下毛野古麻呂
飛鳥時代後期の公卿
下毛野 古麻呂(しもつけの の こまろ)は、飛鳥時代後期の公卿。名は子麻呂とも記される。姓は君のち朝臣。大義冠・下毛野久志麻呂の子。官位は正四位下・参議。
時代 | 飛鳥時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 和銅2年12月20日[1](710年1月28日) |
別名 | 子麻呂[2] |
官位 | 正四位下・参議 |
主君 | 持統天皇→文武天皇→元明天皇 |
氏族 | 下毛野君→朝臣 |
父母 | 父:下毛野久志麻呂 |
特記 事項 | 下野国河内郡の下野薬師寺の建立者。 |
出自
編集下毛野古麻呂は下毛野国造家である下毛野君を出自とする貴族で、下野国河内郡を本拠地とした。下野河内郡に下野薬師寺を建立し氏寺としたと云われる。
経歴
編集持統天皇3年(689年)奴婢600人の解放を上奏して許可される(この時の冠位は直廣肆)[3]。
文武天皇4年(700年)文武天皇により、忍壁親王・藤原不比等・粟田真人らと共に、律令の選定を命じられる(この時の冠位は直廣参)[4]。翌大宝元年(701年)大宝律令による位階制の施行により従四位下に叙せられると、4月に古麻呂ら3人が初めて新令を講義して親王諸臣百官人に学ばせ[5]、同年8月には大宝律令を完成させている[6]。大宝律令選定の功労により、大宝2年(702年)参議に任ぜられ、大宝3年(703年)には功田30町と封戸50戸を与えられている。
その後文武朝では、兵部卿を兼ねて従四位上まで昇進し、慶雲4年(707年)の文武天皇の崩御に際しては、造山陵司を務める。また、同年には一族の下毛野石代に対して下毛野朝臣姓から下毛野川内朝臣姓への改姓を請い、許されている[7]。
元明朝の和銅元年(708年)正四位下・式部卿に叙任され、大将軍も兼ねるが、和銅2年(709年)12月20日卒去。最終官位は参議式部卿大将軍正四位下。なお、古麻呂の卒去により霊亀3年(717年)藤原房前が任ぜられるまでの間8年間に亘って、参議が不在の状況となっている[8]。
官歴
編集『六国史』による。
その他
編集脚注
編集- ^ 『続日本紀』による。『公卿補任』では12月16日とする。
- ^ 『日本古代人名辭典』第四巻p.901。『日本古代氏族人名辞典』p.343。『日本書紀』持統天皇3年(689年)10月22日条。
- ^ 『日本書紀』持統天皇3年10月22日条
- ^ 『続日本紀』文武天皇4年6月17日
- ^ 『続日本紀』大宝元年4月7日条
- ^ 『続日本紀』大宝元年8月3日条
- ^ 『続日本紀』慶雲4年3月22日条
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『公卿補任』。また同日に兵部卿に任官しとする。
- ^ 『公卿補任』。また同日に正四位下に叙せられたとする。
- ^ 読売新聞栃木版 2016年4月14日 30面掲載。
- ^ 読売新聞栃木版 2017年2月19日 34面掲載。
参考文献
編集- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社学術文庫、1992年、ISBN 4061590308
- 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、ISBN 4642022430
- 竹内理三他編『日本古代人名辭典』第四巻、吉川弘文館、1963年、ISBN 4642020047
- [1] 無料公開マンガふるさとの偉人「下毛野古麻呂」 発行 栃木県下野市教育委員会事務局文化財課 2022年3月