篠原幸昭
日本の江戸時代中期の武士。加賀藩重臣篠原長栄の子で、篠原織部家4代当主(篠原本家5代当主)。定火消・家中一統・出銀奉行等を歴任
篠原 幸昭(しのはら としあき、元禄10年(1697年) - 宝暦3年7月4日(1753年8月2日))は、江戸時代中期の加賀藩士。人持組・篠原本家第5代当主。通称は縫殿。石高は4000石。家紋は左三つ巴。菩提寺は曹洞宗桃雲寺で[注釈 1]、戒名は空照院殿月庭良円居士。
生涯
編集父は第4代当主篠原長栄(長賢)。母は加賀八家・駿河守前田孝貞の娘。篠原縫殿幸昭が生きた時代は、徳川吉宗が改革を行っている最中に享保の飢饉が起こり、加賀藩内も加賀騒動[注釈 3]が持ち上がり、不安定な時代であった。享保5年(1720年)4月、薪蔵請取火消。同年9月、天徳院請取火消。享保9年(1724年)8月、定火消[注釈 4]。寛保元年(1741年)9月には家中一統・出銀奉行となる。宝暦3年(1753年)7月4日に死去。桃雲寺で葬儀が執り行われ、野田山墓地[注釈 5]に葬られた。なお、邸は、「算用場」向かいの角[注釈 6]にあった。
注釈
編集- ^ 金沢市野田にある篠原一孝と神谷守孝が造立した庵を起源とする前田利家の菩提寺。当初、野田の宝円寺と呼ばれたが、利家の戒名にちなんで桃雲寺となった。芳春院の葬儀もこの寺で執り行われた。往時の規模は、今日の寺からは想像のつかないほど広大で豪壮なものであった。
- ^ 篠原家は芳春院の生家なので、芳春院と縁の深い家との婚姻が多い。
- ^ 幸昭の妻は、加賀騒動の一方の渦中の人物前田直躬の姉にあたる。
- ^ 加賀藩では、請取火消、定火消という役職は人持組など限られた者にしか与えられない重職であった。
- ^ 金沢市にある野田山墓地には藩主をはじめ、家臣の多くが眠っているが、「墓番制度」という独特な制度が存在した。複数の「墓守」(墓茶屋)が存在し、各家は、墓のあらゆる管理をゆだねるのである。ちなみに、篠原本家・分家は屋号「コスケサ」が、篠原別家は屋号「彦右衛門」という「墓守」(墓茶屋)が管理した。
- ^ 金沢市にある、現、大谷廟所を含む周辺一帯。