近藤基樹
近藤 基樹(こんどう もとき、1864年4月16日[1](元治元年3月11日[2]) - 1930年(昭和5年)3月8日[2])は、日本の海軍軍人(海軍造船官)。海軍造船中将従三位勲一等男爵工学博士。
近藤 基樹 | |
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生誕 | 1864年4月16日 |
死没 | 1930年3月8日(65歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1884 - 1920 |
最終階級 | 海軍造船中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
経歴
編集東京出身。近藤真琴(教育家)の養子(婿養子となり、真琴の娘の「鉄」を娶った)[2]。1883年(明治16年)3月 、工部大学校機械学科(現・東京大学工学部機械工学科)を卒業、そのまま同校造船学科(現・東京大学工学部システム創成学科)入学[2]。1884年(明治17年)3月、工部大学校造船学科を卒業[2]。
1884年(明治17年)6月、海軍省主船局出仕[2]。同年9月、二等工長[2]。1886年(明治19年)9月、七等技手[2]。同年9月から1890年(明治23年)10月まで イギリスのグリニッチ海軍大学校に留学[2]。
1890年(明治23年)11月、文官から武官(造船官)に転じて海軍大技士(大尉相当官)に任官し、横須賀鎮守府造船部附[2]。1896年(明治29年)造船監督官としてイギリス駐在[2]。イギリス駐在中の1897年(明治30年)6月に海軍造船少監(少佐相当官)、1898年(明治31年)10月に海軍造船中監(中佐相当官)に進級[2]。
1900年(明治33年)1月に帰朝を命じられ、同年5月に海軍艦政本部第3部部員[2]。1909年(明治42年)9月まで、海軍艦政本部計画主任を小幡文三郎と分担[3]。1905年(明治38年)10月から1906年(明治39年)12月まで海軍艦政本部造船造機担当部長を兼ねる[4]。この間、1902年(明治35年)に海軍造船大監(大佐相当官)、1908年(明治41年)12月に海軍造船総監(高等官2等、少将相当官[5])に進級[2]。
1909年(明治42年)3月から9月までイギリスへ出張[2]。1911年(明治44年)5月、艦型試験所長[2]。1915年(大正4年)2月、工学博士[2]。同年10月に海軍技術本部出仕を兼ねる[2]。1919年(大正8年)、制度改正により海軍造船総監(高等官1等、中将相当官)から海軍造船中将となる[5]。1920年(大正9年)10月、海軍艦政本部出仕[2]。
栄典
編集- 位階
- 1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[6]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 正五位[7]
- 1913年(大正2年)5月20日 - 従四位[8]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 従三位[9]
- 勲章等
先進性
編集親族
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ カシオ計算機「和暦から西暦変換(年月日)」により和暦から換算。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 秦 2005, p. 210, 近藤基樹
- ^ 秦 2005, p. 456, 艦政本部計画主任
- ^ 秦 2005, p. 456, 艦政本部造船造機担当部長
- ^ a b 雨倉 1997, pp. 70–71, 軍医将官の海上ポスト
- ^ 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
- ^ 『官報』第7460号「叙任及辞令」1908年5月12日。
- ^ 『官報』第241号「叙任及辞令」1913年5月21日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。
- ^ 秦 2005, p. 210, 近藤真琴
参考文献
編集- 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 福井静夫『日本戦艦物語(I)』光人社、1992年
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
その他の役職 | ||
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先代 近藤真琴 攻玉社長 |
財団法人攻玉社長 1920年 - 1930年 攻玉社長 1886年 - 1920年 |
次代 近藤雅樹 |
先代 寺野精一 |
造船協会会長 1920年 - 1922年 |
次代 山本開蔵 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 近藤(基樹)家初代 1929年 - 1930年 |
次代 近藤雅樹 |