)”. ちきゅう座. 2020年2月27日閲覧。 - 初出はリベラル21
- ^ 日本ではアテネ・フランセ文化センターで『雪が降る』というタイトルで上映
- ^ “コーシャ・フェレンツ写真展の巡回、 終了する” (PDF). Barátság (日本ハンガリー友好協会) (150): pp. 4-5. (2013年3月29日) 2020年2月27日閲覧。
- ^ 詩人ヨージェフ・アッティラの少年期 - allcinema
- ^ GUERNICA/ゲルニカへの道 - allcinema