島津忠時
鎌倉時代前期から中期にかけての武将。島津氏2代。左兵衛尉、左衛門尉、修理亮、大隅守。鎌倉幕府御家人。子に山田忠継(山田氏祖)、島津高久、島津忠康 (大隅式部丞)、島津忠佐、島
島津 忠時(しまづ ただとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。島津氏の2代当主。父は初代当主・島津忠久。母は畠山重忠の娘(異説あり)。鎌倉幕府御家人。初名は忠義。のちに忠時に改名する。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 建仁2年(1202年) |
死没 | 文永9年4月10日(1272年5月8日) |
改名 | 忠義、忠時、道仏 |
別名 | 三郎兵衛尉[1] |
神号 | 劔太刀總心雄命[1] |
戒名 | 浄光明寺殿 道佛仁阿弥陀佛[1] |
墓所 | 鹿児島市本立寺、出水市感応寺 |
官位 | 左兵衛尉、左衛門尉、修理亮、大隅守[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 藤原頼経、頼嗣、宗尊親王 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津忠久、母:貞嶽夫人[1](畠山重忠の娘?) |
兄弟 | 忠時、忠綱、忠直 |
妻 | 得台夫人(伊達念西の妹)[1] |
子 |
山田忠継、(山田氏祖)、久経、高久、忠康、 忠佐、久時、忠経(町田氏・伊集院氏祖)、 久氏[1] |
生涯
編集承久3年(1221年)、承久の乱で幕府軍に従軍して武功を挙げた。一門が守護をしていた若狭国の守護職を兼任する。
嘉禄3年(1227年)、父・忠久の死により家督を継ぐ。しかし在国はせず、鎌倉に在住して有力御家人として近習番役などに任じられ、幕政で重きを成した。その功により伊賀・讃岐・和泉・越前・近江国内などに地頭職を与えられた。
文永2年(1265年)、嫡男の久経に家督を譲った。文永9年(1272年)4月10日、71歳で死去。法号は道仏。墓地は鹿児島市の本立寺。または出水市野田町の感応寺。