一昨年、新潟県を小旅行する機会があり、阿賀野市を訪ねました。
阿賀野川沿いの安田瓦が面白いと聞き、村秀鬼瓦工房を予約無しで訪問いたしました。
10月末にしては肌寒い日でしたが、幸いにも工房の方が親切に工房内を案内して下さいました。
今の社長で4代目とのこと。
安田瓦は、江戸時代天保年間(1830~1844)頃から土質のよさ、快適性、経済性から生産されたと伝えられ、一般商品として生産されたのは、弘化4年(1847年)頃からとのこと。
明治時代になり、各地師団の増設に伴う兵舎の増改築が活発となり、弘前・旭川師団、新発田兵営の屋根工事に用いられるなど、安田瓦の真価が各地で認められるようになり、官庁、学校等の公共物の需要もあり、広く普及してきたとのことです。
大正時代には、北蒲原郡役所が発行した「新潟県北蒲原郡是」には、安田村の瓦製造戸数22、産出数量13,000坪、23,400円と見える、との記録があるとのこと。
昭和初期には、安田地区に30件ほどの瓦工場がありました。
平成の時代となり、合併・協業化により、瓦窯元は3社となっています。
私は、安田瓦の美しさについ見とれ、その場で注文しました。
何と「出来上がりは1年後」とのお話でした。
そして待つこと1年。
昨年12月上旬に、ついに村秀鬼瓦工房より見事な置物としての鬼瓦が、自宅に送られて来ました。
鬼瓦は、もともと厄や魔を払い、家代々の繫栄を願うものであり、その威風堂々たる姿とともに人々の願いや想いが込められ、主に家(家族)を守る役瓦として用いられているとの説明です。
現在では、あの弥彦神社の瓦をも請負っているとのことでした。
鬼瓦は、もともと様々な表情があり、喜怒哀楽はその代表的な表情ですが、我が家は写真のとおり、ちょっとおどけた、明るい鬼瓦です。
きっと我が家の平穏を守ってくれるでしょう。
以来私は、毎日、手を合わせています。
阿賀野川沿いの安田瓦が面白いと聞き、村秀鬼瓦工房を予約無しで訪問いたしました。
10月末にしては肌寒い日でしたが、幸いにも工房の方が親切に工房内を案内して下さいました。
今の社長で4代目とのこと。
安田瓦は、江戸時代天保年間(1830~1844)頃から土質のよさ、快適性、経済性から生産されたと伝えられ、一般商品として生産されたのは、弘化4年(1847年)頃からとのこと。
明治時代になり、各地師団の増設に伴う兵舎の増改築が活発となり、弘前・旭川師団、新発田兵営の屋根工事に用いられるなど、安田瓦の真価が各地で認められるようになり、官庁、学校等の公共物の需要もあり、広く普及してきたとのことです。
大正時代には、北蒲原郡役所が発行した「新潟県北蒲原郡是」には、安田村の瓦製造戸数22、産出数量13,000坪、23,400円と見える、との記録があるとのこと。
昭和初期には、安田地区に30件ほどの瓦工場がありました。
平成の時代となり、合併・協業化により、瓦窯元は3社となっています。
私は、安田瓦の美しさについ見とれ、その場で注文しました。
何と「出来上がりは1年後」とのお話でした。
そして待つこと1年。
昨年12月上旬に、ついに村秀鬼瓦工房より見事な置物としての鬼瓦が、自宅に送られて来ました。
鬼瓦は、もともと厄や魔を払い、家代々の繫栄を願うものであり、その威風堂々たる姿とともに人々の願いや想いが込められ、主に家(家族)を守る役瓦として用いられているとの説明です。
現在では、あの弥彦神社の瓦をも請負っているとのことでした。
鬼瓦は、もともと様々な表情があり、喜怒哀楽はその代表的な表情ですが、我が家は写真のとおり、ちょっとおどけた、明るい鬼瓦です。
きっと我が家の平穏を守ってくれるでしょう。
以来私は、毎日、手を合わせています。
背中側には、作者の記名があります
村秀鬼瓦工房より制作中の写真を頂きました
<下記、広告は、田中けんじ とは関係ありません。>