加賀藩
加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中(現在の石川県・富山県)の3国の大半を領地とした藩。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。
概要
編集加賀国石川郡にある金沢城(金沢市)に居城。明治2年(1869年)の版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。
藩主の前田家は外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準御家門として松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の偏諱を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領した。
極官も従三位参議と他の大名とは別格で公卿となったのは徳川一門以外では前田のみ、また伺候席も徳川御三家や越前松平家などの御家門が詰める大廊下である(他の外様の国持大名は大広間)[1]など御三家に準ずる待遇であった[2]他、一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となる、将軍家にとっては陪臣である加賀八家(後述)にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格の扱いであった。
藩史
編集前史(桃山以前)
編集織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子・利長[注釈 1]に越中のうち射水・砺波・婦負三郡32万石を与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された[3]。文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る[注釈 2]。
慶長4年(1599年)利家の死後、利長に前田家の家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。 前田家は加賀北部と越中を領する利長と、能登に21万石を領するその弟・利政に分割されたが、総石高は合計83万石に達し、利長は五大老に準ずる役割を果たす(正式に利家の後任で大老になったとの異説もあり。「五大老」も参照)。
利長と関ヶ原
編集慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ(異説あり)、戦後に利政は所領を没収された。かわりに利長が利政の旧領と加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加能越3か国に及ぶ所領(加賀に能美郡白山麓の幕府直轄領あり)を獲得した。利長は領内の再検地を行ない実高の高直しを実施した[4]。
寛永8年(1631年)、将軍・徳川家光は2代・利常(利長の弟)の行動を疑い「前田征伐」を計画するが、横山康玄に陳述させ、利常も自ら長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示すことで収めた(寛永の危機)。寛永11年(1634年)8月には、家光から利常に発給された領知朱印状により、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定する[5]。
加賀百万石の確定
編集寛永16年(1639年)に利常が隠居するとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。支藩(別家)として他に前田利孝(利長の弟・利常の兄)を祖とする上野七日市藩1万石がある[6]。
宝暦9年(1759年)には火事で金沢城の本丸を始め1万5千軒余りが炎上、幕府より5万両を借用して復興にあたる。
利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫・綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。
幕末の大政奉還時は将軍・徳川慶喜を支持したが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。
明治4年(1871年)廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。
歴代藩主
編集※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)
- 前田家
- 利長 従五位下肥前守→従三位権中納言
- 利常 従四位下侍従筑前守→従三位権中納言肥前守
- 光高 正四位下左近衛権少将筑前守
- 綱紀 正四位下左近衛権少将加賀守→参議→従三位肥前守
- 吉徳 正四位下左近衛権少将若狭守→左近衛権中将加賀守→参議
- 宗辰 正四位下左近衛権少将佐渡守→左近衛権中将加賀守
- 重煕 従五位下但馬守→正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将
- 重靖 従五位下上総介→正四位下左近衛権少将加賀守
- 重教 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将肥前守
- 治脩 正四位下左近衛権少将加賀守→左近衛権中将→従三位参議
- 斉広 正四位下左近衛権少将筑前守→左近衛権中将加賀守・肥前守
- 斉泰 正四位下左近衛権少将若狭守→左近衛権中将加賀守→参議→正二位権中納言肥前守
- 慶寧 正四位下左近衛権少将筑前守→正四位上左近衛権中将→参議→従三位
なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った[7]。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表す侯を付した。
家臣
編集加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家(かがはっか)、あるいは前田八家ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上、少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在した。
人持組頭(加賀八家)
編集- 本多家(5万石)筆頭家老、維新後男爵。家紋は丸ノ内立葵。
- 長家(穴水城主3万3000石) 維新後男爵。家紋は銭九曜。
- 横山家(金沢城代[8]、富山城代3万石・国家老) 維新後男爵。家紋は丸ノ内万字。
- 前田対馬守家(越中守山城代1万8000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は角ノ内梅鉢。
- 奥村宗家(末森城代1万7000石) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
- 村井家(松根城代1万6500石余) 維新後男爵。家紋は丸ノ内上羽蝶。
- 奥村分家(1万2000石・留守居役) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
- 前田土佐守家(小松城代1万1000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は木瓜ノ内梅鉢。
- 外部リンク
主な人持組
編集- 今枝家(1万4000石・家老)
- 津田家(1万石・家老)
- 横山家(神谷家)
- 横山蔵人家(1万石・家老)
- 本多図書家(1万石・家老)
- 成瀬掃部家(8000石)
- 青山将監家(17000石-9700石-7650石)
- 青山吉次(妻は利家の姪)以降、魚津城代を4代務める。家紋は丸ノ内蔦。
- 青山吉次-長正(長次)-正次-吉隆-吉益-長貞-勇次-隼人-知次-成次-悳次-孝次
- 寺西要人家(7000石)
- 旧織田家臣で加賀松任城代を務めた寺西秀則が初代。家紋は丸ノ内九枚笹。
- 寺西秀則-孫七郎-秀勝-秀賢-秀行-秀里-秀重-秀清-秀蔵-秀祖-秀一-秀詮-要人
- 前田図書家(7000石・藩主一門)
- 前田利家の六男利貞が初代。家紋は角ノ内梅鉢。
- 前田図書利貞-貞里-貞親-貞直-貞幹-貞一一貞道-外記-貞事-貞発-又勝
- 前田織江家(7000石・藩主一門)
- 前田長種の次男長時が初代。家紋は菊一文字。
- 前田長時-長重-長成-長則-長治=長澄-道柯-道済-道章-道益-道貞
- 前田修理家(6000石・藩主一門)
- 山崎庄兵衛家(5500石)
- 多賀数馬家(4000石-6000石-5300石-4300石-5000石)
- 玉井頼母家(5000石)
- 支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。
- 玉井頼母-貞直-市正-貞信=貞衛=貞通-監物-貞矩-頼母
- 伴八矢家(5000石)
- 織田家臣伴無理兵衛の子、伴長之を祖とする。家紋は三巴。
- 伴長正-八矢-八矢-長 -方 -方平-八矢-八矢-方至-方義
- 中川八郎右衛門家(5000石)
- 前田利家の次女蕭の夫中川光重を祖とする。光重の祖父織田刑部大輔は織田信長の叔父信次の孫とされる。家紋は片喰。
- 中川光重=重勝=長種-長輝-長定-惟忠-寄忠-顕忠-典義-宮内
- 深美縫殿助家(4500石)
- 不破彦三家(4500石)
- 西尾隼人家(4300石)
- 大音帯刀家(4300石)
- 篠原織部家(4000石)
- 松平大弐家(4000石)
- 前田兵部家(4000石・藩主一門)
- 前田利意の子誠明が初代。家紋は五七ノ桐。
- 前田誠明-孝起-孝章-孝博-純孝-孝義-孝事-孝享-孝友-以孝
- 竹田掃部家(3530石)
- 横山長知の家臣であった竹田忠明の子忠次が藩主利常に小姓として登用され、後累進して、人持組となる。家紋は抱柏葉。
- 竹田忠次-忠隆-忠恒-忠徳-忠如-忠順-忠周-忠順
- 横山外記家(3500石)
- 横山長隆の長男長秀を祖とする。家紋は三巴ノ内万字。上記の横山家(神谷家)も参照。これが横山家の本家筋である。
- 横山長秀=横山(神谷)長治-横山(神谷)長昌(式部)=氏従(常知・治之)-長元-昌行-政賢-隆之
- 前田将監家(3400石・藩主一門)
- 前田直知の四男恒知が初代。家紋は三釘貫ノ内二ッ引通。
- 前田恒知-恒長-恒秦-恒篤-恒箇-恒固-孝弟-孝備-
- 三田村左京家(3300石)
- 浪人であった三田村定長は娘の町が綱紀の側室となった縁で100人扶持となる。町は5代藩主吉徳の生母となり、その弟孝言は吉徳の叔父として人持組4000石に登用された。孝言は刃傷事件を起こして知行召上となり、改めてその子定保が3000石を与えられる。家紋は鶴ノ丸。
- 三田村定長=監物(主計)-定敬(孝信)-定昌-定保-刑部-貞徳
- 菊池十六郎家(3200石)
- 生駒勘右衛門家(5000→3000石)
- 前田内蔵助家(3000石・藩主一門)
- 前田孝貞の子孝和が初代。家紋は六角ノ内梅鉢。
- 前田孝和-孝情-孝尚-孝敬-孝寧-孝保-孝錫
- 前田式部家(3000石・藩主一門)
- 篠原監物家(3000石)
- 前田監物家(3000石・藩主一門)
- 七日市藩主・前田利孝の三男寄孝が初代。家紋は丸ノ内立葵。
- 前田寄孝-察孝(孝之)-孝恒-忠孝-孝信-孝恭-道孝-孝亮-孝成-孝連-孝央
- 永原久兵衛家(3000石)
- 織田左近家(3000石)
- 本多主水家(3000石)
- 本多政長の五男政寛が初代。家紋は角切角ノ内立葵。
- 本多政辰-政良-政恒-政基-政養
- 品川左門家(3000石)
- 前田兵庫家(2500石・藩主一門)
- 前田主殿家(2450石・藩主一門)
- 上坂蔵人家(3000石)
- 小幡佳太郎家(3000石)
- 越中椎名家の家老小幡九助の養子九兵衛が祖、息子の右京、利常に1万石でつかえた。 *:右京-下野-右京-直陳-長頼-通釜-通直-通之-通理
- 伊藤主馬家(3300石-2800石)
- 3代内膳が利常に仕え3300石を与えられた。
- 甲斐守-掃部-内膳-重正-重澄-正純-時純(正固)-惟純-純祐-正延
- 奥村源左衛門家(3200石-2700石)
- 奥村永富の叔父源左衛門の家系
- 源左衞門-三郎兵衞-脩運-敬忠-匡之-尚之-主税
- 多賀典膳家(2500石)
- 初代廉清は本家直方次男であり、本家から2000石を分与され、人持組に列した。後1000石を加増され、3000石になる。
- 廉清-正直-安定-宗英
- 永原権左家(2500石)
- 赤座吉家は関ヶ原後とりつぶされ、利長に7000石で仕え、永原に改姓し、家は2代目孝治の二人の息子孝好と孝政に分け与える。
- 孝政-孝貞-孝之-孝友-孝乗-孝吉-孝成-孝
- 成瀬主税家(2500石)
- 吉政の子吉安は3000石を与えられ家がおきた。
- 吉安-憲政-生直-正生-助太郎-正晴-正順-正喬-左近-正敦-正居
- 篠島欽次郎家(2500石)
- 篠島宗永は越前の士で利家に仕えて始まる。
- 宗永-清了(織部)-清政(長政)-清長-清次-清英-定清-清平-清任-清-主馬-謙三郎-清信
- 津田主税家(2500石)
- 富田治部左衛門家(10600石-13600石-10000石-5000石-3000石-2000石-2500石)
- 富田織人家(2400石)
- 出雲尼子氏支流であり、治大夫は朝倉義景に仕え、二代治大夫、利常に仕えた。
- 治雄大夫-治大夫-重貞-貞武-貞直-貞章-貞行-左近-貞詳-貞固
- 岡島左膳家(2300石)
- 岡島一吉は利家に仕え1万1750石を与えられていた。
- 一吉-一元-長春-一定-采女-一通-一郷-一寧-一和-喜三郎
- 奥村主馬佐家(2200石)
- 奥野右兵衛家(5530石-5000石-3000石-3200石-2200石)
- 興兵衞は蒲生家家臣で息子讃岐は利家に仕え天正12年末森城の合戦後800石与えられた。
- 讃岐-氏清-氏次-右兵衞--氏之-氏辰--
- 葛巻隼之助家(2000石)
- 小幡頼母家(10950石-10650石-2000石)
- 祖は小幡右京の弟長次ぐで始まる。
- 長次-内膳-長治-立信-満清-通久-安久-可久-左京-政久--厚久
- 藤田求馬家(2000石)
- 恭安以前300石、恭安、綱紀に仕え人持組に格上げ。
- 安勝-恭安-安貞-安処-弾正-安定
- 佐-木左近大夫家(2050石)
- 松平敷馬家(2000石)
- 大弐家分家
- 康高-右馬助-康英-康雄-康久-康敬-隼人-康〆-康貞-加久丞〆信
- 横山中務家(2000石)
- 横山長知八男定治が祖
- 横山定治-
- 永井志津摩家(1750石)
- 初代庄右衛門は京極氏の家臣で、その妻は5代藩主綱紀の乳母だった。
- 庄右衛門-安左衛門-正良-正安-伝七郎-正慶-織部-舎人
- 奥村弾正家(1700石)
- 初代易貞は八家の奥村内膳家の祖奥村易英の次男で2000石を与えられて、人持組に列した。
- 易貞-忠順-成象-直之-以寧-又十郎
- 大野木良之助家(1650石)
- 勝巻久俊の次男克明は大野木に改姓し初め250石で仕え、後1650石を受けた。
- 克明-克寛-克成-隼人-舎人-良之助
- 庄田誠磨家(1600石)
- 庄田久兵衛は奥村家に仕え息子の一丞は前田綱紀に300石で仕えた。
- 久兵衛-一丞-孝済-孝正-孝仍(-孝祭-兵庫-致孝-兵庫-栄次郎
- 松平帯刀家(1500石)
- 大弐家の分家
- 久兵衞-友康-長康-康歴-興康-康保-久兵衞-帯刀
- 遠田勘右衛門家(250石-350石-1050石-1350石)
- 遠田重次は利家に仕えて250石を受け、大阪の役で活動する。自省の時代寄合組に昇格し、次代に人持組の家格に昇格。
- 遠田重次-又右衞門 -重員=自省-自邇-自久-自延
- 原頼母家(1280石)
- 土岐氏の庶流、九郎兵衛が祖。子の久左衛門が300石で利家に仕えた。
- 久郎兵衛-久左衛門-元良-五郎左衛門-元昭-元慶-元善
- 関屋一学家(1050石)
- 政春は美濃国の士で織田氏に仕えて、後500石で前田利常に仕えた。
- 政春-八丞-政知-政嗣-政恒-政良-政忠-一学
- 本多求馬佐家(1000石)
- 初代政拳は本家本多政行の次男で天明7年に新地1千石を与えられ、人持末席になる。
- 政拳-政愛-政道-左膳-周居六-葵
- 勝尾左近家(1000石)
- 勝尾氏は稲葉良通に仕え、その後前田利長に仕える。
- 勝尾平左衛門-平左衛門-信重-信 -篤信-信処-吉左衛門-信及-政之助
- 津田弾正家(1000石)
- 津田玄蕃家の分家、初代義辰は本家正真の弟。
- 義辰-正堅-正昭
藩邸および江戸での菩提寺
編集江戸藩邸は本郷五丁目に上屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス)、染井に中屋敷、深川と板橋に下屋敷があった。また、江戸における菩提寺は文京区向丘日蓮宗高耀山長元寺、下谷の臨済宗大徳寺派円満山広徳寺で支藩の富山藩や大聖寺藩はもちろん、会津藩の保科松平氏や谷田部藩の細川氏なども同寺を江戸での菩提寺にしていた。なお、支藩でも七日市藩は諏訪山吉祥寺を江戸における菩提寺としていた。
幕末の領地
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『日本一の大大名と将軍さま 徳川家も気をつかった加賀百万石の江戸時代』
- ^ 『藩史大事典』
- ^ 岩沢愿彦『前田利家』
- ^ 慶長10年(1605)4月8日、利長隠居・利光(のちの利常)宛「領知判物」(「越登賀三州志」高岡市立博物館)
- ^ 利常宛て寛永朱印状(「加賀藩文書」前田育徳会など)
- ^ 『寛政重修諸家譜』
- ^ 村川浩平「前田氏への松平氏下賜」
- ^ 『金沢城代と横山家文書の研究』石川県教育委員会金沢城調査研究所。
- ^ a b 令和6年新春展 前田育徳会寄託近世史料展Ⅲ『万石人持組横山家』展示解説資料, 金沢市立玉川図書館近世資料館
- ^ 横山政賢 編『横山氏系図』金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵 加越能文庫。
参考文献
編集- 児玉幸多・北島正元 監修 『藩史総覧』 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『三百藩家臣人名事典』 新人物往来社、1987〜1988年
- 戸部新十郎 『幕末維新 加賀風雲録』 新人物往来社、1997年 ISBN 4-404-02514-9
- 山本博文 『加賀繁盛記 史料で読む藩主たちの攻防』 日本放送出版協会、2001年 ISBN 4-14-080643-5
- 山本博文 『日本一の大大名と将軍さま 徳川家も気をつかった加賀百万石の江戸時代』 グラフ社、2009年 ISBN 978-4-7662-1271-6 ※上著の改題改訂版。
- 見瀬和雄 『利家・利長・利常 前田三代の人と政治』 北国新聞社、2002年 ISBN 4-8330-1204-9
- 宮元健次 『加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流』 人文書院、2002年 ISBN 4-409-52036-9
- 長山直治 『寺島蔵人と加賀藩政 化政天保期の百万石群像』 桂書房、2003年 ISBN 4-905564-58-1
- 宮下和幸 『前田家 加賀藩(家からみる江戸大名)』吉川弘文館、2023年 ISBN 9784642068802
関連項目
編集外部リンク
編集- 加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡 - 東京大学コレクションX
- 加賀藩江戸上屋敷遺跡の考古調査レポート
- 加賀百万石 美と歴史 - 石川新情報書府
- 加賀藩研究ネットワーク - 大学研究者らによる加賀藩研究組織
- 加賀(加賀中将治脩) | 大名家情報 - 武鑑全集
- 松乃栄 : 旧幕府之姫君加州家へ御輿入之図 - 東京大学総合図書館所蔵
先代 (加賀国・能登国・越中国) |
行政区の変遷 1639年 - 1871年 |
次代 金沢県(加賀国) 七尾県(能登国・越中国射水郡) 新川県(射水郡を除く越中国) |