武者所
概要
編集寛和元年(985年)に円融上皇の御所に院武者所を設けて10名を配備したのが最古の記録である。後には太上天皇(上皇)の院庁始の際に院蔵人所、院御随身所とともに置かれる慣例が成立した。定員は10-30名と不定であるが、天皇在位時の滝口の武士が充てられることが多く、上皇の警備にあたる他、治安維持のために派遣される事もあった。本官を持たない散位の者も多く、労効によって右馬允などの武官に任じられる者もいた。白河上皇が北面武士を設置すると次第に取って代わられるようになり、院政の衰退とともに廃絶する。
後醍醐天皇の建武政権の成立後に復活し、窪所とともに内裏の警備や京都の治安維持にあたった。機能面において、窪所が朝廷の要所の警備が主任務であったのに対し、武者所は洛中とその近辺の治安警察をその任務としたとされる[1]。天皇に近侍する両所の構成員は両属する者もあった。
新田義貞が頭人を務めて後醍醐天皇の親衛隊的な役割を果たしたが、義貞を頭人に送り込んだのは足利尊氏だとする説もある[2]。だが、中先代の乱以降に足利尊氏が建武政権に叛旗を翻し、新田氏は足利氏と決別してその対抗勢力に転化すると、新田氏が拠る所となり、延元元年(建武4年/1336年)4月に作成された結番交名には、全65名のうち新田氏一族の占める割合が高く、全6番制であったことが知られる。建武政権崩壊後も、南朝・北朝のそれぞれに武者所が設けられていた。
構成員の実例
編集延元元年(1336年)4月時点の構成員の実例は以下の通り(『建武記』定武者所結番事[3])。これによれば、全体は六番編成であり、各番は11人で構成されている(六番のみ10人)。
なお、この時は足利尊氏との戦い(建武の乱)の真っ最中であるため、足利方の人材が含まれていない点に注意する必要がある。この時の武者所構成員でない一色頼行も建武元年(1334年)には武者所に属していたことが分かっている(『尊卑分脈』)。
脚注
編集参考文献
編集- 五味文彦/森茂暁「武者所」『国史大辞典 13』(吉川弘文館 1992年) ISBN 978-4-642-00513-5
- 棚橋光男/森茂暁「武者所」『日本史大事典 6』(平凡社 1994年) ISBN 978-4-582-13106-2
- 井上満郎「武者所」『日本歴史大事典 3』(小学館 2001年) ISBN 978-4-09-523003-0
- 楠木武「武者所」『日本中世史事典』(朝倉書店 2008年) ISBN 978-4-254-53015-5
- 森茂暁「建武政権の構成と機能」『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』(思文閣出版 2008年) ISBN 978-4-7842-1416-7
- 田中大喜「中世前期上野新田氏論」 田中 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戎光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2