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Link to original content: http://ja.m.wikipedia.org/wiki/山崎長徳
山崎長徳 - Wikipedia

山崎長徳

日本の戦国時代~江戸時代前期の武将。朝倉家・明智家・柴田家・前田家の家臣。加賀藩人持組頭で、山崎庄兵衛家初代当主。

山崎 長徳(やまざき ながのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

 
山崎 長徳
山崎長徳肖像(常松寺所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文21年(1552年
死没 元和6年11月11日1620年12月4日
改名 小七郎(幼名)→長徳→閑斎(号)
別名 長鏡、通称:庄兵衛
官位 長門
主君 朝倉義景明智光秀柴田勝家前田利家利長
加賀藩
氏族 山崎氏
父母 父:山崎吉延?
長国長郷光式
亀(奥村栄明正室)、青山長正
養子:長鏡
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出自

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山崎氏の出自については、松原信之の唱える「越前国に官吏として赴任した藤原氏の末裔」説[1]や、山崎家伝承による「村上源氏赤松氏流の末裔」説[2]など諸説がある。

生涯

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天文21年(1552年)、誕生。当初は朝倉義景の家臣として仕えた。義景の宿老だった山崎吉家の縁戚に当たるともいわれ、父は吉家の弟・山崎吉延ともいわれるが、詳しいことはわかっていない[3]朝倉氏織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕え、天正10年(1582年)の本能寺の変山崎の戦いにも参加した。

光秀が山崎の戦いで死去すると、越前国柴田勝家に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の家臣・佐久間安政の許で戦った。勝家が死去すると前田利家、次いで前田利長に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城山口宗永山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、戦後に利長から1万4,000石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも、冬・夏の両陣に参戦している。

なお、息子の長郷の妻は、前田利家息女・豪姫の娘で、前田利長養女となった女性(理松院(貞姫・佐保姫))であったという[4]

元和6年(1620年)、死去。享年69。槍術に優れていたといわれている。

子孫

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幕末期に加賀藩家老山崎範古(やまざきのりひさ)[5]を輩出した山崎宗家の加賀藩士山崎庄兵衛家[6]を初め、その分家である大聖寺藩士山崎権丞家[7]、さらには山崎権丞家から分知分家した山崎図書家[8]、また、加賀藩士青山吉次青山長正[9]などが現在まで続いている。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 松原信之著『越前朝倉氏の研究』(三秀舎 , 吉川弘文館 (発売), 2008.5)p.333
  2. ^ 山崎範古編『山崎家譜』加越能文庫
  3. ^ 山崎七郎左衛門吉延については、岡山県成羽に伝わる近江山﨑氏の家譜に〈近江山﨑氏から七郎左衛門吉延が越前山崎氏に養子入りした〉という伝承記事あるも、加越能文庫の『山崎家譜』にはそれを裏付ける記述見当たらず。つまり、そこから推測するに、近江山﨑氏出身の七郎左衛門吉延が越前山崎氏の山崎吉家の妹と結婚して越前山崎氏に婿養子入りした可能性も考えられる。
  4. ^ 大西泰正編著『前田利家・利長』(シリーズ織豊大名の研究3)戎光祥出版, 2016.8, p81参照。
  5. ^ 山崎範古(のりひさ)はもともとは山崎権丞家の生まれ。権丞家五代目権丞無一(権丞家三代目権丞清記の三男。無一の実兄であり清記の長男、権丞家四代目権丞伊織が亡くなったため権丞家を継いだ。)の庶子として生まれたため、最初は一門の図書家二代目図書小三郎(無一の実弟。権丞家三代目権丞清記の五男。権丞家二代目権丞の四男山崎図書家初代図書長考の娘の婿養子となる。)のところに養子として入るも、宗家の山崎庄兵衛家当主を先に継いでいた無一長男の実兄伊織が早逝したため、急遽図書家後嗣の立場を離れて山崎庄兵衛家当主となり、後に加賀藩家老に任ぜられた。ちなみに、図書家の跡目は、大聖寺藩士斎藤忠兵衛家の後嗣養女となった権丞家三代目権丞清記の娘が婿養子寺西新蔵改め二代目忠兵衛を迎えて産んだ息子三代目忠兵衛の三男、つまり、権丞家三代目権丞清記の外曽孫が図書家二代目図書小三郎の娘の婿養子となり、三代目図書となった。その息子が図書家四代目、山崎久兵衛。
  6. ^ 1万4000石、のちに減知に遭い5500石。菩提寺(檀那寺)は石川県金沢市野町の曹洞宗常松寺、墓所は野田山の山崎家墓地。
  7. ^ 1000石、菩提寺(檀那寺)は石川県加賀市大聖寺の法華宗本光寺、墓所は境内墓地。加賀藩士山崎長徳娘は前田利長養女となって加賀藩士青山吉次の養子である長正(青山豊後守長正)に嫁いで四人の男児(長男正次、二男俊次、三男長鏡、四男宗長)を産んだが、長男正次は父長正後嗣となるも幼い息子吉隆を残して早世、次男俊次が分家として青山本家の後嗣吉隆後見になるも、吉隆齢十四の年、俊次から青山本家へ青山家伝来の武器銃器引き渡しの際に俊次が返却を渋り、吉隆の世話役となる青山家の家老早崎と諍いになり、俊次が早崎を手打ちにする事態が起き、吉隆が公に俊次の所業を訴え、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、俊次の立てた分家は絶家となった。三男長鏡は外祖父山崎長徳の養子となって初代山崎庄兵衛長鏡(日置謙氏の『加能郷土辞彙』(金沢文化協会、1942年1月)では、山崎長鏡を〈通称美濃、庄兵衛。實は青山豊後長次(長正)の二子(二男)で、山崎長門長德に養はれ、長徳の初諱長鏡を襲名したもの。養父の死後、その致仕料二千石を受け、後大聖寺藩に仕へて二千七百石に至つた。この長鏡を一代で絶えた如く記するものあるは理由を明らかにせぬが、後に大聖寺藩の家老であった山崎権丞がその子孫であることは確かな事実である。〉と書いている一方、永山近彰氏編纂になる『加賀藩史稿』(出版人前田直行、1899年)を見ると、青山豊後長次(長正)には四人の男子(長男正次、二男俊次、三男長鏡、四男宗長)があり、二男俊次は能登富木へ流刑に処せられてそこで没し絶家、三男長鏡は外祖父山崎長徳養子となり山崎庄兵衛長鏡として生きた云々と記述されている。つまり、俊次は、早崎家老を諍いの末にお手打ちにするという事件を起こした後、密かに山崎長徳養子の長鏡となって生まれ変わって生き延び、流刑地能登富木へは誰か悲劇的人物が罪人俊次の身代わりとして送られたこともありうるのかもしれぬ。あくまでも想像である。)となり、長鏡の長男は二代目山崎庄兵衛(但し病死により絶家)、次男(本来は三男。長鏡二男宗次は長鏡の弟の四男青山宗長の養子となった。)は大聖寺藩山崎権丞家の初代山崎権丞となった。さらに、『加賀藩史稿』の「青山宗長」の項には、青山豊後長正四男青山織部宗長には子がなく、兄の山崎庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継ぐも、ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、とある。
  8. ^ 200石、菩提寺は加賀市大聖寺の法華宗本光寺、墓所は境内墓地。山崎図書家初代図書長考は、権丞家二代目権丞の四男。図書家二代目図書小三郎は、権丞家三代目権丞清記の五男で、図書家初代図書長考の娘の婿養子となって跡を継いだ。その後は、大聖寺藩士斎藤忠兵衛家の後嗣養女となった権丞家三代目権丞清記の娘が婿養子寺西新蔵改め二代目忠兵衛を迎えて産んだ息子三代目忠兵衛の三男、つまり、権丞家三代目権丞清記の外曽孫が図書家二代目図書小三郎の娘の婿養子となり、三代目図書となった。その息子が四代目図書、山崎久兵衛。
  9. ^ 青山豊後守長正と山崎長徳娘との間の三男で山崎長徳養子の庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次の子、長貞が六代目当主を継いだ。

出典

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