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岡田内閣 - Wikipedia

岡田内閣(おかだないかく)は、後備役海軍大将岡田啓介が第31代内閣総理大臣に任命され、1934年昭和9年)7月8日から1936年(昭和11年)3月9日まで続いた日本の内閣

岡田内閣
組閣後の閣僚
内閣総理大臣 第31代 岡田啓介
成立年月日 1934年昭和9年)7月8日
終了年月日 1936年(昭和11年)3月9日
与党・支持基盤 立憲民政党、(立憲政友会離脱派→)昭和会国民同盟
施行した選挙 第19回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1936年(昭和11年)1月21日
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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閣僚の顔ぶれ・人事

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国務大臣

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1934年(昭和9年)7月8日任命[1]。在職日数611日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 31 岡田啓介   海軍大将
海大将校科
甲種2期
拓務、逓信大臣兼任
- 後藤文夫   貴族院
無所属
(無会派)
臨時代理
内務大臣兼任
1936年2月26日兼[2]
1936年2月29日免兼[3]
外務大臣 45 広田弘毅   外務省 留任
内務大臣 46 後藤文夫[注釈 1]   貴族院
無所属
(無会派)
内閣総理大臣臨時代理
大蔵大臣 32 藤井真信   大蔵省 初入閣
1934年11月27日免[注釈 2][4]
33 高橋是清   民間
立憲政友会→)
無所属
1934年11月27日任[4]
1936年2月26日死亡欠缺[注釈 3]
34 町田忠治   衆議院
立憲民政党
商工大臣兼任 1936年2月27日任[5]
陸軍大臣 22 林銑十郎   陸軍大将
陸大17期
対満事務局総裁兼任[注釈 4][6] 留任
1935年9月5日免[注釈 5][7]
23 川島義之   陸軍大将
陸大20期
対満事務局総裁兼任 初入閣
1935年9月5日任[7]
海軍大臣 17 大角岑生   海軍大将
海兵24期
男爵[注釈 6]
留任
司法大臣 36 小原直   司法省
無所属
初入閣
文部大臣 42 松田源治   衆議院
立憲民政党
1936年2月1日死亡欠缺[注釈 7][8]
43 川崎卓吉   貴族院
立憲民政党
初入閣
1936年2月1日任[8]
農林大臣 9 山崎達之輔   衆議院
(立憲政友会→)
(無所属→)
昭和会
初入閣
商工大臣 11 町田忠治   衆議院
立憲民政党
大蔵大臣兼任
逓信大臣 36 床次竹二郎   衆議院
(立憲政友会→)
無所属
1935年9月8日死亡欠缺[注釈 8][9]
37 岡田啓介   海軍大将
(海大将校科
甲種2期)
内閣総理大臣、
拓務大臣兼任
1935年9月9日兼[9]
1935年9月12日免兼[10]
38 望月圭介   衆議院
(立憲政友会→)
(無所属→)
昭和会
1935年9月12日任[10]
鉄道大臣 12 内田信也   衆議院
(立憲政友会→)
(無所属→)
昭和会
初入閣
拓務大臣 7 岡田啓介   海軍大将
(海大将校科
甲種2期)
内閣総理大臣、
逓信大臣兼任
1934年10月25日免兼[11]
8 兒玉秀雄   貴族院
無所属
(研究会)
伯爵
初入閣
1934年10月25日任[11]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1934年(昭和9年)7月8日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 34 河田烈   内務省 1934年10月20日免[注釈 9][12]
35 吉田茂   内務省 1934年10月20日任[13]
1935年5月11日免[注釈 10][14]
36 白根竹介   内務省 1935年5月11日任[14]
法制局長官 31 黒崎定三   法制局 事務引継
1934年7月10日免[15]
32 金森徳次郎   法制局 1934年7月10日任[15]
1936年1月11日免[注釈 11][16]
33 大橋八郎   逓信省 1936年1月11日任[16]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

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1934年(昭和9年)7月19日任命[17]

職名 氏名 出身等 備考
外務政務次官 井阪豊光 衆議院/無所属
内務政務次官 大森佳一 貴族院/無所属(公正会)/男爵
大蔵政務次官 矢吹省三 貴族院/無所属(公正会)/男爵
陸軍政務次官 土岐章 貴族院/無所属(研究会)/子爵 留任
1935年12月14日免[18]
岡部長景 貴族院/無所属(研究会)/子爵 1935年12月14日任[18]
海軍政務次官 堀田正恒 貴族院/無所属(研究会)/伯爵 留任
司法政務次官 原夫次郎 衆議院/立憲民政党
文部政務次官 添田敬一郎 衆議院/立憲民政党
農林政務次官 守屋栄夫 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
商工政務次官 勝正憲 衆議院/立憲民政党
逓信政務次官 青木精一 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
鉄道政務次官 樋口典常 衆議院/(立憲政友会→)無所属 1935年8月31日免[19]
蔵園三四郎 衆議院/(無所属→)昭和会 1935年8月31日任[19]
拓務政務次官 田中武雄 衆議院/立憲民政党 1934年10月26日免[20]
桜井兵五郎 衆議院/立憲民政党 1934年10月26日任[20]

参与官

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1934年(昭和9年)7月19日任命[17]

職名 氏名 出身等 備考
外務参与官 松本忠雄 衆議院/立憲民政党 留任
内務参与官 橋本実斐 貴族院/無所属(研究会)/伯爵
大蔵参与官 豊田収 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
陸軍参与官 石井三郎 衆議院/無所属 留任
海軍参与官 窪井義道 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
司法参与官 舟橋清賢 貴族院/無所属(研究会)/子爵
文部参与官 山枡儀重 衆議院/立憲民政党
農林参与官 森肇 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
商工参与官 高橋守平 衆議院/立憲民政党
逓信参与官 平野光雄 衆議院/立憲民政党
鉄道参与官 兼田秀雄 衆議院/(立憲政友会→無所属→)昭和会
拓務参与官 手代木隆吉 衆議院/立憲民政党 1934年10月26日免[20]
佐藤正 衆議院/立憲民政党 1934年10月26日任[20]

勢力早見表

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※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 政務次官 参与官 その他
りつけんせいゆうかい立憲政友会 3 3 4
りつけんみんせいとう立憲民政党 2 4 5
こうせいかい公正会 0 2 0
けんきゆうかい研究会 0 2 2
くんふ軍部 3 0 0 国務大臣のべ4
かんりよう官僚 3 0 0 内閣書記官長法制局長官
むしよそく無所属 1 1 1
12 12 12 国務大臣のべ13

内閣の動き

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1932年五・一五事件の直後、議会第一党であった立憲政友会は後継内閣を巡って混迷し、政権担当能力の欠如を露呈したことにより、首相指名権を握っていた西園寺公望元老は、憲政の常道議院内閣制)の中断を決意し、非党人の斎藤実海軍大将を首相に奏請。1934年に斎藤内閣帝人事件で倒れた後は、引き続き非党人の岡田啓介海軍大将を就任させる。なお、この時から西園寺元老の高齢に伴い、奏請の手順を改め、以後は元老が重臣枢密院議長内大臣と協議の上でこれを行うことにした。

岡田内閣は斎藤前政権から引き続き、政友会および立憲民政党の二大政党から大臣を迎える大連立を目指したが、政友会は斎藤内閣時から引き続き、政権との距離を巡り内部対立が続いており、執行部は大臣以下政府役職に就いた者を除名処分する強硬手段をとったため、事実上民政党の単独与党となる。貴族院では、親民政党の公正会に加え最大会派の研究会が支持に回った。

政策・出来事
  • 天皇機関説事件…1935年2月に発生。政友会や在野の右翼団体などの政府攻撃を受けて、岡田内閣は2度にわたり国体明徴声明を表明する。
  • 第二次ロンドン海軍軍縮会議の脱退
  • 陸軍内の構想と続発するテロ…当時、陸軍では最大派閥であった一夕会が分裂。中枢ポストの独占による総力戦体制の構築を目指す統制派と、クーデターによる急進的な社会革新(昭和維新)を目指す皇道派に分かれて抗争を繰り広げた。皇道派の青年将校は在野の革新思想家と結びつき、士官学校事件相沢事件などを引き起こす。

1936年、天皇機関説事件を巡り政友会は内閣不信任案を提出し、衆議院解散。2月20日、第19回衆議院議員総選挙にて、与党民政党が政友会を上回り議会第一党を獲得し、岡田内閣は安定的な政治基盤を得る。しかし選挙からわずか6日後の2月26日、皇道派青年将校が遂にクーデターを決行(二・二六事件)。岡田首相は襲撃部隊から辛うじて逃れるが一時的に行方不明になり、高橋蔵相は暗殺される。昭和天皇の勅命によりクーデターが鎮圧された後の2月29日に内閣総辞職。後継には広田外相が立ち、非政党内閣は継続する(広田内閣)。

脚注

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注釈

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  1. ^ 齋藤内閣の農林相から内相に横滑り。
  2. ^ 新年度予算案を閣議決定した2日後の11月26日に病状が悪化し慶應大学病院に緊急入院。翌日蔵相を辞任。
  3. ^ 二・二六事件暗殺
  4. ^ 1934年(昭和9年)12月26日兼任。
  5. ^ 相沢事件で引責辞任。
  6. ^ 1935年(昭和10年)12月26日叙爵。満州事変の功が理由だが、「功」とは戦功ではなく、満州事変の戦功により陸軍から本庄繁(事変当時関東軍司令官)・荒木貞夫(事変当時陸軍大臣)両大将が男爵に叙爵されることになったので、海軍からも誰かを叙爵する必要が生じ、事変当時海軍大臣だった大角に叙爵することとすることとなった。→ 詳細は「大角岑生」項を参照
  7. ^ 同日午後、帝大医学部内科物理療法学教室30周年記念祝典に出席。あわせて創設者の真鍋嘉一郎教授の健康診断を受けたところ、心臓が肥大しているので注意するよう言われたがそのわずか3時間後に突如心臓麻痺を起こして急死。
  8. ^ 1935年(昭和10年)9月8日早朝、心不全で急死。
  9. ^ 病気療養のため辞任。
  10. ^ 内閣調査局長官(企画院総裁の前身)に転出のため。
  11. ^ 過去の著作『帝国憲法要説』が「天皇機関説である」という理由で批判を受け、辞任。

出典

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参考文献

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  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年

外部リンク

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