大友義珍
日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本大友義武長男で、高家旗本大友氏5代当主(豊後大友氏28代当主)。従四位下侍従・式部大輔。高家肝煎を勤めた
大友 義珍(おおとも よしたか)は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本。
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 享保13年(1728年) |
死没 | 文化2年7月26日(1805年8月20日) |
改名 | 孫千代丸(幼名)→大友義珍 |
別名 | 刑部、左京(通称) |
戒名 | 樹徳院義山道隣 |
墓所 | 玉林寺 |
官位 | 従四位上・侍従・式部大輔 |
幕府 | 江戸幕府高家旗本 |
氏族 | 大友氏 |
父母 | 父:大友義武、母:大森頼隆娘 |
兄弟 | 義珍、義方 |
妻 | 正室:前田房長養女(松平康平娘) |
子 | 義智、養子:義方(他一男二女) |
延享2年(1745年)3月15日、将軍徳川吉宗に御目見する。宝暦3年(1753年)4月8日、父義武の隠居により家督を相続する。宝暦12年(1762年)8月15日、高家職に就き、従五位下・侍従・近江守に叙任する。後に従四位上まで昇り、因幡守・式部大輔と改める。寛政2年(1790年)2月29日、高家肝煎となる。寛政9年(1797年)11月12日、老齢のために職務を免除される。享和3年(1803年)3月27日、隠居し養子(実弟)の義方に家督を譲る。隠居料500俵を支給される。文化2年(1805年)7月26日死去、享年78。法名は樹徳院義山道隣。墓地は玉林寺にある。