李舜臣 (宋)
略歴
編集幼少より優秀であり、長じて乾道2年(1166年)の科挙に合格した。南宋が女真族の金に華北を奪われて失地回復の意欲を失っていた頃、逆に金国への抗戦を盛んに主張した。また、成都に任を得た時には、教えを得た民より「蜀先生」と呼ばれ慕われた。死後に崇国公を追封された。
著作に『江東十鑑』の他、多数を残している。子も揃って優秀であり名を残しており、歴史を記した『建炎以来繁年要録』編者の李心伝、朱子の語を記録した『池録』編者の李道伝や『饒録』編者の李性伝がいる。
備考
編集明代の官人・儒学者に同名の李舜臣がいるので、混同しないよう注意を要する。いうまでもなく、李氏朝鮮の武将の李舜臣とは別人である。