篠原長経
日本の江戸時代前期の武士。加賀藩重臣篠原長次長男で、篠原織部家2代当主(篠原本家3代当主)。与力支配役・寺社奉行・旗奉行を歴任
篠原 長経(しのはら ながつね、1613年(慶長18年) - 1678年4月14日(延宝6年2月23日))は、江戸時代前期の加賀藩士。篠原本家の第3代当主で、通称は織部。石高は5000石で人持組に属した。家紋は左三つ巴。菩提寺は桃雲寺で、戒名は大樹院殿一山良株居士。
生涯
編集篠原長次(篠原本家第2代当主、前田利家の実子)[1]の嫡男であり、事実上の利家の孫である。父・長次の遺知のうち5000石を継ぐ。なお、弟に篠原長良(六郎左衛門、通称は大学)がおり、長次の遺知のうち1000石を分けられて分家となった。正室は加賀八家・前田直之の娘(養女)、多福院殿竹岸宗脩大姉で、嫡男は篠原長栄(長賢)、次子は輝豊(刑部)。
1659年(万治2年)に与力支配役、寺社奉行となり、1663年(寛文3年)に旗奉行となる。1678年4月14日(延宝6年2月23日)に死去。桃雲寺で葬儀が執り行われた。墓所は野田山にある。
脚注
編集- ^ 『加賀藩史稿 六』「第十一巻 列伝第九 篠原長次」永山近影、1899年。