清原長田
清原 長田(きよはら の ながた)は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初長田王を名乗るが、清原真人姓を与えられ臣籍降下。知太政官事・舎人親王の後裔(曾孫)か。官位は従四位上・加賀守。
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 長田王→清原長田 |
官位 | 従四位上・加賀守 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 清原真人 |
子 | 基雄、惟岳、常名 |
経歴
編集天長3年(826年)従五位下に叙爵。天長8年(831年)従五位上。
天長10年(833年)仁明天皇の即位後間もなく伊勢守に任ぜられると、翌承和元年(834年)大和守と仁明朝前半は地方官を務める。承和10年(843年)民部大輔として京官に復すると、承和11年(844年)正五位下、承和14年(847年)従四位下と仁明朝後半は順調に昇進する。この間、承和13年(846年)に子息の基雄が[1]岑成王(舎人親王の曾孫)の子息らと共に、嘉祥2年(849年)には長田王本人が岑成王と共に、清原真人姓を与えられて臣籍降下している。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に大宰大弐に任ぜられる。文徳朝後半は斉衡3年(856年) 従四位上、斉衡4年(857年)刑部大輔と叙任される。
天安2年(858年)清和天皇の即位に前後して刑部大輔を辞任して散位にあったが、即位後間もなく下野守として地方官に転じ、貞観2年(860年)加賀守と、引き続き地方官を務めた。
官歴
編集『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天長3年(826年) 9月13日:従五位下
- 天長8年(831年) 正月7日:従五位上
- 天長10年(833年) 3月24日:伊勢守
- 承和元年(834年) 正月12日:大和守
- 承和10年(843年) 正月12日:民部大輔
- 承和11年(844年) 正月7日:正五位下
- 承和14年(847年) 正月7日:従四位下
- 時期不詳:讃岐守
- 嘉祥2年(849年) 11月2日:臣籍降下(清原真人)
- 嘉祥3年(850年) 正月15日:弾正大弼。3月22日:装束司。4月2日:供僧司(何れも仁明上皇崩御)。5月17日:大宰大弐
- 斉衡3年(856年) 正月7日:従四位上
- 斉衡4年(857年) 2月16日:刑部大輔
- 天安2年(858年) 11月25日:下野守
- 貞観2年(860年) 正月16日:加賀守